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非国民通信

ノーモア・コイズミ

しょうがない人だなぁ

2007-06-30 22:10:41 | ニュース

「原爆投下しょうがない」 久間防衛相が講演(共同通信)

 久間章生防衛相は30日、千葉県柏市の麗沢大で講演し、先の大戦での米国の原爆投下について「長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない」と述べた。米国が旧ソ連の日本への参戦を食い止めるため原爆を投下した側面があるとの見方を示し「日本が負けると分かっているのにあえて原爆を広島と長崎に落とし、終戦になった」と指摘。

 どうも私には、久間防衛相の「しょうがない」という言葉の使い方に違和感が感じられます。少なくとも「賛成は出来ないが、他に方法もない、この選択を受け容れるしかあるまい」、そんな苦渋の籠もった「しょうがない」とは少なからず食い違いがあるような気がするのです。

 1945年の時点で大日本帝国の負けは確定していたわけで、その状況が確定しているところに敢えて核兵器を投下するという選択の是非を、久間氏は「しょうがない」と語りました。そのココロは「米国が旧ソ連の日本への参戦を食い止めるため」だとか。ふ~む、久間防衛相の脳内ではアメリカが核の力でソ連から日本を守ったことにでもなっているのでしょうか。

 一部の人の脳内では先の大戦は「日本を守る」ためのものだったそうで、この場合に守ろうとしていたのは日本の植民地で、それを守るために犠牲にされていたのが日本人その他であるように思われるのですが、その守ろうとしていた日本の植民地には、しっかりソ連が侵攻してきたはずですが、どうなんでしょう? まぁ久間氏も状況に応じて「日本」という言葉に含まれる範囲を使い分けているようですね。

「米国の考え方を紹介」 首相、問題ないとの認識(共同通信)

 安倍晋三首相は30日夕、久間章生防衛相が長崎への原爆投下を「しょうがない」と発言したことについて「米国の(当時の)考え方について紹介したと承知している」と述べ、問題はないとの認識を示した。被爆者への配慮を欠いたのではないかとの質問に対しても「(久間氏は)原爆の惨禍に遭った長崎についてじくじたるものがあると、被爆地の考え方についても言及されていると聞いている」と述べた。

 今の日本を牛耳っているタカ派政治家にとっては、許せる国と許せない国があるようです。ある国からは事細かに政策を指示されて、それを受け容れる一方で、別のある国から異なった意見を投げかけられると、「内政干渉だ!」と騒ぎ立てる、ある国の大使館が借地料を滞納しても「思いやり」を見せるばかり、にもかかわらず別のある国は徹底的に排除しようとする、相手によって随分と対応が違います。ある国からは殴られても靴を舐めるばかり、ある国からは話しかけられただけで拳を突きつける、好き嫌いが激しいようですね。

 で、今回の久間発言を巡り安倍総理が曰く「米国の(当時の)考え方について紹介したと承知している」と。やれやれ、どうせならばアメリカだけではなく別の国の考え方も紹介してもらいたいものです。アメリカの考え方を紹介したものだから問題ないというのなら、良い機会です、ソ連や中国、北朝鮮の考え方も紹介してください、そして「しょうがない」「恨むつもりはない」と相手国の立場に理解を示してください。

 

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緒方元公安庁長官逮捕

2007-06-29 23:28:38 | ニュース

緒方元公安庁長官逮捕 「総連売買」詐欺容疑 仲介の元社長らと共謀(産経新聞)

 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部の売買をめぐり、代金を支払う意思がないのに土地・建物の所有権を移転させ、35億円相当の不動産をだまし取ったとして、東京地検特捜部は28日、詐欺容疑で、元公安調査庁長官の緒方重威(73)▽不動産会社「三正」元社長の満井忠男(73)▽信託銀行元行員の河江浩司(42)の3容疑者を逮捕した。中央本部をめぐる売買交渉は、検事長などを歴任した大物検察OBが刑事責任を問われる事態に発展した。

 一連の取引をめぐっては、総連側から満井容疑者に4億8400万円が提供されており、特捜部は今後、こうした不明朗な資金の流れについても全容解明を進める。

 朝鮮総連本部の売買を巡って色々なネタが飛び交っているわけですが、昨日辺りから微妙に風向きが変わってきたようです。ちょっと前までは朝鮮総連を不正の主犯と位置づけた上で、緒方元長官は「共犯者」として断罪されていたように思うのですが、ここに来て突如、緒方元長官が詐欺の加害者となり、総連側が欺された被害者へと立場が激変しています。

 当初の報道では、財政上の問題を抱えた朝鮮総連が本部を手放そうとした、そこに緒方氏が手を挙げて総連本部を買い取ることになった、しかしその資金の流れに怪しいところがある、合法的な取引ではなく何か不正を隠しているのではないか、そんな憶測が中心でした。それでまぁ何かと評判の芳しからぬ朝鮮総連が舞台とあって、最初から疑惑の眼差しも強かったわけです。最初から朝鮮総連は容疑者ではなく犯人扱い、そんな悪者と取引を行った緒方氏に対しては政府与党からの批判も少なくありませんでした。

朝鮮総連仮装売買事件 緒方氏関与「万死に値」 総務相(産経新聞)

 菅義偉総務相は22日の記者会見で、朝鮮総連中央本部の土地・建物をめぐる仮装売買事件に関与した緒方元公安調査庁長官に対し、「こともあろうにかつての長官が関与しているのは民主主義国家にあってはならないことで、万死に値する。非常に憤りを感じている」と批判した。

 この菅総務相の「万死に値する」というアナクロな表現が笑いを誘うように感じられるのですが、ともあれ菅総務相は何に憤っていたのでしょう? 政界のトップとして、諸々の偽装や仮装取引で企業や団体からの献金を懐に入れるのは菅総務相にしても日常茶飯事のはず、仮装売買ごときで今さら憤ったとしてもそれはポーズに過ぎません。

 そもそも、この時点では主犯として扱われていたのは朝鮮総連であり、緒方氏が個人的な欲望から不法行為に手を染めたとする見方は少なかったはずです。緒方氏への批判は朝鮮総連の不正に荷担したことに対するものであり、朝鮮総連を「助けた」ことに対する批判ではなかったでしょうか。要するに、菅総務相や政府与党が憤っているのは彼らの仮想敵である北朝鮮、北朝鮮関連の施設に対する利益供与、すなわち「利敵行為」に対して憤って見せたのです。

 しかるに調査が進むと、どうやら緒方氏は財政破綻の朝鮮総連に手を差し伸べる気などさらさら無く、弱みにつけ込んで不動産と資金を騙し取ろうとしていた可能性が濃厚になってきました。緒方氏と同様に朝鮮総連の「共犯者」として槍玉に上げられていた土屋公献弁護士の立場も二転三転、こちらも緒方氏に一杯食わされた被害者である可能性が高まっている模様です。今まで緒方氏や土屋氏の「利敵行為」を批判してきた人はどういう顔をするのでしょうね?

