非国民通信

ノーモア・コイズミ

轍を踏もうとする政策

2014-05-31 14:39:16 | 雇用・経済

「和製ジョブズ」育成目指す…総務省が支援事業(読売新聞)

 総務省は、情報通信の分野で世界的に影響を与えるような奇抜なアイデアを持った人材の支援に乗り出す。

 「奇想天外で野心的な課題」に挑戦することが条件で、年300万円を上限に研究費を支給する。失敗も許容するという、中央官庁としては異例の事業となる。

 今年度の情報通信に関する研究開発の委託事業に、「独創的な人向け特別枠」を設ける。パソコンや携帯電話で革新を成し遂げた一方、ユニークな人格でも知られていた、米アップル創業者の故スティーブ・ジョブズ氏のような人材の育成を目指す。

 

 総務省が、「奇抜なアイデアを持った人材の支援に乗り出す」そうです。その割りには「年300万円を上限」ということですので、随分としみったれていると言いますか、単なる話題作りにしかならないであろう未来が今から見えています。それ以上にどうなんだろうと思うのは、「米アップル創業者の故スティーブ・ジョブズ氏のような人材の育成を目指す」との行、いやいや、ジョブズは既存の製品を目新しく見せかけるのが天才的に上手いのであって、独創性や革新云々とは違うでしょうよ。

 まぁ、せっかくの発明でも市場に歓迎されずに埋もれて久しいというケースは多々あるはずですから、そうした埋もれた種を掘り起こして商業的に成功させるといった意味でのジョブズ的な才能は確かに待ち望まれているのかも知れません。しかし、アップル社といえば専らアメリカ国外の工場に生産を委託しているばかりで米国内に雇用をもたらしていないと強く批判を受けていたほか、海外子会社を悪用した租税回避行為でもしばしば米議会での追及対象でした。日本でジョブズのような人物が起業して会社を大きくしても、それが本当にジョブズ的であるなら……

 ついでに言えばアップル社からの製造受託では中国のフォックスコンなどが最大手の一つとして挙がるところ、この会社は新型iPhoneの試作機を紛失した従業員を情報漏洩の疑いで監禁した挙げ句、尋問に加えて暴行を繰り返し、自殺に追い込むなどの悪行でも注目を浴びました。とにかく従業員の自殺が多く(これを高齢者や失業者を含めた自殺者の統計と同列に扱って擁護しているつもりの人も見かけますが、いくらなんでも無理筋に過ぎる、職のある若者の自殺がどれほどレアケースであるかは知ってしかるべきでしょう)、挙げ句の果てに社員に対して「自殺しません」という誓約書の提出を求めた企業だったりします。先日はアマゾン創業者のジェフ・ベゾス氏が国際労働組合総連合が行ったアンケートで「世界最悪の経営者」に選出されましたけれど、ジョブズだってベゾスと肩を並べる資格はありそうなものです。

 

「残業代ゼロ」案修正へ 幹部候補に限定、年収は問わず(朝日新聞)

 労働時間にかかわらず賃金が一定になる働き方をめぐり、政府の産業競争力会議が、対象となる働き手の範囲を見直すことがわかった。当初案は対象に一般社員も加えていたが、「幹部候補」などに限定し、年収の条件を外す。法律で決めた時間より長く働いても「残業代ゼロ」になるとの批判をかわすため対象を狭めるねらいだが、企業の運用次第で幅広い働き手が対象になるおそれがある。

 28日の産業競争力会議に、4月に当初案を提案した民間議員の長谷川閑史(やすちか)・経済同友会代表幹事らが修正案を出す。いまは従業員を一日8時間を超えて働かせたり、深夜や休日に出勤させたりすると、企業には賃金に上乗せしてお金を支払う義務がある。当初案は、時間ではなく仕事の成果で賃金が決まる働き方を提案し、年収1千万円以上の社員のほか、一般社員も対象にするとしていた。

 修正案は、中核・専門的な職種の「幹部候補」などを対象とする。具体的には、新商品の企画開発や会社の事業計画策定の現場責任者を指す「担当リーダー」、ITや金融分野の専門職「コンサルタント」などだ。一方、年収の条件を外し、高年収者でなくても導入できるようにした。

