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非国民通信

ノーモア・コイズミ

【更新】宗主国の言語と現地の言葉

2025-05-25 21:16:55 | 社会

※移転先(Amebaブログ)に新規投稿しました。

 

宗主国の言語と現地の言葉
https://ameblo.jp/rebellion2006/entry-12905984977.html

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罪に問われない危害の加え方

2025-04-27 21:33:10 | 社会

 人を殴ったら犯罪か──というと時と場合によるもので、少なくとも学校であれば不問に付される、スクールカーストの「上」から「下」への暴行であればコミュニティの間では許容されがちです。社会人になってもブラック企業の閉鎖的な人間関係の中では一方的な暴力が存続している可能性は否定できませんが、ただやはり大人になると許されないケースが増えていくものでしょう。市中で見知らぬ人にいきなり殴りかかったら、米軍兵士でもない限りは捕まります。

 ただ人に危害を加える方法は暴力だけに止まるものではありません。相手を殴打せずとも、例えば「病気をうつす」ことによって他人の身体を罪に問われることなく害することは出来ます。新型コロナウィルスの感染拡大が(一部の人々の頭の中で)終了して以来、世の中にはコロナだけではなくインフルエンザ、マイコプラズマ肺炎、百日咳やノロウィルスが再び蔓延するようになりました。昨今では「はしか」も感染例が相次ぎ、日常生活における感染リスクは高い状態が続いています。

 一方で「マスクは任意」という価値観が幅広く浸透した結果、何らかの感染症の症状が客観的に現れていても尚、外出や出勤を厭わず人混みの中で憚ることなく元気いっぱいに咳き込む人々が目立つようになりました。昔から「辛くても休めない自分」をアピールすべく、「インフルじゃないから」と言い張って強行に出社を続けて周りを巻き込む人はいたものですが、そういう性質を持った人にとっては生きやすい時代が到来したと言えるでしょうか。

 当然ながら、感染症に罹患した状態で他人に接近しウィルスをまき散らす人々は周囲に被害を及ぼす、無関係なはずの第三者に重大な健康リスクを及ぼすわけですが、こうした人々を取り締まる仕組みは実質的にありません。シートベルトやヘルメットの着用を義務化することは出来てもマスクは任意、食品を扱う店舗であってすらマスクは任意です。誰かがウィルスをまき散らすことで他人に危害を加えたとしても、善良な人間はそれに黙って耐えるしかない、これが我が国の現在なのでしょう。

 

「コロナ対策不十分」 従業員が感染死、飲食店に7000万円賠償命令(毎日新聞)

 東京・歌舞伎町の中華料理店で働いていた男性が新型コロナウイルスに感染して死亡したのは、店の感染対策が不十分だったためだとして、男性の遺族が店側に約8000万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は27日、店側に約7000万円の賠償を命じた。大須賀寛之裁判長は「客にマスク着用を求めず、会話や人数の制限もしていなかった」と指摘した。

 判決によると、男性は店に住み込みで勤務しており、政府による新型コロナ対策の「まん延防止等重点措置」が取られていた2021年7月、新型コロナの感染が確認され、2カ月後に死亡した。

 

「上司の帯状疱疹から感染、意識障害に」 京都地裁が因果関係認める(京都新聞)

 帯状疱疹(ほうしん)にかかった上司からウイルスをうつされたことで水痘(水ぼうそう)や別の病気を発症したとして労災保険の給付を求めた30代女性が、労災認定をしなかった京都下労働基準監督署の処分を不服として国に処分取り消しを求めた行政訴訟で、京都地裁(植田智彦裁判長)は22日、業務と病気との関連があったとする女性側の訴えを認め、取り消しを命じた。

 判決によると、女性は京都府内の金融機関に勤務していた2018年6〜7月ごろ、帯状疱疹を発症した上司と約2メートル離れた席で書類や決裁のやりとりをし、自身も水痘を発症した。さらに意識障害が出て、てんかんと、過度の眠気が出る「ナルコレプシー」の診断を受けた。

 

 一方で、僅かながらも明るい話題がこちらです。病気をうつされることが被害であると司法に認められるケースが出てきました。ただこれはあくまで裁判に訴えた結果でもあります。他人を殴れば現行犯ですが、感染症を抱えた状態で他人に接触するのは加害行為とは見なされない、まだまだ法が感染症から市民を守るにはほど遠いのが現状です。被害者が泣き寝入りしてしまえばこのような判決には至らず、強い意志を持って訴え出ることで漸く補償が得られる、重要な一歩ではあるものの、まだまだ小さな一歩に過ぎません。

 新型コロナウィルスへの警戒感が強かった頃は、無節操に外出して咳をまき散らす人も少なく、そうした人から正しく距離を置こうとする世間の理解もありました。今はどこもかしこも感染症対策を放棄して、いつでもどこでも誰かは病気に感染しているのが当たり前となったわけです。私の勤務先でもコロナ対策は終わりましたが、その代わりにコロナ感染で休む人は珍しくなくなりました。まぁ、休んでくれればマシな方、中には何らかの感染症に罹患した状態で出勤を楽しんでいる人もいることでしょう。

 新型コロナウィルスの流行は、一時的に我々の社会を進歩させました。公衆衛生の水準を一時的に向上させ一時的にコロナ以外の感染症を激減させた、一時的にリモートワークを普及させ一時的に満員電車を激減させました。これはGHQ占領以来の変化だ、アメリカに負けて日本が民主化したように、コロナに負けることで日本社会は新たなステージへと進むのだと私は期待したものですけれど、現実はコロナ前への退行を見せています。