 まぁ、朝鮮総連は朝鮮総連できな臭いところもあるわけですが、多少の難点があってもそれでいきなり全否定、関係を断絶して一方的に排除しようとするのも問題です。情緒的な面よりも実利を優先して、ナアナアで付き合い続けていくべき時もあります。そして北朝鮮を相手にこのナアナアのつきあいを長年に渡って続けてきたのが自民党だったはずです。本来、北朝鮮に対して最も強硬姿勢を見せていたのは共産党で、逆に色々と目を瞑りながらつきあい続けてきたのが古い自民党、そういうほんの数年前までの歴史を鑑みれば、公安の元トップと朝鮮総連が裏で癒着していたとしても別に驚くようなことはありません。政府与党がここまで北朝鮮及びその関連団体を敵視するようになったのは、つい最近のことなのですから。

 

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給料が高くてもえぇじゃないか

2007-06-28 23:40:39 | ニュース

市バス運転手の3割、年収1000万超 神戸(神戸新聞)

 神戸市の市バス運転手のほぼ三割が、年収一千万円を超えていることが二十七日、分かった。採用の抑制などで年齢の高い職員の割合が増えているほか、長時間の時間外勤務などが要因という。民間のバス運転手と比べれば、平均年収が一・八倍となり、給与面での官民格差を裏付けた。

 公務員の厚遇への批判が強まる中、国の指示を受け、市が交通局などの高額年収者についてまとめた。

 まとめによると、バス運転手三百八十三人(平均四八・八歳)のうち、二〇〇六年度の年収が一千万円を超えたのは百十人(29%)に上った。最高は千二百九十万円だった。

 交通局は高額年収者が多い理由として、バス路線の一部民間委託で年齢の若い運転手を中心に配置転換が進み、年齢の高い職員が増加したことに加え、時間外手当が多いことを挙げている。

 例えば、欠勤した運転手に代わって、ダイヤ上の公休日に運転した場合、終日時間外勤務として扱われる。時間外手当の平均は四百六十三時間あり、年間に一千四十八時間分の手当を受けた運転手もいた。

 同局は「特殊勤務手当の見直しを実施しており、今後も時間外勤務の縮減に取り組みたい」としている。

 公務員が高給取りと言われるようになったのはいつ頃からでしょうか? 高度経済成長期やバブル期に高給を追い求める人が選んだのは公務員ではなく民間企業でした。公務員が儲からない職業と位置づけられていた時代も存在するはずなのですが、今やすっかり忘れられてしまったようです。

 別に今でも上場企業の役職者は概ね公務員よりも高給取りであるわけですが、その辺りは意識されることもなく、公務員ばかりが槍玉に上げられる傾向にあります。確かに勤労者所得の中央値が下がり続ける中で、労働条件を維持してきた公務員が相対的に高給になってしまったところはあるかもしれません。しかるに、そこで非難されるべきは労働条件を悪化させた側であるべきなのですが、なぜか労働条件を保っていることに非難囂々です。

 私の雇用契約書を見てみましたら、OA機器の操作は最大で連続1時間まで、連続1時間の作業をしたら最低10分の休止期間を設けることが義務づけられていました。そんな契約は全く守られていません。一方で模範的な社会保険庁では45分の連続作業の後は15分の休憩を挟む方針でやっていたそうで、その辺は政府も実は提示していたガイドラインに沿っていただけ、労働法制を遵守していただけのことなのですが、これにも非難囂々です。

 店員をやっていた頃の話ですが、当時一番の高給取りは派遣社員の某氏でした。毎月残業は50時間くらいだったでしょうか、膨大な残業時間があったわけですが、正社員には残業代がちゃんと払われていなかった一方(違法ですね)、派遣社員の某氏にだけは契約通りに残業代が支払われていました。その結果、派遣社員の某氏が店で一番の高給取りになることもあったわけです。

 今回のバス運転手の場合もそんなもの、なんと年間に1048時間もの時間外勤務になった運転手もいたそうですが、これほど膨大な時間外勤務に対して労働基準法に沿った手当てを支給すれば、高給取りになるのは当たり前ですね。それなのになぜか非難囂々、法を遵守しただけにもかかわらず、怨嗟の声が渦巻いています。ここは無法者の国なんでしょうかね?

 労働条件を維持してきたことが非難され、健康維持のために無理をさせなかったことが非難され、労働基準法を遵守したことが非難される、ふ~む、世も末です。これでは労働条件を次々と切り下げ、労働者を過労死するまで絞り上げ、労働基準法は完全に無視、そんな雇用主が増えるのも当然ですね。それが国民の望んだことなのですから。アイツをもっと働かせろ! アイツを休ませるな! アイツに手当なんか払うな! そんなことを言っている人がたくさんいる限りは仕方がありません。もうちょっと自分の権利のことでも考えて欲しいものなのですが・・・

 ちなみに他所のブログを覗いてみて感じたのですが、やっぱり運転手って軽蔑されているなぁ、と。運転手の給与は低いのが当然、そんな社会的合意があるのでしょうか。これが会社役員の給与の話だったら何の話題にもならなかったのでしょうけれど、運転手の給与の話となると途端に「貰いすぎだ!」という話になりがちです。とはいえ、なんで運転手の給与が低くなければならないのでしょう?

 たとえば3K仕事など、実に不思議なものです。きつい仕事、汚い仕事であれば、その分を埋め合わせるべく高給取りであってしかるべき所ですが、なぜか給料まで安かったりします。社会的に栄誉ある仕事、みんながやりたがるような仕事であれば逆に給与は安くても釣り合いはとれそうなものですが、これが給与まで高かったりするから不思議なものです。結局、職業に対する貴賤意識が根強いのでしょう、どれほど必要とされていても賤しい仕事と見なされたものは給与も低くあるべき、必要とされていなくとも貴いと見なされた仕事は給与も高いのが当然、そんな暗黙の了解があり、その貴賤の分類も全く不当な基準で為されているのが現状のようです。

 儲かる仕事にだけ高い給与を払い、儲からない仕事にはまともな給料を払わない、市場原理ならそういうものなのかもしれませんが、誰もが儲かる仕事に飛びついたら社会は成り立ちません。中には採算性は低いけど必要とされている仕事、公共性の高い仕事もあります。そもそも稼いでいないから給料を払わないというのなら、軍隊や消防、警察には給料なんて払えないでしょう? 営利目的の民間企業ならいざ知らず公的機関が雇っているのなら、採算性以外の基準を持つのは当たり前であり、職種は違えど人並みに働いている人に人並みの給与を出すのも当たり前です。バスの運転手の給料が低くあるべき理由なんてどこにもありませんね。

