社会人としての常識、なんて代物をよく聞かされるわけですが、これは会社の数だけありますね。もしかしたら部署の数だけあるかも知れません。職場を移ればその度に「社会人としての常識」なる奇想天外な社内ルールがあるものでして、前の職場で培った「社会人としての常識」が全く通用しなかったり、よくそんなことを思いつくものだと感嘆させられるほど独創的な理由で叱責されるのもよくあることです。
会社の常識なんてものは、その会社を出てしまえば他では全く通用しない代物ばかりではありますが、それでもまぁ独自のローカルルールばかりというものでもなく、どこの会社でも通用する概念もある訳です。そしてこの「社会人としての常識」の、どこの会社でも共通する部分こそが私の最も苦手な代物だったりするもので、何とも困ったものです。
子供の頃、自分は将来何になりたいと思い描いていたでしょうか。「スポーツ選手」「運転手・運転士」「警察官」「職人」「消防士」「パン・ケーキ、お菓子屋さん」「花屋さん」「看護師」「教師」「芸能人・タレント・歌手・モデル」・・・ この手のアンケートで絶対に上位に入らないのが「サラリーマン」ですが、現実にはこの「サラリーマン」なる漠然とした枠に収まるケースが最多でもあります。どこかで軌道修正が入るのでしょうね。
子供の頃の思い出はさておくとして、今の希望は何でしょうか。今、自分がなりたいものはなんでしょう? 現実に可能と考えられる範囲、努力すれば何とか目標に届きそうな範囲で考えた場合、自分がなりたいものは何になるでしょう。
例えば非正規雇用の拡大が問題視されているわけですが、こうした非正規雇用の人々にとって望ましいのは何でしょう? 正規雇用への転換? 確かにそういう声は多いです。非正規雇用から正規雇用へ、こうなれば雇用側の一方的な都合で職を失うリスクが大幅に低減され、将来への見通しも立ちやすくなるかもしれません。あるいは、失業者、無職者が職にありつけるようにすることもそうでしょうか、安定した雇用の保障こそが一つの現実的な目標として掲げられる訳です。
しかしまぁ、明日も仕事があるというのは経済的な面で見通しを与えてくれる一方、明日も仕事だと思うとうんざりする、憂鬱になるのもまた事実です。自分のやりたいことを仕事にできた人、今の仕事に満足している人は結構なことですが、残念ながらほとんどの人は望んだ仕事には就けないわけです。自分がなりたい仕事に就く代わりに自分がなれる仕事に就いた人にとって、明日の仕事の存在は憂鬱でしかありません。そんなときにはむしろ失業の可能性すらも希望になるわけで、つまり「これから一生、この職場に縛り付けられる」と思えば絶望的な気分になりますが、「そう遠くないうちに契約を切られて放り出される」と思えば、多少なりとも気分が楽になります。こういう考え方をするのは私だけでしょうか?
今は雇用がどんどん非正規化、不安定化していく時代で、それに歯止めをかけることが重要な課題であることには間違いありません。しかし雇用を正規化して安定させればそれで満足できるものかと言えば、決してそうも行かないわけです。不安定な非正規雇用で将来の見通しが立たないのはもちろん歓迎できないことではあるのですが、では正社員として雇用が保障されていればそれで幸せになれるかと言えば、そこにも疑問の余地は少なくないでしょう。
日曜日の夜が憂鬱でならない人は少なくないはず、会社に行きたくない、そう思う人は珍しくないはずです。それでも夜が明けて会社の時間が始まればお決まりの朝礼があって「がんばろー」と、そんなノリが強要されるわけでもあります。そのように誰もが「がんばろー」とかその類の言葉を口にして仕事に向かう姿勢を露わにするわけですが、皆さん本当に、口で言うほど仕事に対して前向きな気持ちでいられるのでしょうか?
私は、口先だけですね。口先だけで「がんばろー」と語り、やる気のあるフリをして済ませます。嘘を吐いているわけですが、しかしこの嘘を吐かねばならない理由がよくわかりません。別に無理して前向きに取り組む姿勢をアピールしなくても、仕事なんだから仕方なく、そんな姿勢でもやることは変わらないはずです。そうであるにも関わらず、仕事には肯定的に、前向きに取り組まなければならない、それ以外の姿勢は許されないのが社会人としての常識、どこの会社でも変わらない社会人の常識でもあります。
この嘘を吐いてでも仕事に対して肯定的に接しなければならない圧力が、すなわち自分の内なる思いに反する態度を表に出さなければならない圧力が、特有の息苦しさを産む要因の一つではないでしょうか。人の心を縛らない、もっと自分に正直に生きることが許される社会であって欲しいものですが、残念ながら仕事に対して肯定感以外のものを向けることは許されていないようです。
社会人というその国特有の概念を持つ国では、仕事が絶対的な基準として人の価値を決めます。立派な仕事に就いている人こそが立派な人間、ダメな仕事に就いている人はダメな人間、仕事に就いていない人は扱いです。ですからどんなに素晴らしい人間でも、仕事に就いていなければ軽蔑の対象となります。どんなに素晴らしい詩人でも、それで収入を得ていなければ社会のダニ扱い、人の価値を職業が決めるわけです。
善良な人間であっても、その従事している仕事によって断罪される一方で、逆に人間として問題があっても、良い仕事に就いていればそのことによって免罪されることもまたあります。日本人にDVが多いのはもしかしたらこの辺りの影響もあるのではないでしょうか? つまり社会人として確固たる地位にあれば家庭人として失格でもそのことは免罪される、あくまで社会人としての地位こそが重要であり、会社の外でのことは度外視される、そんな世界ではしっかり働いている限りDV夫でも立派な人間として社会的に認められるわけですから。あるいは政治や社会活動への参加意識が低いとされるのも、仕事上の地位だけが人間を計る唯一の基準として君臨してきた結果かもしれません。ろくに働かないが立派な人間、というのはこの社会では存在しないのです。