 リモートワークで自宅から出ないなら、感染症に罹患していても誰かに迷惑をかけることはありません。それは至って合理的なのですが、世間の流行は出社回帰であり、偉い人ほど合理性を嫌い社員を通勤させたがるわけです。そして偉い人に同調して出世の階段を駆け上がるような人ほど出社勤務に戻りたがる、何かに感染していても元気いっぱいに咳き込みながら、満員電車に乗って通勤し、オフィスでもマスクは付けずに周囲に自分の顔を披露している、これが我が国の現在地なのですね。

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連帯を表明しても断られそう

2025-04-21 22:03:30 | 社会

 かつてフランスの週刊新聞である「シャルリー・エブド」紙がムハンマドを揶揄する風刺画を掲載し、イスラム教徒からの激しい抗議に晒されたことがありました。それに対して「Je suis Charlie (私はシャルリー)」と、一部界隈ではシャルリー・エブド紙への連帯を表明するスローガンが盛んに掲げられたものです。これもまた西側諸国の連帯意識をよく象徴する一幕と言えるでしょうか。

 2022年、クーデター政権と反政府勢力の内戦が続いていたウクライナでロシアとNATOとの戦争が始まると、欧米各国は競ってウクライナからの「避難民」の受け入れに手を挙げました。日本政府はパスポートを所持していなくてもウクライナ人を受け入れることがあり得ると答弁していたところですが、日米欧の政財界だけではなく、世界中の庇護を求める難民もまたウクライナへの連帯を表明すべきであったと思います。「Je suis Ukrainien(私はウクライナ人)」と。

 

「女性」は生物学的女性のみ、トランスは除外 英最高裁が法解釈(CNN)

ロンドン(CNN) 英最高裁は16日、同国の平等法で定める「女性」の定義にトランスジェンダー女性は含まれないとの判断を示した。

判決では、平等法の女性という用語について、「生物学的な女性および生物学的な性別」を指すと指摘した。裁判官5人全員一致の判決だった。

今回の裁判では、性別認定証明(GRC)を持つトランス女性が、2010年平等法の女性に対する差別を禁じた条項の下で保護されるかどうかが争われた。

2018年に訴えを起こした英スコットランドの女性運動団体は、保護される権利があるのは出生時に女性と分類された人に限られると主張。これに対してスコットランド政府は、GRCを持つトランス女性は法律上は女性であり、従って法的に保護の対象になると反論していた。

 

 ……そしてこのニュースです。差別主義者が歓喜の声を上げている様子がチラホラ見えますが、どうなんでしょう。色々と考慮すべきものはあるにせよ世の中が長らく男性中心に回ってきたところは否定できない、女性が追いやられてきたところはあるように思います(これに対する是正策には悪手も多い印象は拭えませんが)。そこで「je suis une femme(私は女です)」と、男性もまた女性への連帯を表明したって良いじゃないか、というのが私の考えですね。

 よく「女性ばかりが優遇されている」「男性に対する逆差別が行われている」みたいに言う人がいるわけです。もし本当に女性の置かれた立場が羨ましいのなら、女になれば良いのでは、と私は思います。せっかく「トランス」という概念が多少なりとも広まっているのですから、本当に女性が優遇されていると信じているのであれば実際に女性になってみればいいじゃないか、と。

 ただ結局のところ「元男性」とは「元外国人」のようなものなのかも知れません。先般は中国への憎悪を煽り立てる言論で人気を博していた中国籍の自称評論家が日本国籍を取得し、維新から参院選に立候補する意向を表明したところ、自身の愛読者層から怒濤の誹謗中傷を寄せられて出馬を断念する、なんてことがありました。法律上は日本人でも、「元外国人」は永遠に外国人という扱いが望まれているようです。

 とりわけ大相撲なんかでは「日本出身」という冠が好まれます。角界にはモンゴルなど外国出身で日本国籍を取得した「法律上の日本人」が多いわけですが、「日本人」の定義にトランス日本人は含まれない、出生時に日本人と分類された人だけを日本人として扱っているのが現状ではないでしょうか。男も女も外国人か日本人かも、生まれた後での選択は認められない、生まれた時点でどこにカテゴリ分けされるかは決まっている、現代とはまだまだそういう水準と言えます。

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衛星国と独立国の違い

2025-02-23 21:35:56 | 社会

人工知能はDeepSeekに続け!中国で過熱するAI教育、“国産”人材輩出に企業も親も躍起に(Wedge ONLINE)

 メディアでこうした経歴が披露されると、中国の保護者たちは沸き上がった。SNSには「彼はアメリカ留学組ではないのか。国内で学んだだけでここまですごいことができたとはすばらしい。中国の宝だ」「こんな逸材がいたなんて、やはり、我々はアメリカに負けていない」といった意見がさかんに飛び交った。

 梁氏の会社の主要メンバーである羅福莉氏も1995年生まれ、四川省の田舎出身で、北京大学大学院で修士号を取得した「天才少女」と呼ばれた女性だが、留学は未経験者だ。2人に共通するのは地方出身であること、そして、学歴は高いものの、それほど恵まれた環境で育ったわけではないという、たたき上げの人物であることだ。こうした経歴が、アメリカにライバル意識を持つ人々を喜ばせた。

 

 先月は"DeepSeek"という中国企業開発のAIが話題を呼びました。私の勤務先でも速やかに使用禁止令が通達されるなど、日米欧各国からは少なからぬ驚異と見なされていることが分かります。かつてのHuaweiがそうであったように、品質や性能面で欧米製品を上回れば上回るほど政治的な排除は強まるところですが、その結果は何をもたらすのでしょうか。確かにHuawei製品は日米欧のスマートフォン市場からは一掃されたかも知れません。にもかかわらずHuawei社自体は確実に成長し独自の製品開発も続いているわけです。