 

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ゲームが好きでもえぇじゃないか

2007-06-27 23:20:01 | ニュース

ゲームのやり過ぎは中毒症状ではない=米専門家(ロイター)

 米国の精神科医らは24日、いわゆる「ゲーム中毒」をアルコール依存症と同様の精神疾患とは位置付けない考えを示した。米国医師会(AMA)の年次総会で明らかにした。

 米国で影響力のある一部精神科医のグループは先に、診断の際に参考にされる専門書の中に、「ゲーム中毒」を精神障害として加えるよう提言していた。

 総会では、中毒症状の専門家らもそうした方針には強く反対、ゲーム人口の約10%が問題を抱えているとされる「ゲームのし過ぎ」について、さらに研究を進める必要があるとの認識を示した。

 マウントシナイ大学のスチュアート・ギトロー博士は「(ゲーム中毒が)アルコール依存症やその他の薬物乱用障害に並ぶ病状だと示すものは何もない」と指摘。その上で、中毒という表現を使うことについても疑問を呈した。

 精神障害と位置付けられれば、「ゲーム中毒」にも保険が適用される可能性が出てくる。

 ちょっと前のことになりますが、重度のゲーム愛好者を精神障害の枠に入れてしまおうという動きがあったわけです。ゲームが好きだからという理由で精神障害として扱われては溜まらないなぁ、ということでこの動きを懸念していたわけですが、ここで反対の動きも出てきたようです。しかるにここで気になったのは最後の一文「精神障害と位置付けられれば、「ゲーム中毒」にも保険が適用される可能性が出てくる。」 ・・・この発想はありませんでしたね。保険適用こそが最も懸念される事柄なんでしょうか。

 ゲーム好きを精神障害に認定しようとの動きは、一部の熱狂的なゲーム嫌いの人々による働きかけの結果だと思っていたのですが、こういう経緯で作られた「精神障害」は単に否定ための方便でしかない場合が多いわけです。日本でも一部で「ニートは精神障害」などと言って憚らない人がいますが、この辺の人はただ「ニート」を軽蔑したいだけである場合がほとんどです。

 規範意識なるものが幅を利かせる社会では「障害」なんてものはマイナスの意味しか持ちません。求められる「規範」から外れた人は不良品として選別され、規範通りに作り直されることを要求されるわけです。会社中毒、労働中毒、国家中毒は規範に沿っているので合格、ゲーム中毒は規範から外れているので不良品、同じ中毒でもモノによっては賞賛され、モノによっては侮蔑されることもあります。単なる「違い」ではなく、そこには明白な優劣があります。

 ゲーム好きが精神障害と認定されたならば、それはゲーム嫌いの人がゲーム好きの人を悪罵する合理的な理由を与えることにしかならないでしょう。単にゲームが好きか嫌いか、その趣味が違うだけで相手を一方的に非難したならば、それは単に個人の好き嫌いで相手を非難していることにしかなりません。しかしゲーム好きが「精神障害」であり、規範から外れた不良品として認定されたとしたら? その時は「やつらは異常な人間なのだ」とのお墨付きの元、堂々と断罪に走ることを可能にしてしまうのではないでしょうか。「正常な」人間が「異常な」人間を教え導く国ですから。

 先週に取り上げたばかりなのですが、スウェーデンではヘヴィメタルの熱烈な愛好者を精神障害と認定して補助金を支給したとか。ただこれは、人は誰しも何らかの障害を持っている、その障害の種類が違うだけとみなすスウェーデンの福祉政策があってのこと、人を正常と異常の二つに隔てている国では考えられないことですし、そもそもスウェーデンでさえもヘヴィメタル中毒への助成金には賛否両論です。現実問題としてゲーム中毒が精神障害と位置づけられたとしても、白眼視が強まることこそあれ、保険適用の可能性は薄いでしょう。

 万が一ゲーム中毒に保険が適用されたとしても、それはゲームから足を洗わせるための治療に対する保険適用であって、ゲーム好きで仕事に身が入らない人への補助金が出ることは益々以て考えらない事態です。でも、いいんじゃないですかね、ゲーム好きに補助金。ゲームばっかりじゃなくて、サッカーでもヘヴィメタルでも、ブログでも子作りでも、政治活動でも読書でも、何でもいいから補助金を出す。仕事のために趣味を犠牲にしてきた人が、もっと趣味に走れるように助成してやったらいいのではないでしょうか。そんなことをしたら、誰も働かなくなるって? でもそれくらいで良いのです。みんなが働きたがるから、労働力の安売り競争が始まるのです。誰も働こうとしなければ、雇う側だって考えるのではないでしょうか。その人の趣味嗜好と両立できる範囲で働かせること、これくらいの譲渡はしていただかねばなりますまい。

 

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つながり?

2007-06-26 23:17:46 | ニュース

薄れる「人のつながり」に警鐘…国民生活白書(読売新聞)

 高市少子化相は26日午前の閣議に、「つながりが築く豊かな国民生活」と題した2007年版の国民生活白書を提出した。

 今回で50回目となる白書は、家族、地域、職場という3つの「場」での人の「つながり」に焦点を当て、個人や社会に与える影響を分析した。長時間労働やIT(情報技術)化などで、いずれの場でも人間関係が希薄化し、個人の精神的不安定、家庭でのしつけ不足、地域の防犯機能や企業の人材育成能力の低下など、経済・社会に深刻な影響を与えると警鐘を鳴らしている。

   ダ ウ ト !

 短い中にもツッコミどころが多すぎて戸惑いすら感じさせる文章です。どこから突っ込んで良いものやら・・・ とりあえず白書が掲げるところに拠れば「繋がり」を大切なものとして重視したいようです。でもどうでしょう? 「つながり」を訴えるその口で盛んに「自立」を言い立てているとしたら、ちょっと変な感じもしませんか?

