強姦罪の被告に最高裁が逆転無罪 「犯罪の証明不十分」(朝日新聞)
千葉市で2006年に女性(当時18)を強姦(ごうかん)したとして、強姦罪に問われた東京都内の配送業男性(53)の上告審で、最高裁第二小法廷(千葉勝美裁判長)は25日、懲役4年の実刑とした一、二審判決を破棄し、無罪とする逆転判決を言い渡した。無罪判決が確定する。最高裁が「事実の誤り」を理由に無罪を言い渡すのは異例。
男性と犯行を結びつける証拠が被害者の供述しかない事件だったが、第二小法廷は「被害者の供述が信用できるかの判断は、特に慎重に行う必要がある」との考え方を示した。別の小法廷が09年4月に、電車内の痴漢事件について示した判断と同様の内容で、性犯罪の捜査や裁判に与える影響は大きいとみられる。
男性は06年12月27日午後7時過ぎ、千葉市内の歩道で女性に「ついてこないと殺すぞ」と声をかけ、近くのビルの階段踊り場で強姦したとして起訴された。男性側は「強姦ではなく、同意を得た性的行為だ」と無罪を主張していた。
第二小法廷は、女性が声をかけられた場所は人通りもあり、近くに交番があったのに、助けを求めなかった点などを不自然と指摘。「一、二審判決は経験則に照らして不合理で、犯罪の証明が不十分だ」と結論づけた。
4人の裁判官のうち、検察官出身の古田佑紀裁判官は「性犯罪は被害者が萎縮して抵抗できない場合も多く、一、二審判決は不合理とは言えない」と反対意見を述べた。
さて、ちょっと前ですがこういう判決がありました。地裁と高裁の判決が最高裁で覆されるのは珍しくないイメージですけれど(とりわけ行政が相手の訴訟の場合!)、今回はかなり個人的な争点の裁判でもあります。報道によると一、二審判決は有罪だったのが最高裁で証明不十分との理由から無罪となったそうですが――
古田佑紀裁判官が「性犯罪は被害者が萎縮して抵抗できない場合も多く、一、二審判決は不合理とは言えない」と反対意見を述べたことが伝えられています。一見すると、もっともらしく聞こえないこともありません。「性犯罪は被害者が萎縮して抵抗できない場合も多く」というのは、多分そうなのでしょう。ただ疑わしきは罰せずとの原則に立つなら、被告が100%クロでなければ有罪判決を下してはならないはずです。被害者が萎縮して抵抗できなかったことも十分に考えられますが、それは被告がシロである可能性を疑わせこそすれ、クロであることを証明するものではないように思います。「被告がシロとは考えられない」という理由から有罪の判決を下すとすれば、それこそ不合理と言うほかありません。往々にして検察は、疑わしい人間が身の潔白を証明できなければ有罪として扱うと批判されがちですけれど、検察官出身という古田裁判官の考え方はどれほどのものでしょう。
引用元では痴漢事件についても言及されていますが、この痴漢行為もまた「疑わしきは罰する」的な処遇が頻繁に取り沙汰される分野です。痴漢だと訴えられた時点でアウト、もう走って逃げるしかない、クロである証拠はなくともシロと証明することが出来なければ犯人扱いされると、それこそ冤罪が題材の本が出たり映画が作られたりするレベルにもなっているわけです。で、面白いのは性犯罪関係ですと普段とは言っていることが正反対になる人が多いことでしょうか。いつもは冤罪を厭わず厳罰化を唱えているような人が痴漢の冤罪だけは問題視したり、あるいは逆に冤罪の問題を深刻視している人が痴漢や性犯罪に限っては被害者側の証言ばかりを重視して冤罪の可能性に関しては沈黙を守ったり等々。
個人的な見解を述べるなら、やはり冤罪を産む事態は絶対に避けるべきであって、痴漢事例で顕著とされる被害者側の証言だけで犯人扱いしてしまうような運用には大いに問題があるように思います。じゃぁ被害者側は泣き寝入りかと、そんな反論もあるでしょうか。ただ私としては「犯人」を罰することと「被害者」を保護することは分けて捉えるべきものと考えます。被害を訴える人を救済するという面では緩く扱ってよい、すなわち被害者の証言だけでも十分なものとして扱っても構わないけれど、だからといって容疑者を犯人として認定するかどうかは別問題として処するべきです。
まず「犯人を罰する」ばかりが「被害者を救済する」ことの絶対条件なのか、そこを問い直してほしいと思います。「犯人を罰する」ことに拘らずとも、「被害者を救済する」のは別に不可能なことではないでしょう。「被害者を救済する」という旗を掲げて、不十分な証拠でも「犯人を罰する」べく拳を振り上げる人も少なくないようですが、それがセットでなければならない必然性はないはずです。容疑者を徹底的に断罪することが被害者への支援なのか、そうではなく別個に動くことは可能ではないのか、その辺は再考の余地があるのではないでしょうか。
とかく世論は、自らの懲罰勘定が満たされることを、それこそ自らが置かれた環境そのものの改善以上に望んでいるところがあるようにすら見えます。例えば北朝鮮との拉致問題では、もはや拉致被害者の帰国よりも北朝鮮への制裁措置の方が目的化しつつありますし(とりわけ救う会や家族会は)、あるいは原発事故後の対応でも、いかに東京電力に重い罰を下すかが競われるばかりで、住民への負の影響を最低限にするにはどうすべきかと言った観点は欠落しがちです。そして痴漢などの性犯罪や、各種刑事事件の裁判でも同様、加害者への罰にばかり重きが置かれて、実は被害者はほったらかし、それなのに厳罰を叫ぶことであたかも被害者に寄り添っているかのごとく振る舞われている、そんなフシはないでしょうか。むしろ「犯人」を罰することを二の次にしてこそ被害者重視と考えられても良さそうなところですけれど、罰を与えてやらなければ被害者が救われないと、そうやって罰の方を追求するのが当たり前になっているとしたら、何かが間違っています。