 

 安倍晋三は経済に関して芯がないと、何度か書きました。成長志向の政策もあれば、衰退志向の政策もまたあるわけです。この辺、ひたすら日本経済を一貫して下へ下へと牽引してきた橋本龍太郎や小泉純一郎、そこから先の諸々の首相に比べればマシな方、マイナスだけしかない人よりはプラスとマイナスの両方があるだけ相対的には許せる範囲と言えなくもないのですが、ここで取り沙汰されているような残業代ゼロ路線は当然ながら、従来の構造改革/規制緩和路線を引きずるものと言いますか、まぁ「轍を踏む」イメージですね。よく言われる日本の(時間当たりの)労働生産性の低さは、結局のところ分母となる労働時間の長さに起因しているのに……

参考、規制緩和はイノベーションを遠ざける

 一時は年収を条件に挙げつつも、今度は年収の条件を外して「幹部候補」とやらをターゲットに定めたことが伝えられています。これは、完全に後退です。そして中核・専門的な職種と称して持ち出された具体例はと言えば、新商品の企画開発や会社の事業計画策定の現場責任者を指す「担当リーダー」、ITや金融分野の専門職云々と、日本の所謂「総合職」だったら役職者ならずとも普通に該当しそうな世界です。やはり「日本版」のホワイトカラー・エグゼンプションらしいと言いますか、適用範囲がとんでもなく広く想定されていることが分かります。

 そもそも日本的雇用においては、正社員とりわけ男性正社員ともなると「待遇と権限以外は」幹部候補生扱いと言いますか、責任を負うことを求められると同時にマネジメントの意識もまた求められるものではないでしょうか。幹部候補に入らず下っ端のまま定年まで働き続けるようなキャリアは想定されていない、中核的な業務に関わらない労働力は非正規で賄おうというのが日本的経営というものです。この辺の構図が変わらない限り、留保なしの正社員は残業代ゼロが適用されるのが一般的、それが嫌なら非正規などの保証なき雇用を選ぶしかないという悪夢の二択になりかねません。しかし、その国で働く人が貧しいのに社会が豊かになると言うことがあり得るのでしょうか? いかに人件費を抑え込んで企業に富が蓄積されても国全体で見た場合の経済成長には結びつかない、そのことはこの十数年来の改革路線が証明してきたはずなのですが。

 

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生活のために働く人のために

2014-05-28 23:26:32 | 雇用・経済

(インタビュー)ある派遣社員の体験 元派遣社員・酒井桂さん(朝日新聞)

(前後は色々と略)

 ――たとえばパートと派遣では、仕事に違いはあったのですか?

 「ほぼ同じで、違ったのは待遇ですね。パートの時給は派遣より低いけれど、ほとんどは夫の配偶者控除が受けられる範囲で働きたい人たちだと思います。正社員と同じ直接雇用で、わずかでも賞与が出たし、職場で弁当を注文すると補助があって、ほぼ半額の350円程度ですむ。派遣にはこんな補助はないし、健康保険組合が実施するインフルエンザ予防接種も受けられない。社員旅行にも参加できませんでした」

(中略)

 ――自分は派遣労働でいいという人もいるのではないですか。

 「派遣仲間の人たちに労組に入って一緒に要求しないかと声をかけたら、『そこまでする気はない』『労組って(会社に圧力をかける)右翼?』という反応が返ってきました。働いて収入のある親と暮らしていたり、夫の給料が高い人だったり。父の死後、年金生活者の母との生活のために働く私とは違った。それに、時給など労働条件をお互いに明かしませんし、派遣会社も別々です。派遣社員は最初から働き手として、バラバラになっている感じです」

 

 ある(元)派遣社員のインタビュー記事が載っているわけですけれど、長くなるので注目したい箇所だけ引用します。改善されているとは言えないながら一応は問題視されているものもある一方で、今一つ理解されていない要因もまたあると思うところで、それがこの辺なのです。すなわち、「夫の配偶者控除が受けられる範囲で働きたい人たち&働いて収入のある親と暮らしていたり、夫の給料が高い人」と「(自身及び扶養親族の)生活のために働く私(人)」の違いですね。