 中国への半導体及び関連製品の禁輸措置は強まるばかりであり、日本もまた忠実にアメリカの指令に従っています。最先端の半導体を中国の研究者や企業は手にすることが出来なくなったはずですが──その結果として中国は独自の技術研究を推し進め、ついには半導体の性能面での不利を覆しかねない技術を実現させつつあります。振り返れば日本も世界第二位の超大国であった当時はアメリカから諸々の圧力もかけられました。そこで日本と中国は別々の対応を選んだわけですが、綺麗に明暗が分かれたと言えるでしょうか。

 ともすると日本の大学は母国語ではなく英語で授業をやっているのが自慢、まるで英会話学校のようなカリキュラムを誇り、教育よりも語学留学の斡旋に力を入れているような類いが幅を利かせるようになりました。宗主国で認められているかどうかこそが成功の尺度であり、MLBでは散々な成績でも元メジャーリーガーとして「メジャー挑戦」前よりも高額の年俸を勝ち取る野球選手の存在も今となっては当たり前です。一方の中国では留学組ではなく国内大学の出身者が欧米から脅威と見なされる成果を上げているところで、これは率直に羨むほかありません。

 教授言語の母国語化は独立国であるための必須要件で、これを達成できない即ち宗主国の言語でしか高等教育が行えない国というのはどうしても、教育が語学のハードルをクリアした一部の人間だけの特権となり研究水準を底上げできない、宗主国のおこぼれに預かるばかりの国となってしまいます。日本も近代化にあたって外国の概念を日本語に落とし込む先人の営為が続いて今に至るのですが、近年は逆に教授言語の英語化が推し進められ日本語の拡張も行われなくなりました。今や何か新しい概念が国外で生まれてもそれは新たな日本語として落とし込まれることはなく、カタカナ英語として箔を付けるのに使われるだけ、文理双方の分野で日本の教育は退行を見せていると言わざるを得ません。

 

国公立大理系でも定員満たず全員合格 高校生に支持が広がらない「女子枠」の理想と現実(産経新聞)

女子枠は、出願者を女子に限定した入試制度で、主に理工系学部の総合型・学校推薦型選抜で行われている。大学によって志願動向に大きな差があるといい、人気の大学もある半面、志願者が募集人数に満たないケースや志願者が全員合格というケースもあるという。

24年入試の女子枠では、東北工業大で募集人員17人に対し志願者ゼロ。国公立でも琉球大工学部で募集人員20人に対し志願者数は2人で合格者が2人、北見工業大工学部で募集人員16人に対し志願者は13人で全員合格だったという。

 

 そんな我が国では女性の活躍に期待するというのが既定路線として続いてきたのですが、いかがなものでしょうか。医学部では学力試験で女性の受験者が優位に立つ傾向が見られ裏で調整があったり等々と問題になった一方、医学部以外の理系学部に女性はあまり興味を見出していないようです。医学部入試で合格点をとれるならば他の学部なんて余裕、わざわざ下駄を履かせる必要もないと言えますけれど、しかるに女性限定の特別枠を設けてもなお女性の志願者は集まらず定員割れすら起こっている有様とのこと、代わりに排除された男性受験者からの憤りが強まるとしても致し方ないところでしょう。

 

理工系の「女子枠」が拡大しても“やっぱり受験しない”と決めた女性たちのリアルな本音 「ほぼ男子大学はイヤ」「女が行っても仕方がないと親に刷り込まれて」(マネーポストWEB)

 Aさん(神奈川県/20代)は、工学部に行った姉の姿を見て、自身は別の学部に進学を決めたという。

「2つ年上の姉が地元の大学の工学部に進学しました。姉を見ていると、工学部は、大学生活で“損”をする気がしたんです」

 なぜ、大学生活が“損”になるのか。これは個人の考え方に大きく関わる部分だが、Aさんは「大学ではそこそこ遊びたかったから」だと本音を明かす。

「姉は、入学当初はメイクもおしゃれも頑張って通っていたみたいですが、夏休みが明けてからはほぼすっぴん、普段着に変わっていきました。聞くと『おしゃれをしても見せる相手がいないし、必修も多くて化粧や服装にこだわっている時間はない』とのこと。理系はどこも忙しいとは聞きますが、姉は『工学部はもはや“男子大学”だし、女子扱いされない』と言っていたので、それは嫌だなと思って、工学部は選択肢に入りませんでした」(Aさん)

 

 医学部入試で女性受験者の方が高得点と言うからには、その気にさえなれば女性が理工系の学部入試を突破するのは簡単なはずです。後は女性側の気持ちの問題ですね。大学で学んで専門家になるよりも、メイクもおしゃれも頑張る人間が理想の自分であるならば、それはもうどうしようもないでしょう。大学を勉強する場所ではなくメイクやおしゃれを楽しむキラキラした場所に作り替えることで女性の志願者は増えるとしても、今度は教育が意味を失うだけの話です。国として教育水準を引き上げようとするのなら、女性の方を変えなければなりません。

 一方でイスラム教が支配的な国の中には理工系の進学者に占める女性比率が高いところもあったりします。とりわけイランは女性の方が進学率が高い、一時は理工系の学部で女性が70%に達したとも伝えられるところです。日本では専ら、イランは女性が抑圧される世界と報じられてきました。しかるにイランでは日本の女性が望むような代物が制限されている一方で、むしろ学問の世界では日本よりも社会規範による矯正が少ない、男だから、女だからという理由で学部選択にバイアスがかかることが少ないのだとも考えられます。

 イランもまたアメリカに長らく敵視され中国のそれよりもずっと重い制裁を科されてきた、日本も少なからずそこに加担してきたわけです。そうしたなかでもイランは自国による技術開発に取り組み、アメリカやイスラエルにとって警戒を緩められない国であり続けています。もし中国やイランが日本のように宗主国べったりで、宗主国から睨まれれば自国による独自開発を捨て去るような国であったなら、今日の発展はなかったことでしょう。逆に日本が周回遅れでも再び成長の道に戻ろうとするのであれば、そこで見習うべき相手は宗主国ではなく、アメリカに立ち向かう独立国の方にあります。