 まぁ「つながり」と「自立」は全くの正反対というものでもありません。共存できるところもあるのでしょう。そして「つながり」と「自立」が現代から失われているとするのが半ば定説となってはいる訳ですが、この前提からして疑わしく感じます。一口に「つながり」や「自立」と言ってもそこに含まれるものは色々あるわけで、そんな中から都合の良いものだけを取り出して「つながり」が失われている、「自立」出来ていない、そんな風に語られてはいないでしょうか。

 長時間労働によって、ますます会社と人間の「つながり」は深まりつつありますし、IT化によって家庭に仕事を持ち込むことが容易にもなりました。仕事を通じた「つながり」は今なお君臨し続けているのではないでしょうか? あるいは私的な交友関係にしたところで、携帯やメールの普及で執拗なまでに「つながり」を追い求める人が増えたように感じるのは私だけでしょうか? 携帯やメールの普及で「つながり」は空間的なものではなくなったかもしれませんが、それは形を変えただけのこと、むしろ現代の方が「つながり」への渇望は強く、この「つながり」を失うことへの強迫観念に駆られている人は増え続けているではないでしょうか。

 家庭でのしつけ云々もそうです、むしろ昔よりも執着心が強くなったところはないでしょうか? 昔ほどには子供を放任することが出来ない、逆に子供を自分の思い通りに育てたい、支配したいという思いは過去の時代よりもずっと強いのではないでしょうか? 今の親たちの子供への「つながり」は良かれ悪しかれヤワなものではありません。そして地域の防犯機能云々、そもそも昔よりも凶悪犯罪が大幅に減っている時代において防犯機能が問われる必要性がわかりませんが、これが低下していると言われます。本当でしょうか? 現実は一部地域で自警団的なものが根付きつつあり、その社会の標準から外れた人が危険人物として監視対象にされる有様です。企業の人材育成能力の低下も語られてはいますが、国民一人一人は貧しくとも企業全体の業績は戦後最長の回復軌道、バブル期を上回る業績を叩き出しているわけです。本当に、上手くいっていないのでしょうか?

 どうも私には束縛としての「つながり」ばかりが強まりつつあるように思われるのです。そして「自立」の名の下に行われているのは単なる切り捨てではないか、とも。束縛としてのつながりが強まる中で、支援を必要とする人や共同体が自立の名の下に切り捨てられている訳です。

 そこで失われているのは、共に支え合う「つながり」です。様々な形で追い詰められた人々のつながり、虐げられたものが連帯して立ち上がるためのつながり、そんな「つながり」であれば確かに失われているでしょう。不当な低賃金で無理な労働を強いられている人々、不当な雇用関係の元で忍従を強いられている人々、不当に人権を制限されている人々、不当に社会保障から切り捨てられた人々、こうした人々が連帯して立ち上がるための「つながり」、失われつつある「つながり」とはまさにこれであり、豊かな国民生活を築くために必要なつながりもまたこれであるように思われるのですが、さて高市少子化相が念頭に置いた「つながり」とは何なのでしょうか。

 

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軍隊化する社会

2007-06-25 23:26:54 | ニュース

新入社員は自衛隊で磨く 体験入隊、規律学び連帯感育てる(産経新聞)

リンク切れの場合はこちら

 企業が新入社員研修の一環として自衛隊に体験入隊させるケースが相次ぎ、18年度の入隊者が前年度の3割増の2万5700人に上ることがわかった。背景には個性重視の環境で育った若者に規律を学ばせて人材育成の強化を図りたい企業と、防衛省に昇格して活動をPRしたい自衛隊側の思惑の一致がありそうだ。

 研修の多くは2泊3日の日程で駐屯地に泊まり込み、部隊から指導を受ける。期間中は団体行動と時間厳守が徹底され、指揮官の命令に従って基本動作をする訓練や、10キロ近くを隊列を組んで歩く行進訓練をこなす。

 体験入隊を取り入れる企業は、こうした規律や礼儀を学ばせることを目的にしているとみられ、物流メーカー「センコー」(大阪市)の呑田好文・人事部顧問は「ルール順守を最優先する自衛隊で、個を大切にする教育を受けてきた世代に、団体行動規範を学ばせたい企業が増えているのでは」と話す。

 これからの自衛隊の主な役割は以下の3つになるのではないかと予測しています。一つはレスキュー活動、別にこれは自衛隊でなければ出来ないことではないわけですが、とりあえず自衛隊にレスキュー活動の能力がある限り、これは頑張ってもらいましょう。もう一つは、米軍の後方支援ですね、これが「本来任務」と呼ばれ、「国際貢献」の名の下に自衛隊の看板となるでしょう。そして3つめは何でしょうか? 私は「教育」だと思います。

戦うだけが軍隊ではないようだ

 年始に書いたのが↑このエントリ、これは中国の場合ですが、社会不適格者の烙印を押された少年たちを軍事訓練で矯正しようとする試みを取り上げ、批判したものです。日本でもこういう動きは加速するだろう、と上記エントリでは書いたわけだったのですが、実は日本もとっくにそういう流れになっていたようです。う~ん、私もまだまだ勉強不足ですね・・・

 新入社員研修の一環として自衛隊に体験入隊させられた人の数がH18年だけでなんと2万5700人、まさかここまで多かったとは驚きました。ちょっと正確なデータが見つけられなかったのですが、平成18年度における20~24歳の就業者数が478万人、この辺から類推しますと1年辺りは100万人程度の人が新規に就職するのでしょうか。昨今では非正規雇用や中途入社もあるわけですから、新人研修の対象になりそうなのはそのうち80万人程度、このうちの2万5700人が自衛隊に体験入隊するとしますと、その割合はおおよそ30人に一人となります。30人に一人と聞くと、随分と自衛隊を身近に感じてしまうのですがいかがなものでしょう?

 現代の日本は自らを「サムライ」という軍事階級に擬えることを殊更に好む文化圏でもあります。長きにわたる日本の歴史の中でも、軍隊が幅を利かせていた特定の時代ばかりを好む人も増えています。なぜか会社のお偉方が一様に歴史小説、それも軍記物や軍人を主人公にしたものを好むことでもよく知られています。軍隊的なものを好む下地は意外に豊富なのかもしれません。ではその軍隊的なものの中の何が好まれているのでしょうか?

 自衛隊の役割にも色々とあるわけです。その中には当然、武器の扱い方もあります。自衛隊に体験入隊するなら、自動小銃の扱い方を練習するのもアリではないでしょうか? しかるに会社の研修として参加した場合に教えられるのはこうした兵器の扱い方ではなく、団体行動と時間厳守、指揮官の命令に従って基本動作をする訓練や、10キロ近くを隊列を組んで歩く行進訓練だそうです。どうして機関銃や迫撃砲の訓練ではないのでしょうか? せっかく自衛隊に体験とはいえ入隊しているのに!