大学に行くのは目的ではなく手段だ、なんて昔はよく聞かされたものですが、私が主張したいのは働くのは目的ではなく手段ではなかったか、と言うことです。何かが必要だからそのために働く、そういうビジネスライクなつきあい方で良いのではないか、何も仕事に使命感を以て心血を注ぐ必要はないのではないか、そう思うのです。好きで選べた仕事ならいざ知らず、ほとんどの仕事は子供の頃に思い描いていた夢とはまるで関係のない仕事、必要に迫られて選べる中から選ぶしかなかった仕事なのですから、それに対して無理に肯定的になろうとすれば心理的な負担が増すだけではないでしょうか。
年をとるにつれて夢は破れてゆくもので、将来のビジョンも少しずつ小さくなっていきます。サッカー選手や作家になりたかった子供も、いつのまにか「正社員になりたい」「安定した雇用を保障して欲しい」ぐらいに夢が萎むものです。今の政府はそんなささやかな夢をすら阻むような政策を続々と繰り出すわけですが、いつか左派政党が議席を伸ばして大きな方向転換でもあれば、その小さな夢は叶うかもしれません。望めば正社員になれて、継続した雇用が保障される、それだけでも大した進展ではありますが、でもそれくらいは当たり前のことであって、その先にもまだまだ取り組むべき課題はあるような気がします。
多少なりとも国民のことを考える人々が権力の座に就けば、状況が変わることはあるかもしれません。雇用政策が見直され、現在の非正規雇用層や失業者層、無業者層が正規雇用で働けるようになることぐらいは期待できるでしょう。要するに、今ダメな人間として断罪されている人々が「立派な社会人」になれるように取り計らうわけですが、いかがでしょうか? 確かに雇用の安定をもたらすことが出来ればそれは成功と言えそうですが、そうなったとしても私はあまり嬉しくないような気がします。なぜなら私は「立派な社会人」になりたいなんて思ったことがないですから。
安定した職に就けば、それで将来の見通しは立ちやすくなるかもしれませんし、「立派な社会人」として社会的な信用も得られるでしょう。だけどそれが本当に幸せなのかどうか、たしかに「立派な社会人」にならない限り、この国では人間として認められないかもしれません。若年層以外に目を向けてもこの国では職業こそが人間を保障するからでしょうか、年金受給できる年齢に達してもなお働き続けることを熱望して止まない人も少なくありません。もちろん社会保障の不備のためにやむなく働かねばならない人もいますが、少なからぬ数の人々が働くために働いている、金のためではなく「社会人」であり続けるために働いてもいるわけです。人間であり続けるためには働き続けなければならないのですか?
働くことが好きな人には結構なことですが、もっと他のことが好きな人だっています。本当は会社なんて行きたくない、他にもっとやりたいことがあるけれど、「立派な社会人」を装うために本心を偽って「がんばろー」と仕事に前向きなフリを演じる人もいます。そんな時に疑問に思うのは、仕事ってそんなに偉いのか?ということです。何が何でも肯定的に捉えられねばならないものなのか、もっと厭われても良いのではないか、仕事を厭うことは怠惰ではなく正直なだけ、仕事に前向きなのは勤勉なのではなく外面を取り繕っているだけではないのか、そんな風に感じることもあります。
仕事は絶対に肯定されねばならないものだから、仕事が嫌いな人は自らの心をねじ曲げて矯正しなければならないとしたら、それは苦痛です。もっと正直に生きることが許されるべきではないでしょうか。あるいは、しっかり働いている人こそが「立派な社会人」であり、ちゃんと働いていない人はダメな人、そんな狭い世界観が私達の生き方から選択肢を奪い、私達に自分の夢を捨てることを強いてはいないでしょうか。働いていようがいまいが、人間としての価値はもっと別の所で問われるべきですし、「立派な社会人」でなくても生きられる、骨身を削って働く以外の生き方が認められる世の中に切り替わったって良いのではないでしょうか?
旧日本軍では軍靴のサイズが足に合わないと「馬鹿者、足を靴に合わせるんだ!」と叱責されたとか。あるいは棺桶に遺体が収まらなかった場合、棺桶を作り直す代わりに遺体の足を切断して棺に納めたなんていう寓話もあります。要するに人とそれを取り巻く環境、すなわち社会との間に齟齬があった場合、人間の方を社会に合わせて矯正するわけです。現に今でも社会に受け容れられない人間が巷に溢れている中で、これをなんとかしようと「ダメな」人間を「立派な」社会人に作り替えようと頑張る人もいます。
しかしダメ人間の一人として言わせてもらえば、それによって社会から受け容れられるとしても、「立派な」社会人に自らを作り替えることははっきり言って苦痛です。そうではなく、靴や棺桶を適切なサイズのものに取り替えること、人間ではなく社会を作り替えること、こっちが選択肢として採用されるべきではないでしょうか。ダメ人間を立派な社会人に作り替えるのではなく、ダメ人間も立派な社会人も自らを歪めることなく生きていけるように社会を作り替える、その発想がもっと優先されて欲しいものです。社会のために人間を矯正するのではなく、人間のための社会を作る、当然のことです。
自分の心を無理に歪めないこと、仕事が嫌いなら嫌いで良し、とりあえずは手始めに「全ての労働は糞である」と断言しましょう。好きでもないのに好きなフリをする、やる気のあるフリを強要される、そんな謂われはありませんから。
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