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正月に思ったこと

2025-01-09 22:16:37 | 社会

 1月9日現在、私の環境からは今なおVPNを経由しないとgooには繋がりません。ドコモからは音沙汰なし、goo公式からもお詫び的な案内はあるものの状況を説明できているとは言いがたく……と行った次第です。ブログのアクセス数の減少具合からするに、結構な人が影響を受けているように思えますけれど、どうしたものでしょうね。ちなみに以下の記事は日曜日に載せるつもりで書いていたのですが、アクセス状況が改善されてからにしようと先送りを続けて今日になってしまいました。

・・・・・

 それはさておき正月は親類に会う機会でもあるわけです。今年は発熱で寝込んで顔を見せられない人もおりまして、これもまた世相を反映しているところでしょうか。新型コロナウィルスへの警戒感から一時的に公衆衛生の水準が向上していた頃は皆無であったインフルエンザが例年にない流行を見せるばかりか、マイコプラズマ肺炎などその他の感染症も爆発的に増加、学級閉鎖やイベントの中止も相次いでいます。それでもマスクは任意でして、ことによると2019年以前よりも体調不良を押して外出する人が増えた、人前で咳き込むことに躊躇がなくなった印象がないでもありません。

 ちなみに私自身だけではなく兄弟姉妹にも従兄弟にも子供はおらず、家系図では私が最も下の段に位置しています。ゆえに親類一同の間柄ではいつまでも「子供」の枠だったりするわけです。仮に誰かが子供を産んで家系図に新しい段が出来上がれば私は「伯父さん」と呼ばれるようになるのでしょうけれど、もはや見込みは薄く家系の断絶は不可避でもあります。親族から見た場合、何歳になっても家系図の最下段にいる限り子供は子供、家系図の段が増えることで「お父さん」や「叔父さん」になる──というのが私の感覚なのですが、皆様の親類縁者の間ではいかがでしょうか?

 なにはともあれ親類に子供世代がいないので、誰もが齢を重ねて老いていくばかりです。会社でも昇進していくのは親会社から出向してきた人ばかり、資産は少しずつ増えているものの不動産価格の上昇には追いつかずと、なかなか希望を見出しにくい状況ではあります。若い頃は今の状況が悪くともいずれは好転するイメージを持てましたけれど、年を取るほどに坂から滑り落ちる感覚は強まるばかりです。たとえ自身が加齢によって衰えていくとしても社会の発展によって明るい未来を展望できることもあるのでしょうけれど、恐ろしいことに日本にはそれも欠けていますし。

 ちなみにサッカー元日本代表の三浦知良は57歳にして2025年の現役続行を宣言、JFLのチームとは2026年1月までの契約があるとのことでプロ生活は40年目に到達するそうです。ただ日本サッカーの生けるモニュメントとしてJFLでは最も観客を呼べる存在ではあるものの選手として活躍できているとは言いがたく、批判的に見る人もまた少なくありません。本人と周囲の様々な思惑が重なって異例の高年齢プレイヤーであり続けているわけですが、それでも本人が客寄せパンダであることに満足しているわけではない、選手としてのトレーニングを怠っているものでもないとは思います。

 ただどれほどの努力を積み重ねても、衰えがそれに勝る時期は誰にでも必ず訪れます。あたかも努力は報われる、継続すれば身になるかのごとく世間では語られるものですが、それはせいぜい期限付きというのが実態でしょう。練習すれば練習しただけ上達するのなら、三浦知良は世界一のサッカーの達人になれたはずです。しかしセミプロ相手でも若い選手の動きに全く対応できなくなっているのは誰の目にも明らかです。何もしなかった57歳よりはサッカーが上手いのは間違いありませんが、しかしプロ40年の三浦知良よりもプロ4年の若者の方が選手としては明確に上にいる、それが現実というものです。

 とはいえ選手という「選ばれた」存在と、限られたリソースの中で回していかねばならない我々の社会とでは、衰えた人間の使い途も異なるように思います。衰えた選手は引退していくだけ、その中から指導者になるのは一握りですけれど、このように贅沢なリソースの使い方が許されるのは一部の限られた世界だけの話です。若手が続々と畑から収穫できるような状況ならいざ知らず、人口減少局面に入り高齢化が顕著な社会であるほどに、今いる人間をいかに活用していくかが問われると言えます。

 そうした中でリスキリング云々と上滑りなスローガンが横行しています。私の勤務先でもこのスローガンは掲げられているところですが、この結果として何か成果が生まれたというケースは寡聞にして知りません。本当に仕事で必要なスキルならば昔から異動に合わせて何とか習得されているものですし、社外から見ればリスキリングされた中高年など魅力がない、採用したいのは若い人だけという状況には何ら変わりがないわけです。ところが日本人の平均年齢は既に47歳に到達し、企業が欲しがる若手はもはや希少な存在とすら言えます。若手募集は無い物ねだり、そしてリスキリングは良いけれど、勉強した中高年を適切に起用できているのか?という疑問は拭えませんね。

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法治主義のコスト

2024-12-29 21:55:46 | 社会

 2024年末は幾つか興味深い判決がありました。一つは「紀州のドン・ファン」等と呼ばれた資産家を殺害したとして元妻が起訴されていた事件で、直接的な証拠がなく状況証拠ばかりが積み重ねられていたことから、疑いの余地は認められつつも結局は無罪判決となりました。疑わしきは被告人の利益に──推定無罪の原則に従えば妥当な判断と言えるでしょうか。ただ同じ和歌山でも夏祭りで提供されたカレーにヒ素が混入されたとする事件では、やはり直接証拠はないものの状況証拠を積み重ねた結果「この人が絶対に怪しい」という理由で死刑判決が下っています。推定無罪の原則が適用される場面もあれば、そうでない場面もあるのかも知れません。