 曰く「ルール順守を最優先する自衛隊で、個を大切にする教育を受けてきた世代に、団体行動規範を学ばせたい企業が増えているのでは」と。今の若い世代が本当に子を大切にする教育を受け、それが身についているのであれば規範意識云々を振りかざす政党の支持者が若い世代に多いはずがないように私には思われるのですが、ともあれ会社側が新入社員に学ばせたいのは、「ルール順守を最優先する」こと、そして「団体行動規範」のようです。

 ルールや規範を守ることの必要性にも一理ありますが、問題はこの場合に遵守することが絶対視されているルールや規範が、特定の人によって作られ一方的に押しつけられたものであるところです。そこに参加する人々が対等な立場で意見を交わした上で、それで合意に達したルールならばいざ知らず、一部の人が独断で定めたルールを遵守させる、それに疑問を抱くことさえ許そうとしないとしたらどうでしょう? 上がルールを決め、下は黙ってそれに従う、それが理想なんでしょうか?

 支配する側にとって、軍隊的な価値観は親和性の高いもののようです。それを構成する人間ではなく組織を優先すること、上が定めたルールに一方的に従わせること、上に対する疑問を抱かせないこと、上から下への上下関係を決して崩さないこと、以上の全てを正当化すること、会社が自衛隊に望むのはそんなところでしょうか。人に合わせた社会を作るのではなく、社会に合わせて人間を作っていく、その方向性は変わりそうにありませんね。

 昔から日本の会社の研修は軍隊的と言われてきました。軍隊に入れる代わりに軍隊のまねごとをすることで済ませてきたのでしょうか、いずれにせよこの眼目は個人の価値観を捨てさせて会社の価値観を強要するところにあるように思われます。そして方向性は結局変わらないまま、実際に自衛隊に入れるケースが増えているのが昨今のようで、その割合は30人に一人に達します。徴兵制なんてのは現実味の薄い話かもしれませんが、「教育」の名の下に軍隊に入れられる、そんな可能性があることは考えておいた方がよいのかもしれません。

 

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日本にも「ポゴ党」を

2007-06-24 22:08:56 | 非国民通信社社説

 社会人としての常識、なんて代物をよく聞かされるわけですが、これは会社の数だけありますね。もしかしたら部署の数だけあるかも知れません。職場を移ればその度に「社会人としての常識」なる奇想天外な社内ルールがあるものでして、前の職場で培った「社会人としての常識」が全く通用しなかったり、よくそんなことを思いつくものだと感嘆させられるほど独創的な理由で叱責されるのもよくあることです。

 会社の常識なんてものは、その会社を出てしまえば他では全く通用しない代物ばかりではありますが、それでもまぁ独自のローカルルールばかりというものでもなく、どこの会社でも通用する概念もある訳です。そしてこの「社会人としての常識」の、どこの会社でも共通する部分こそが私の最も苦手な代物だったりするもので、何とも困ったものです。

 子供の頃、自分は将来何になりたいと思い描いていたでしょうか。「スポーツ選手」「運転手・運転士」「警察官」「職人」「消防士」「パン・ケーキ、お菓子屋さん」「花屋さん」「看護師」「教師」「芸能人・タレント・歌手・モデル」・・・ この手のアンケートで絶対に上位に入らないのが「サラリーマン」ですが、現実にはこの「サラリーマン」なる漠然とした枠に収まるケースが最多でもあります。どこかで軌道修正が入るのでしょうね。

 子供の頃の思い出はさておくとして、今の希望は何でしょうか。今、自分がなりたいものはなんでしょう? 現実に可能と考えられる範囲、努力すれば何とか目標に届きそうな範囲で考えた場合、自分がなりたいものは何になるでしょう。

 例えば非正規雇用の拡大が問題視されているわけですが、こうした非正規雇用の人々にとって望ましいのは何でしょう? 正規雇用への転換? 確かにそういう声は多いです。非正規雇用から正規雇用へ、こうなれば雇用側の一方的な都合で職を失うリスクが大幅に低減され、将来への見通しも立ちやすくなるかもしれません。あるいは、失業者、無職者が職にありつけるようにすることもそうでしょうか、安定した雇用の保障こそが一つの現実的な目標として掲げられる訳です。

 しかしまぁ、明日も仕事があるというのは経済的な面で見通しを与えてくれる一方、明日も仕事だと思うとうんざりする、憂鬱になるのもまた事実です。自分のやりたいことを仕事にできた人、今の仕事に満足している人は結構なことですが、残念ながらほとんどの人は望んだ仕事には就けないわけです。自分がなりたい仕事に就く代わりに自分がなれる仕事に就いた人にとって、明日の仕事の存在は憂鬱でしかありません。そんなときにはむしろ失業の可能性すらも希望になるわけで、つまり「これから一生、この職場に縛り付けられる」と思えば絶望的な気分になりますが、「そう遠くないうちに契約を切られて放り出される」と思えば、多少なりとも気分が楽になります。こういう考え方をするのは私だけでしょうか?

 今は雇用がどんどん非正規化、不安定化していく時代で、それに歯止めをかけることが重要な課題であることには間違いありません。しかし雇用を正規化して安定させればそれで満足できるものかと言えば、決してそうも行かないわけです。不安定な非正規雇用で将来の見通しが立たないのはもちろん歓迎できないことではあるのですが、では正社員として雇用が保障されていればそれで幸せになれるかと言えば、そこにも疑問の余地は少なくないでしょう。

 日曜日の夜が憂鬱でならない人は少なくないはず、会社に行きたくない、そう思う人は珍しくないはずです。それでも夜が明けて会社の時間が始まればお決まりの朝礼があって「がんばろー」と、そんなノリが強要されるわけでもあります。そのように誰もが「がんばろー」とかその類の言葉を口にして仕事に向かう姿勢を露わにするわけですが、皆さん本当に、口で言うほど仕事に対して前向きな気持ちでいられるのでしょうか? 

 私は、口先だけですね。口先だけで「がんばろー」と語り、やる気のあるフリをして済ませます。嘘を吐いているわけですが、しかしこの嘘を吐かねばならない理由がよくわかりません。別に無理して前向きに取り組む姿勢をアピールしなくても、仕事なんだから仕方なく、そんな姿勢でもやることは変わらないはずです。そうであるにも関わらず、仕事には肯定的に、前向きに取り組まなければならない、それ以外の姿勢は許されないのが社会人としての常識、どこの会社でも変わらない社会人の常識でもあります。

 この嘘を吐いてでも仕事に対して肯定的に接しなければならない圧力が、すなわち自分の内なる思いに反する態度を表に出さなければならない圧力が、特有の息苦しさを産む要因の一つではないでしょうか。人の心を縛らない、もっと自分に正直に生きることが許される社会であって欲しいものですが、残念ながら仕事に対して肯定感以外のものを向けることは許されていないようです。