参考、嫌でも避けては通れまい

 ある世論調査によれば、「親の介護は自分がする」と回答した人が37%に上る一方、「親の介護問題について考えたことはない」が21%、「親が自分で老後を考えているので関係ない」は9%、「親の介護は他の兄弟がする」など、自分以外の兄弟に任せるという意見も12%あったそうです。親の介護を巡っても様々な見通しを持つ人がいるわけですが、高齢者向けの福祉に関して耳を傾けるべきはどの層でしょうか? 単純な多数決が民意として幅を利かせがちでもありますけれど、高齢者向けの福祉を削減するのか手厚くするのかを問うべきは、親の介護を他人任せにしようとしている人ではなく自分の将来的な責任と意識している人ではないかと思うのです。

 非正規雇用の処遇に関しても同様です。「配偶者控除が受けられる範囲で働きたい人たち&働いて収入のある親と暮らしていたり、夫の給料が高い人」の意見と「(自身及び扶養親族の)生活のために働く人」の要望、より応えるべき重要性があるのはどちらなのでしょう。日本の非正規雇用という偽装雇用を是正しようとする動きに対して、色々と屁理屈を持ち出してダメ出しする人は後を絶ちません。その手の論者は決まって「自らの意思で非正規雇用を望む人もいる」と強弁するものですが、彼らが都合良く選別する「非正規雇用を望む人」の中に「生活のために働く人」は含まれているのでしょうか?

 出典:家計を支える女性の出現率の国際比較 - データえっせい

 上に引用しました統計からも、日本では「家計を支える女性」が極端に少ないことが分かります。元々それほど高くない女性の就労率と比べてもなお圧倒的に少ない、我が国には働く女性は「それなりに」いますけれど、「家計を支える女性」ともなると際だって希な存在になるわけです。女性全般の有業率の低さとは裏腹に、日本のシングルマザーの就労率は非常に高いことが知られてもいますけれど、同時にその貧困率の高さもまた著しいところです。色々と歪なものが感じられはしないでしょうか。

 真に目標にされるべきは、「家計を支える女性」比率の向上であって、単にどこかに勤めているというだけの家計補助的な働き方をする女性をカウントしたものではあってはならないと私は考えます。要するに「夫の配偶者控除が受けられる範囲で働きたい人たち&働いて収入のある親と暮らしていたり、夫の給料が高い人」を非正規でチマチマと働かせて、それで「女性の社会参加が進んでいる」などとアピールするのは誤魔化しでしかない、建前を取り繕いつつその内実は格差を広げるものですらあるだろう、と。

 「配偶者控除が受けられる範囲で働きたい人たち&働いて収入のある親と暮らしていたり、夫の給料が高い人」であれば、非正規雇用でも満足できます。そして非正規雇用でも満足できる人が労働市場に流入すれば、安定雇用を望む人々の立場はどうなることでしょう。日本で働く人の賃金を高めていくことが国内市場の購買力を底上げし、引いては経済成長にも繋がっていくのですが、一方でデフレ志向の強い財界筋には「安い労働力」を求める声も根強いものがあります。そして低賃金労働の担い手として期待される移民の受け入れ拡大を求める人もまたいるわけです。この辺は流石に反発も小さくないところですが、実はもう一つ、低賃金労働の担い手として目を付けられている層もあるのではないでしょうか。

 それが要するに「配偶者控除が受けられる範囲で働きたい人たち&働いて収入のある親と暮らしていたり、夫の給料が高い人」で、こうした層が「安い労働力」の調達先として期待されているフシもあるはずです。そして非正規でも特に不満を持たずに働いてくれる人がたくさんいるのなら、生活に必要なだけの賃金と将来の保証を求める人などは雇用側にとって「面倒くさい人」でしかなくなってしまいます。「配偶者控除が受けられる範囲で働きたい人たち~」を増やすことは、「生活のために働く人」を低賃金労働者と競合させることに繋がりねませんし、女性の非正規社員を増やしたところで性別による格差が解消するはずのないことは考えるまでもないでしょう。しかし、この辺が女性の社会進出だの男女共同参画云々との美辞麗句で誤魔化されているところもあるのではないかと思うわけです。

 