 そして先日は性的暴行の罪に問われた男性2名への無罪判決が出たわけですが、これが一部界隈の強い反発を呼んでいます。補足すれば犯行に及んだとされる3名の内1名は実刑が確定しており、2名にしても決して無罪=潔白という意味ではなく、あくまで現行の法律に照らして処罰すべき事実の立証が不十分であるだけという判決でした。これも推定無罪の原則に従えば、あり得ないこともない判決かと私は思います。しかし判決を下した裁判長の罷免を求める署名運動なども起こっており、この辺りは法曹界からも懸念されているようです。

 推定無罪の原則に則れば、有罪の閾値は「100」です。90であれば限りなくクロに近い、素人目には完全なクロと見分けが付かないことでしょう。しかし真に有罪であるか疑義が残っていれば、それは無罪とするのが法の理念でもあるわけです。一方で容疑者となった時点で社会的には犯人扱いされるのが慣例で、ともすると「50」くらいで十分にクロと見なされているのが実態でもあります。そうした状況を問題する人もいるはずですが──ともすると人権意識が高く推定無罪の原則に理解があるかのごとく振る舞っている人ほど、性犯罪になると基準を裏返してしまう傾向もあるのではないでしょうか。

 犯人が法の裁きを逃れることと、冤罪のどちらを「あってはならない」ことと考えるか、ここで一貫した態度を取っている人は意外に少ないのでは、と私は思います。というのも一般の犯罪に関しては被疑者を罰せよと厳罰論を掲げる人でも痴漢の訴えに関しては冤罪の可能性も考慮して公正に扱えと主張するケースは珍しくありませんし、逆に平素は人権を重んじ被疑者を一概に犯人扱いしないだけの分別がある人でも、痴漢に関しては被害を訴える声を全面的に信用し、冤罪の可能性は頭から否定している様子を頻繁に目にします。ことによると性犯罪とその他の犯罪とで、判断基準をクロスさせる方がむしろ一般的なのかも知れませんね。

 何はともあれ、集団で性的暴行を加えたと起訴された3名の内2名は無罪との判決が下されました。物的証拠や第三者の目撃証言などがないと厳密な立証は難しいことが分かります。もし味噌樽の中から犯行の決定的な証拠となる当日の衣類でも見つかれば結果は違ったのでしょうけれど、そう都合良く進むことばかりではありません。そこで一般に警察や検察が何をするかと言えば「自白を引き出す」わけです。たとえば一日平均12時間以上の取調べを「犯人」が自白するまで継続する等々、そうした取り組みによって証拠の不足を補い、有罪判決を確定させてきた実績があります。

 今、物議を醸した医大生による集団での性的暴行事件も警察が容疑者を締め上げ、被害者の同意があったと錯覚したのではなく不同意と理解しながら行為に及んだのだと自白を「させれば」判決は変わったことでしょう。状況的には99%クロで、そこに被疑者の自白が加われば間違いなく有罪の判決が下されていたはずです。しかし今回の被告人は検察側の主張を裏付けるような自白はしておらず、客観的に見て検察の起訴した内容通りであると断定するには僅かながらも疑いが残る、故に疑わしきは被告人の利益に⇒無罪判決という結果になりました。

 故にもし今回の無罪判決に不満があるのならば、裁判官ではなく警察や検察を非難すべきではないかな、と思います。コイツはクロだと決めつけて自白するまで責め上げれば、有罪判決を勝ち取ることは出来たでしょう。ただ、それが良いことかどうかは別の話です。良くも悪くも被告人の人権を尊重して取り調べが行われた結果、罪状を裏付けるような自白はなく無罪判決が下されました。仮に人権を無視した取り調べによって被疑者に起訴内容通りの自白を行わせた場合、それで有罪判決が下って正義が執行されたと感じる人はいるかも知れませんが、法治国家としてはいかがなものでしょうか?

 そもそも法治主義の理念とはまず「権力」を制約するものです。警察や司法のような市民を罰することが出来る「権力」が恣意的に行使されないような運用が大前提であり、それを受け入れる以上は自白を強要することは出来ませんし、十分な裏付けとなるだけの証拠が揃わなければ被告人を有罪とすることは出来ないわけです。そうした制約の故に、明らかに疑わしい人間でも状況によっては無罪とせざるを得ない、これは法治主義のコストと呼べるでしょう。逆に情緒的な共感や義憤によって証拠や自白の不足が埋め合わされてしまえば、その時点で法治国家ではなくなってしまいます。

 人権を普遍的なもの=誰にでもあるものとして尊重する──そう口にすることは簡単ですが、本当に問われるのは品行方正な人を前にしたときではなく、非道な振る舞いをした人を扱う時です。何ら責められる点のない人の人権を尊重するのは簡単ですけれど、性的暴行の疑いで起訴された容疑者の人権はどうでしょうか? どれほど卑劣な人間でも人権はあり、自白を強要されることがあってはならないと言えるのかどうかは当然ながら問われます。そして自白の強要は人道に悖ると認めつつも、自白も証拠も完備されていないから無罪とした判決に対して裁判官の罷免を求め出すとしたら、それは筋が通らないのでは、と私は思うわけです。

 まぁ「法の支配に基づく国際秩序」なんてスローガンが外国関係の報道では枕詞のように使われる一方、その適用基準が相手国によって異なっているのは今さら繰り返すまでもありません。別の国に侵攻したことで非難されることもあれば、日本も派兵して支援するケースもある、クーデターを非難される国もあればクーデター政権が即座に欧米からの承認を得る場合もまたあります。相手によって適用基準を変えるのが当たり前の国際秩序であるならば、犯罪の種類次第で(要するに性犯罪とそうでない犯罪とで)人権や推定無罪についての扱いが異なるのも当たり前のことになってしまうのかも知れませんね。