 社会人というその国特有の概念を持つ国では、仕事が絶対的な基準として人の価値を決めます。立派な仕事に就いている人こそが立派な人間、ダメな仕事に就いている人はダメな人間、仕事に就いていない人は扱いです。ですからどんなに素晴らしい人間でも、仕事に就いていなければ軽蔑の対象となります。どんなに素晴らしい詩人でも、それで収入を得ていなければ社会のダニ扱い、人の価値を職業が決めるわけです。

 善良な人間であっても、その従事している仕事によって断罪される一方で、逆に人間として問題があっても、良い仕事に就いていればそのことによって免罪されることもまたあります。日本人にDVが多いのはもしかしたらこの辺りの影響もあるのではないでしょうか? つまり社会人として確固たる地位にあれば家庭人として失格でもそのことは免罪される、あくまで社会人としての地位こそが重要であり、会社の外でのことは度外視される、そんな世界ではしっかり働いている限りDV夫でも立派な人間として社会的に認められるわけですから。あるいは政治や社会活動への参加意識が低いとされるのも、仕事上の地位だけが人間を計る唯一の基準として君臨してきた結果かもしれません。ろくに働かないが立派な人間、というのはこの社会では存在しないのです。

 大学に行くのは目的ではなく手段だ、なんて昔はよく聞かされたものですが、私が主張したいのは働くのは目的ではなく手段ではなかったか、と言うことです。何かが必要だからそのために働く、そういうビジネスライクなつきあい方で良いのではないか、何も仕事に使命感を以て心血を注ぐ必要はないのではないか、そう思うのです。好きで選べた仕事ならいざ知らず、ほとんどの仕事は子供の頃に思い描いていた夢とはまるで関係のない仕事、必要に迫られて選べる中から選ぶしかなかった仕事なのですから、それに対して無理に肯定的になろうとすれば心理的な負担が増すだけではないでしょうか。

 年をとるにつれて夢は破れてゆくもので、将来のビジョンも少しずつ小さくなっていきます。サッカー選手や作家になりたかった子供も、いつのまにか「正社員になりたい」「安定した雇用を保障して欲しい」ぐらいに夢が萎むものです。今の政府はそんなささやかな夢をすら阻むような政策を続々と繰り出すわけですが、いつか左派政党が議席を伸ばして大きな方向転換でもあれば、その小さな夢は叶うかもしれません。望めば正社員になれて、継続した雇用が保障される、それだけでも大した進展ではありますが、でもそれくらいは当たり前のことであって、その先にもまだまだ取り組むべき課題はあるような気がします。

 多少なりとも国民のことを考える人々が権力の座に就けば、状況が変わることはあるかもしれません。雇用政策が見直され、現在の非正規雇用層や失業者層、無業者層が正規雇用で働けるようになることぐらいは期待できるでしょう。要するに、今ダメな人間として断罪されている人々が「立派な社会人」になれるように取り計らうわけですが、いかがでしょうか? 確かに雇用の安定をもたらすことが出来ればそれは成功と言えそうですが、そうなったとしても私はあまり嬉しくないような気がします。なぜなら私は「立派な社会人」になりたいなんて思ったことがないですから。

 安定した職に就けば、それで将来の見通しは立ちやすくなるかもしれませんし、「立派な社会人」として社会的な信用も得られるでしょう。だけどそれが本当に幸せなのかどうか、たしかに「立派な社会人」にならない限り、この国では人間として認められないかもしれません。若年層以外に目を向けてもこの国では職業こそが人間を保障するからでしょうか、年金受給できる年齢に達してもなお働き続けることを熱望して止まない人も少なくありません。もちろん社会保障の不備のためにやむなく働かねばならない人もいますが、少なからぬ数の人々が働くために働いている、金のためではなく「社会人」であり続けるために働いてもいるわけです。人間であり続けるためには働き続けなければならないのですか?

 働くことが好きな人には結構なことですが、もっと他のことが好きな人だっています。本当は会社なんて行きたくない、他にもっとやりたいことがあるけれど、「立派な社会人」を装うために本心を偽って「がんばろー」と仕事に前向きなフリを演じる人もいます。そんな時に疑問に思うのは、仕事ってそんなに偉いのか?ということです。何が何でも肯定的に捉えられねばならないものなのか、もっと厭われても良いのではないか、仕事を厭うことは怠惰ではなく正直なだけ、仕事に前向きなのは勤勉なのではなく外面を取り繕っているだけではないのか、そんな風に感じることもあります。

 仕事は絶対に肯定されねばならないものだから、仕事が嫌いな人は自らの心をねじ曲げて矯正しなければならないとしたら、それは苦痛です。もっと正直に生きることが許されるべきではないでしょうか。あるいは、しっかり働いている人こそが「立派な社会人」であり、ちゃんと働いていない人はダメな人、そんな狭い世界観が私達の生き方から選択肢を奪い、私達に自分の夢を捨てることを強いてはいないでしょうか。働いていようがいまいが、人間としての価値はもっと別の所で問われるべきですし、「立派な社会人」でなくても生きられる、骨身を削って働く以外の生き方が認められる世の中に切り替わったって良いのではないでしょうか?

 旧日本軍では軍靴のサイズが足に合わないと「馬鹿者、足を靴に合わせるんだ!」と叱責されたとか。あるいは棺桶に遺体が収まらなかった場合、棺桶を作り直す代わりに遺体の足を切断して棺に納めたなんていう寓話もあります。要するに人とそれを取り巻く環境、すなわち社会との間に齟齬があった場合、人間の方を社会に合わせて矯正するわけです。現に今でも社会に受け容れられない人間が巷に溢れている中で、これをなんとかしようと「ダメな」人間を「立派な」社会人に作り替えようと頑張る人もいます。

 しかしダメ人間の一人として言わせてもらえば、それによって社会から受け容れられるとしても、「立派な」社会人に自らを作り替えることははっきり言って苦痛です。そうではなく、靴や棺桶を適切なサイズのものに取り替えること、人間ではなく社会を作り替えること、こっちが選択肢として採用されるべきではないでしょうか。ダメ人間を立派な社会人に作り替えるのではなく、ダメ人間も立派な社会人も自らを歪めることなく生きていけるように社会を作り替える、その発想がもっと優先されて欲しいものです。社会のために人間を矯正するのではなく、人間のための社会を作る、当然のことです。

 自分の心を無理に歪めないこと、仕事が嫌いなら嫌いで良し、とりあえずは手始めに「全ての労働は糞である」と断言しましょう。好きでもないのに好きなフリをする、やる気のあるフリを強要される、そんな謂われはありませんから。

 

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ピューリタニズムかな

2007-06-23 23:28:03 | ニュース

告! えなりかずき“風俗遊び”報道のどこが名誉毀損か?(ナイスポネット)
 