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お金の使い途

2024-12-22 21:56:40 | 社会

闇バイトか 中学生逮捕「クリスマスに遊ぶ金必要だった」埼玉(NHK)

埼玉県春日部市で高齢の女性からキャッシュカードをだまし取ろうとしたとして、「闇バイト」とみられる中学3年生の男子生徒が逮捕されました。調べに対し、「クリスマスに遊ぶためのお金が必要だった」などと供述しているということです。

逮捕されたのは、千葉県柏市の中学3年生の男子生徒で、警察によりますと16日夕方、春日部市の80代の女性から金融機関の職員を名乗ってキャッシュカードなどをだまし取ろうとしたとして、詐欺未遂の疑いが持たれています。

 

 巷を賑わす犯罪の報道頻度と実際の治安は必ずしも比例しないわけですが、とりあえず体感治安の方は急激に悪化しているのが現状でしょうか。いわゆる「闇バイト」の知名度も上がりましたけれど、それに応募する人も絶えません。引用元で逮捕された中学生曰く「クリスマスに遊ぶためのお金が必要だった」とのこと、未遂で終わったことを思えば動機はかわいらしいものです。30年前の中学生だったら窃盗や恐喝で稼いでいたイメージもありますが、現代と比べるとどうなのでしょうね。

 

歌舞伎町「立ちんぼ」逮捕は88人に 3割以上がホストクラブで遊ぶ金を稼ぐため(テレ朝news)

 警視庁は10月からおよそ2カ月間、集中取り締まりを行い、立ちんぼ行為をしていた50人の女を逮捕しました。

 1月からの逮捕者は88人に上り、中には未成年の16歳の少女もいました。3割以上が主にホストクラブで遊ぶ金を稼ぐため、路上に立っていたということです。

 

 自営の売春も「援助交際」から「パパ活」などと名前を変えて栄えてきましたけれど、それがエスカレートする中でとうとう「立ちんぼ」へと名称が先祖返りしてしまった印象を受けます。ずっと昔は生活のため、世の中が豊かになれば遊ぶ金のためと売春の動機も変遷を見せましたが、近年はホストに貢ぐためという動機が多数派を占めるようになりました。これも遊ぶ金の延長線上にあるのかも知れませんけれど、金を払う自分自身のためと言うよりも金を受け取る側のため、と少しばかり主体が異なっているようにも思えます。

 顧客に多額の売掛金を負わせ、その支払いのために売春を斡旋するような悪質ホストクラブについては風営法改正で罰則を強化する動きもあるわけですが、この辺の受け止め方には男女で違いが見られるイメージがないでもありません。総じて女性はポルノや買春する客の方を悪玉視する一方でホスト関係の問題には干渉したがらない、男性はその真逆みたいな傾向はないでしょうか? 男性目線だとホストに食い物にされる方がカネと尊厳の両方を奪われているイメージであるのとは裏腹に、一部女性目線だと尊厳の方はむしろ満たされていたりするのかも知れません。

 

三菱UFJ銀行元行員「大変申し訳ないことをした」貸金庫から客の資産10数億円盗み「投資などに流用」半沢頭取が謝罪会見(FNNプライムオンライン)

三菱UFJ銀行の女性行員が、約4年半に渡り、貸金庫に預けられた十数億円分にのぼる顧客の資産を盗み続けていた問題で、三菱UFJ銀行の半沢淳一頭取が16日午後会見し、盗んだ資産を「投資などに流用していた」と明らかにした。

半沢頭取は会見で、「信頼・信用という銀行ビジネスの根幹を揺るがすものと厳粛に受けとめており、お客様・関係者に心よりお詫び申し上げます。」と謝罪した。

 

 貸金庫からの盗難という被害の有無を第三者が確認することの難しい犯行とあって、この辺も話題性は十分なニュースです。頭取の名前が某ドラマを思わせるところもあってネタ要素も期待されますが、業界全体の信頼を揺るがす事態だけにジョークを差し挟む余地はなさそうです。なにはともあれ容疑者は約4年半と結構な期間にわたり十数億円?の資産を盗み続けていたと伝えられています。そして盗んだ資産の使い途は「投資などに流用していた」とのこと……

 闇バイトで稼いだカネはクリスマスで遊ぶため、買春で稼いだカネはホストに貢ぐため、そして貸金庫から盗んだカネは投資に回すため──どれも褒められた話ではありませんが、一番もの悲しいのは最後の「投資のため」でしょうか。遊ぶためという欲望に忠実な目的であれば、それは自制すべきであっても人の性と理解できないでもありません。欲は善です。カネを使うことで得られる喜びもあったでしょう。しかし投資はどうなのか、それは人間の根源的な欲望なのか、そこから得られるものは金銭以外にあるのかと思うところもあります。

 勤労から投資へ──岸田内閣は金融所得の倍増を掲げて「働いても稼げない分、税制で優遇するので投資で稼げ」と国民に訴えました。そうした中では投資にカネを費やすことこそが正しい生き方と、そう信じ込んでしまった人もいるのかも知れません。カネを消費して何かをするのではなく、カネを投資してカネを増やすことの方が目的にすり替わっている人もまた少なくないのではないでしょうか。貸金庫から顧客の資産を盗んだ行員もまた然り、カネを使って自らの欲望を満たすのではなくカネを投資してカネを増やすことが第一の選択肢だったとしたら、カネを対価として得られるものではなくカネそのが目的になっているとしたら、なんとも虚しい話です。