 「こればっかりは許す事ができない」と憤るのは、東京都内でソープランドを経営するA氏(仮名・52歳)。A氏怒りの原因は今月13日にスポーツ新聞各紙で報じられた『えなりかずき夕刊紙2紙を告訴』の記事。
 要約すると、俳優のえなりかずき(22)が自分に対する“風俗店通い疑惑”を報じた「日刊ゲンダイ」「内外タイムス」の2紙をその記事は事実無根であり名誉を傷つけられたとして、告訴したというもの。
 「記事が事実と違うのかどうかは関係ない。私が許せないのは、仮に誤報であるにしても、なぜ“風俗通い”が名誉毀損なのかということです。これは、私だけでなくこの業界で働く全ての人を侮辱する行為で、おまえこそ我々の名誉を毀損しているじゃないか、と言いたいんです」

 「昨年の風営法改正を契機に業界内では、健全化を目指す動きが活発になってきているんです。法令順守はもちろんですが、税金もきちんと申告し国民の義務も果たしています。つまり風俗店も一般の職業と何ら変わらない意識で働いているのです。えなり君もレストランに入ったとか映画館に入ったとか報じられてそれが事実と違うからと名誉毀損で訴えることはしないでしょう。だから今回の告訴は明らかに職業差別であり、Aさんが憤るのも無理のない話です。無論、怒っているのはAさんだけじゃないはずですよ」

 女性アイドルが男と付き合って事務所から追放されたりと、清純派思考の強いカマトト文化圏ではそう言うこともあるわけですが、こちらは男性ながら清純派を売りにするえなりさんのケースです。清純派のえなり氏としては風俗通いとの報道はイメージダウンに繋がるとして名誉毀損の訴えを起こすも、一部の関係者から「風俗のどこが悪い!」と反論が出たようです。なんと言いますか、本人が好きである限り、それを恥じる謂われはないと思います。

三笠宮寛仁さま、アルコール依存症で入院治療(読売新聞)

 寛仁さまは今年3月以降、体調不良で入退院を繰り返していたが、今回、専門医がアルコール依存症と診断した。重度の不眠や食物をうまく飲み込むことができない症状もあり、宮邸での静養では改善が見込まれないことから、入院して治療に専念されることになったという。

 イギリス王室の誰かがアル中で病院に収容されても驚きませんが、日本の皇族となると意外な感じもしますね。今回の件は割と同情的な意見も多いようですが、高円宮承子氏の乱交ぶりが知られたときには結構な騒ぎだったのを思い出します。ある意味で日本の皇族というのは偶像崇拝の対象ですから、アイドルと同様に清純であることを強く要望される立場なんでしょう。アイドルのファンも皇族のファンも似たようなもので、自らの崇める偶像が人間らしい「汚れ」を見せることに強い拒絶反応を示すような気がします。

「成長を実感に!」 自民党が新ポスター、全国に掲示(産経新聞)

 自民党は21日、参院選に向けた新しいポスターを発表した。クールビズ姿の安倍晋三首相をあしらい、キャッチコピーは「成長を実感に!」。年金記録紛失問題を機に逆風が強まっている安倍政権だが、改革への決意と清潔感を前面に押し出し、巻き返しを図る。

 疑惑まみれのクセに何が清潔感だよ、と思わずツッコミを誘う記事ですね。でもどうでしょう? 自民党が清潔感やその類を全面に押し出すようになったのはいつ頃からなんでしょう? 都合の悪いことは全部他人のせいに仕立て上げ、さも自分だけは正しいかのように装い続けた先代首相の頃にその傾向が極端に強まったような気もしますが、それ以前はどうだったでしょうか?

 そう遠くない昔には、清濁併せ呑むのが大人、正論ばかり振りかざすのは未成熟な子供、そういう価値観も強かったのではないでしょうか。そして清濁併せ呑む大人の政党を自認していたのが自民党であり、対立する左派政党の主張を潔癖すぎて現実的でないものとして退けていたようなイメージがあります。現に北朝鮮問題にしたところで、古い自民党はあくまで協調路線であり、対決姿勢を露わにしていたのは共産党だったわけです。ちょっときな臭いところのある相手とでも実利を重視して付き合うのが元々の自民党、実利を度外視してでも正義を貫こうとしたのが共産党、それがいつの間にか逆転しています。酸いも甘いも受け付ける大人の自民党から、(装いだけは)自らの理想を貫く青臭い清純派の自民党へ、潔癖な若者が左派政党ではなく自民党を支持するようになった要因の一つはこの変転にありそうです。ま、清純派のアイドルも一皮むけば・・・なのですが、アイドルのファンはその辺を認めたくないのかもしれません。

 

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Heavy Metal Music in my blood!

2007-06-22 23:00:36 | ニュース

へヴィ・メタル・ファン、精神障害に認定される(BARKS)

スウェーデンに在住するヘヴィ・メタル・ファンが、彼の音楽に対する執着は精神病であると認定され、扶助金を受けることや仕事場で音楽をかけること、コンサートのために職場を離れることが許された。

この男性ロジャー・ツルグレン氏(42歳)は、'71年にブラック・サバスを聴いて以来“ロック中毒”になり、この10年間、他人に自分の状態を理解してもらおうと苦闘してきたそうだ。そして、精神科医による度重なる検査の結果、このたび正式に病んでいることが認められたという。

『Daily Mirror』紙によると、ツルグレン氏はこう話しているという。「大人になって、別のジャンルを聴くべきだっていう人もいるだろう。でも、俺にはそれはできない。へヴィ・メタルは俺のライフ・スタイルだ。事実、音楽に入れ込み過ぎて、仕事にも影響を及ぼしてる。いくつかの仕事は辞めざるを得なかった」

彼は現在レストランで皿洗いのアルバイトについているらしいが、そこでの給料に加え、コンサート・チケットやCDが購入できるよう週65ポンド(約1万5,000円)の障害者手当てが給付されることになった。スウェーデンの職業安定所は「へヴィ・メタルは彼の人生の多くの面を支配しており、我々は彼に障害者扶助金を払うことを認めた」と話している。

この決定には、当然のこと疑問の声が上がっている。同国のセラピストは「とても奇妙なことだ。ギャンブル中毒の人を、競馬場へは送らないだろう。依存症を直そうとするはずだ。奨励するのではなくね」と話している。

メタル・ファンには何とも寛容なスウェーデン。しかし、子供にメタリカと名づけることが問題となったのもこの国だった。

 さすがですね、スウェーデン、最高です。日本でこんなことが起これば、やれ○○特権だの、度を超した要求だの、わがままだのと非難囂々でしょう。他人がイイ思いをすること、他人が権利を認められること、他人が福祉の恩恵を受けることに怒りを以て応じる文化圏ですからね。まぁ、スウェーデンでも一部では疑問の声を投げかける人もいるようですが、それでも公的機関が彼の生き様を後押ししているところは実に素晴らしい。

 この決定を賞賛する理由は、私がヘヴィメタル好きだからではありません。別にこの中毒として認められた対象が、釣りでもゴルフでも構わないわけです。重要なのは、彼が「治療」される代わりに「扶助」されるようになったこと、禁止によって矯正される代わりに積極的に奨励されたことです。すなわちヘヴィ・メタル・マニアというマイノリティが、マジョリティに同化を強要される代わりにマイノリティとして生きる権利を認められたことであり、この人権感覚、自分とは異なった価値観を許容し尊重する方向性は絶賛に値します。

 マジョリティの価値観が、あるいは強者の価値観が「正しい」規範として君臨する世界では、マイノリティあるいは弱者は治療あるいは矯正の対象として位置づけられます。支配する側にとって、自分達と異なるスタイルを持った人間は不愉快な異物でしかないわけで、これをいかに排除して自分達にとって快適な世界を作るか、そんな意図を以てマイノリティ及び弱者は遇されます。ヘヴィメタルにうつつを抜かして仕事に全身全霊を投入しないような輩は治療されるべき、矯正されるべき、支配する側にとって好都合な人間に作り替えられるべき、そのように位置づけられるわけです。

 逆にマジョリティ及び強者の価値観がマイノリティ及び弱者の価値観と等価に置かれている世界では、このような治療と矯正は意味を持ちません。マイノリティからマジョリティへの同化、弱者が強者に組み込まれることは、上昇ではなく水平移動に過ぎないのです。仕事に身を捧げる人間が正しい、ヘヴィメタルにうつつを抜かす人間が間違っている、そんな上下関係ではなく、等価に置かれた関係、どちらも尊重されるべき生き方として認められる、それがスウェーデンモデルの理想なのでしょう。

 この辺りの考え方は障害者の位置づけにも通底しているわけです。つまり障害者と健常者の関係を、一方は異常で一方は正常と捉えるか、あるいはお互いに違っているだけと捉えるか、ですね。前者の場合は「異常」の側に位置づけられた人々が「治療」の対象となり、「治療」によって彼らを「正常」な世界に組み込むことを福祉の目的とします。そして後者の場合は、どちらも正常でも異常でもない、お互いに助け合い、違いを認め合うこと、これを支えることを福祉の目的とするわけです。さてさて、あなたのお好みはどちらでしょうか?

 

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ヒマラヤに問い合わせ

2007-06-21 22:53:37 | ニュース

ヒマラヤに問い合わせ ブータンに初のコールセンター(朝日新聞)

 ブータンで初めての英語のコールセンターを開設する準備が進んでいる。米国の顧客がかけた国内通話がヒマラヤのふもとに転送され、ブータン人のオペレーターが応答する。農業と水力発電以外に産業がない人口約70万の小国で、若者に就職の機会を与えるとして期待を集めている。

 ティンプーの真新しい5階建てビル。8月に地元企業「ドゥルコンネット・ビジネスサービス」が開設するコールセンターになる。民族服姿の若者たちがオペレーターの研修を受けていた。研修は5月に始まり、英語の発音矯正や聞き取り、欧米の文化、パソコンのタイプの練習など、必要な基礎がたたき込まれる。

 有名なところでは、デルのコールセンターが中国にあって、日本語が通じないことがあると悪名高かったりもします。電話上の言葉だけのやりとりですから、いくら訓練しても母国語でないと支障を来す場面はどうしても出てしまうのでしょうね。そして今回は、ブータンにコールセンターを設置するとか。ユーザーからしてみればどうなんでしょうか。いくら頑張っても、母国語でない言語を完璧に操れる人はなかなかいないものですが。

 とりあえず、企業にとっては好ましいことなのでしょう。中国なりブータンなり、人件費の安い国にコールセンターを移設すれば大幅なコストダウンに繋がるわけです。コストばかりを優先する姿勢が質の低下を招き、ユーザーからの信頼を損ねることがあるにしても、それでもこうした動きは後を絶たないわけで(日本国内でも、コールセンターを都市部から地方に移設する傾向が見られます)、それだけ企業側にとっては有効性が高いやり方のようです。

 では、受け容れ側としてはどうでしょうか。ある意味では、雇用拡大のチャンスです。薄給のコールセンターといえども雇用の創出には違いないわけで、就職難の続く地方やブータンのように農業以外に産業がない国にとっては、ビジネスチャンスと映ることもあるのかもしれません。引用記事はまさにその視点から書かれており、「若者に就職の機会を与えるとして期待を集めている」と語られています。

 しかし、このコールセンターを建設する側と、オペレーターを供出する側の関係はどうでしょう。お互いに対等な立場に立った、共利共生の関係でしょうか。例えば、原料輸出国と原料輸入国の関係を考えてみましょう、この関係が最も鮮明に浮き上がるのはカカオやコーヒーの場合です。この辺りはアフリカにおける産出量が多いわけですが、その割にアフリカは貧しいままです。過去の半世紀でカカオやコーヒーを輸入してきた国は飛躍的に豊かになりましたが、輸出する側の国は貧しいまま、原料を供給する立場と加工する立場、お互いに支え合うべきビジネスパートナーの関係であるはずですが、なぜか利益を享受するのは片方だけです。お互いに頑張っても、片方だけが一方的に利益を受ける、そんな関係もあるわけです。

 気候がそれに適した国が原料生産を担当し、インフラが整った国が加工と商品化を担当する、あるいは、それを得意にする人が外で働いて、それを得意にする人が家事に専念する、このような分業も効率を考える上では否定できるものではないのですが、そのためにはあくまで対等なパートナーとしての関係であること、そして役割が固定化されないこと、強制されないことが必要です。つまりアフリカと欧米諸国のような関係にならないこと、片方だけが得をするパートナー関係ではなく、お互いが等しく利益を享受できる関係でなければなりませんし、役割が分担されていても、それを望まない人には別の選択肢を用意できる間柄でなければなりません。

 ブータンは1970年代よりGNH(国民総幸福)を目標に掲げる国でもあります。世界経済からは取り残されても、国内での衣食住には困らない国、医療や教育は無償で誰でも受けられる国、そういう国作りを掲げてきました。何もかも上手くいっているわけではないようですが、路頭に迷う人はいないそうです。ブータンとはそんな国だったわけですが、否応なしに世界経済に巻き込まれることで、これから先はどうなるでしょうか? 僅かばかりの外貨獲得と引き替えに、永遠に米国企業の下請けとなるとしたら、それは後々大いに悔いることとなるでしょう。

 

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