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ある最高裁判事に「×」を投じたかった理由

2024-10-27 21:05:56 | 社会

 これも選挙の恒例と言いますか、「選挙カーがうるさい」と言って一定の共感を集める人も定期的に出てくるわけです。ただ私は、選挙カーごときをうるさいとは感じません。もっとうるさいものが、他に色々とありますから。選挙カー程度でうるさいと思える人は、単に住環境に恵まれているだけでしょう。羨ましい限りです。

 世の中は多数派に最適化されている、とも言われます。そうして「配慮」される少数派もいれば、一方で無視され続けている少数派もいるのが実態でしょうか。典型的なのは「夜勤」の人々ですね。例えば夜間の騒音については控えるべきという社会的合意がないでもない一方、昼間に関しては実質的に野放し状態にあります。昼間に会社に出勤して夜に家で寝る人はこれでも問題ないかも知れませんが、夜間に働き昼間に家で寝る人はどうしたらいいのでしょう。

 ちなみに電動キックボードが危ない云々と宣い、これまた世間の共感を集める人もいるわけです。それもやはり恵まれた都会の贅沢な悩みと感じないでもありません。私の住む地域では絶えざる道路工事で地面はガタガタ、車輪の小さな電動キックボードなど絶対に走れないですし、そもそも自家用車での移動を前提にした街作りが行われていますので、電動キックボードに乗る人など全く見かけません。電動キックボードを見て危ういと感じるのは、恵まれた都会の住人ならではでしょうね。

 自宅から最寄りのスーパーまでの道中に、保育園は5軒あります。商業施設は国道沿いか沿岸部に集約するのが我が町の都市計画のようで住宅エリアと商業エリアの距離は大きく開くばかりなのですが、「買い物は自家用車で行くのが当たり前」というのが郊外住民の感覚なのか、特に問題になることもなく市の人口は転入超過が続いています。一方で不思議なことに保育園だけは住宅地の中の徒歩圏に乱立していたりして、これがよく分かりません。

 自家用車での移動を前提に商業エリアを国道沿いと沿岸部へ集約させる、これは(賛同はしませんが)郊外の都市計画として普通かと思います。しかし保育園は例外で住宅地のど真ん中に存在していたりするわけです。児童が徒歩で通うことを想定した小中学校が住宅地の中の徒歩圏に位置しているのは理解できますが、送迎が前提の保育園であればスーパーマーケットやショッピングモールと同じように住宅地から離れた場所に集中させた方が良いのでは、と思わないでもありません。日用品を買える店が徒歩圏にないのに、保育園だけは近所にある、それは都市計画としてどうなのでしょう?

 

「園児の声がうるさい」保育園を訴えた住民の敗訴確定 一審「受忍限度超えていない」…最高裁が上告棄却(東京新聞)

 東京都練馬区の住民が隣にできた保育園の園児の声がうるさく平穏に生活する権利を侵害されたとして、園の運営会社「日本保育サービス」(名古屋市)などに損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第3小法廷(渡辺恵理子裁判長)は、住民側の上告を棄却する決定をした。23日付。住民側敗訴の一、二審判決が確定した。

 2020年6月の一審東京地裁判決は、07年4月の開園から2年ほどは国基準を上回る騒音レベルが散見されたが、園庭の使用を控えるなどして抑制され「受忍限度を超えていたとは認められない」とし、住民側の請求を棄却。21年3月の二審東京高裁判決も一審判決を支持した。(加藤益丈)

 

 私の住む街でも一時は保育園の建設ラッシュがあり、自宅の隣に保育園が建つ可能性も決して皆無ではありませんでした。それだけに、こうした記事は全く他人事とは思えないところです。過去の判例に倣い、騒音に苦しめられる被害者をクレーマー扱いして裁判は終了したわけですが、人道面からするといかがなものでしょうか。

 米軍基地と保育園は似ている、と私は思います。いずれも被害を被るのは近隣住民に限られ、これを泣き寝入りさせることで社会的な解決としてきました。限度を超える騒音があったとしても施設の公益性が主張され、被害を訴える近隣住民はパブリックエネミーとして謂れなき誹謗中傷に晒されてきたわけです。騒音施設から離れた場所に住む多数派のために、近隣住民は我慢してください、というのが我が国の司法であり社会的合意であると言えます。

・・・・・

 その昔、私は「子供好き」の大人から非常に好まれる容姿を持っていました。何か用件があって大人に話しかけると、「キャー可愛い!」と声を上げて大人達は興奮したものです。そこで私が子供らしく「キョエェェェエッ!」と嬌声の一つもあげれば大人達は絶頂を迎えたことでしょうけれど、残念ながら私は用件を伝えるばかりで、お互いに全く噛み合わなかったことを覚えています。そうこうするうちに私から見れば「自分を人間扱いしてくれない大人」、相手からすれば「なつかないペット」みたいな間柄となり、自分は学校の先生などから疎んじられるようになりました。

 よく「子供は騒がしいのが当然、誰もがそうだった」と居丈高に語る人がいます。でもそれは、「子供好き」の大人の頭の中の理想像であって、実際には大人しい子供もいるわけです。「子供好き」の大人は自分たちの理想像を子供に投影して、「子供らしく」時と場所を顧みず絶叫することを期待しているのかも知れません。でも私は、そんな「子供らしさ」の押しつけが本当に嫌でした。騒ぐばかりが子供らしさではない、子供だって大人しくしても良い、そんな寛容な世の中になって欲しいと思います。

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体は元気な人々

2024-10-06 22:00:46 | 社会

 以前に書きましたが近所の子供達の間では、ひたすら「パイナツプル」と絶叫し続ける遊びが流行っています。元はじゃんけんとも組み合わされ「グリコ」「チヨコレイト」等も含まれていたようですが、色々な要素がそぎ落とされていった結果、これが残ったと言うことなのでしょう。一方で流行っているのはこの遊びだけではなく、力の限りに叫びながらも激しく咳き込む子供の姿も散見されます。止まらぬ咳など気にもせず大声を張り上げ続ける子供達は、本当に元気ですね。

 私が子供の頃は「○○菌」と言って特定の子供をターゲットにして、その子を全員で除け者にする、その人に触られたら次のターゲットになる、という遊びが最も人気がありました。人気がありすぎて学校で禁止令も出たものですけれど、誰も決まりなんて気にしていなかったことを覚えています。この「○○菌」に触れることについては全力で避けようとするのが当時の子供達の常識だったわけですが、今時の子供達を見るに激しく咳き込む子を遠巻きにするような様子は全く見られなかったり等々、本物のウィルスや細菌については特に忌避感をもたれていないと推測されます。

 一方、激しい夜泣きで私の目を覚ましてくれた頃から早数年、隣の家の子供は立派に体が成長しているようです。ゴッ、ゴッ、ゴッ、ゴゴゴゴゴ……と窓を隔てた隣の家にまで振動を響かせる勢いで飽くことなく床を踏み鳴らし、着実に自分の体が大きくなっていることを伝えてくれます。そんな隣の家の子も一時期は激しく咳き込んでおりまして、まぁ今の時代なら避けられないことかというところですが、激しく咳き込みながらも床を踏み鳴らす勢いは変わることがありませんでした。感染症に罹患しても子供というのは元気なものですね。ただ体は元気でも、どこか別のところが悪くなっていないか少しだけ心配しています。

 「マスク着用は任意」という政府方針は完全に定着し、電車の中でも飲食店でもオフィスでも、力強く咳き込みつつもノーマスクでいることが今や当たり前になりました。昔は咳が出るようであればマスクを付ける程度のマナーは存在していたように記憶していますが、その辺も時代と共に変わっていくものなのでしょう。咳をしても外出を控える必要はなし、咳をしてもマスクは任意、それがコロナ禍を経た現代の常識というものです。たぶん食品業界など過去にはマスク着用が必須であった事業者でも、今はマスクを外すようにした職場が一定数あるのでは、と思います。

 咳が止まらない以外は元気いっぱい、アクティブに外出を楽しんでいる人も多く、そうした人の「コロナはただの風邪、大したことはない」論も本人の自覚としては矛盾していないのかも知れません。ただ体の方は元気でも、体とは別の場所が悪くなっているのでは、と私は思います。新型コロナを別にしても溶連菌やマイコプラズマ肺炎の感染者が急増したり等々、その結果として休業や学級閉鎖なども起こってはいますが、会社や学校が対策を取る様子も見られず、まぁ体が弱った人は切り捨ててしまえば良い、体以外のどこかが悪くなっていてもとにかく体が元気な人が世の中の標準である、我々の社会はそんなものなのでしょう。

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理解のある人々

2024-09-29 21:37:55 | 社会

 ちょっと前の話になりますが「理解のある彼くん」という概念が一部界隈で話題になりました。まぁ何かしら問題のある女性を受け入れてくれる都合の良いパートナーみたいな概念のようですが、これに対して「理解のある彼くん」はいても「理解のある彼女ちゃん」はいない、だから男性の方が生きづらいのだと主張する向きも一部で見られました。そんなことはないのでは、と私は思います。働かず女性に寄生する男性や女性に暴力を振るう男性、女性の連れ子を虐待する男性等々、そういう人には「理解のある彼女ちゃん」がいるのですから。

 リクルートブライダル総研の2023年調査によると20代男性の46%は「交際経験なし」なのだそうで、未婚化・晩婚化の傾向は進むばかりです。こんな時代でも普通に結婚しているのは恋愛エリートとも言えますが、一方で家庭内暴力なりモラルハラスメントなりが話題になることもまた少なくありません。色々と酷いエピソードがメディアを賑わすことも多く、それで男性社会や男性全般を非難してなんとなく締めくくられたり等々。しかし「何故そんな男と付き合ったのか」を追求しないことには、同じ過ちが繰り返されるように思えてなりません。

 企業におけるパワハラも然り、それが告発されてパワハラと認定されれば企業によっては処罰もされますけれど、原因が深掘りされるケースは皆無なのではないでしょうか。パワハラというものは「優越的立場」があってこそ成り立つもので(立場が逆であったらパワハラではなく「反抗」ですから)、この前段には必ず「パワハラ気質の人間を組織の重要な地位に就けた」事実があるはずです。「何故パワハラするような人間を昇進させたのか」を調査してこそ真の再発防止に繋がります。

 先般は不法な内部告発潰しに端を発して兵庫県の斎藤元彦知事の各種パワハラが大きな話題になりました。ついには県議会で不信任決議案が可決されるに至ったわけですが、そんな人でも選挙に勝ったから知事の座を得ていることは認識されるべきでしょう。街頭インタビューなどでも知事のパワハラ狼藉ぶりに眉をひそめるコメントを残す人が多々登場していますけれど、そんな人も実は前回選挙で斎藤氏に投票していた可能性は高いはずで、「何故あんな人に投票したのですか?」と県内の有権者にも聞いて欲しいと私は思うところです。

 斎藤知事に関しては数限りないパワハラ行為が露になるにつれ世間の支持を失い、後ろ盾だった維新他の政党からも切り捨てられている状態でもあり、出直し選挙では敗れる可能性が高いと予想されます。ただ、斎藤元彦に先駆者がいなかったとは考えられない、第二・第三の斎藤元彦が選挙に勝利する可能性は決して否定できないのではないでしょうか。この知事が当選したのは有権者の好みに合っていたからであり、有権者の好みが代わらない限りは同じようなタイプを権力の座に押し上げる、それが繰り返されるわけです。我々の社会は、そういうタイプの人間を肯定的に評価してきたのですから。

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