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よくある無意味なアンケート

2014-05-26 22:10:13 | 社会

子宮頸がん予防ワクチン 接種者44パーセントが発症 藤沢市(神奈川新聞)

 藤沢市は23日、子宮頸がん予防ワクチンの接種者を対象に行ったアンケート結果を公表した。接種後の体調の変化について、44%に当たる1442人が何らかの症状が出たと回答。このうち、13人は現在も症状が続いていると答えた。

 アンケートは、市民の実態把握のため実施した。対象は、国が任意接種を開始した2011年3月から14年3月末までの接種者7千人。いずれも1994年4月2日~2002年4月1日生まれの女性で、3277人が回答した(回答率46・8%)。

 症状の内容は、「注射部の痛み、かゆみ」が1118人で最多。以下▽注射部の腫れ、あかみ=824人▽だるさ、疲労感、脱力感=330人▽手足の痛み=119人▽頭痛=66人▽発熱=52人▽めまい=44人▽湿疹=15人▽失神=9人-と続いた。

 症状の期間については、「2日以上1週間未満」の1048人が最も多く、1カ月以内に症状が消えた人が全体の96%を占めた。一方で13人が「継続中」と答え、1カ月以上続いた人が16人だった。

 

 こんなアンケートが藤沢市で行われたようですが、酷い話です。まぁ大小の新聞社もヨソの自治体も日本全国の営利企業も無意味なアンケート結果を得意げに披露しているところが多いですので藤沢市が特別とは言いませんけれど、もう少し考えて仕事をしたりできないのかな、と思います。いやまぁ、余計なことを考えるような人は民間だろうが公務員だろうが採用されないのかも知れませんが。

 色々とツッコミどころはあります。神奈川新聞も相変わらずの偏向報道ぶりと言いますか、見出しには大きく「接種者44パーセントが発症」と掲げられていますけれど、しかるに内実はと言えば「注射部の痛み、かゆみが1118人で最多」、それに続くのが「注射部の腫れ、あかみ=824人」だそうです。それを「発症」と呼べる神奈川新聞の記者の頭の方こそ、私には心配に思えてきます。注射したところが腫れたり痒くなったり等々、そんなものはインフルエンザの予防接種だって同じでしょうに。

 個人的なことを言えば注射跡が腫れて痒くなるのは常のことですし、その後に挙げられている「だるさ、疲労感、脱力感、手足の痛み、頭痛、発熱、めまい」といった症状もまた予防接種の有無とは別に頻繁に見舞われています。もう少し健康な若い娘なら話は違うのかも知れませんが、自己流ダイエットで体を痛めつけているような人ならばやはり、注射とは無関係に疲労感や脱力感に見舞われたりもするものでしょう。あるいは生理が重い人なんかは、やはり健康であろうとも症状が出る、それがワクチン接種の時期と偶然に重なることもあるはずです。

 割と軽く見られがちな例を挙げますと、親知らずの治療なんかでも麻酔や抜歯の際に神経を損傷させて麻痺が残る、みたいなケースがよくあるわけです。ところが、どうにもリスクの大きさよりも目新しさの方が世間的には重視されるところがあるように思います。放射線/被曝絡みの危険性が、大半はろくに理解もされないまま騒ぎ立てられる一方で既存のリスクがまったく考慮されない等々、この子宮頸がん予防ワクチンに関しても同様、少なからず誤った取り上げられ方をしているのではないでしょうか。

 端的に言えば、リスクは比較されなければ意味がないものです。Aというリスク(を含む選択)を回避した結果としてBという新たなリスク要因を招き寄せるのであれば、AとBを秤にかけなければならない、そこでよりリスクの小さい方を選択するのが当然の理性と言えます。逆に選択Aにリスクが「あるか、ないか」で判断してしまうことで、より重大なBという危険因子から目を背けてしまうのは、救いようのない愚か者の選択です。

 残念ながら、この国の偉い人は一般に愚かです。そういう人が選出される背景を作ったのは国民ではないかというのはさておき、しばしば我々の社会ではリスクが「あるか、ないか」だけで完結してしまうことが多いわけです。典型的なのが原発利用を巡る是非で、原発に危険性が「あるか、ないか」を問うばかりで、原発を使わなかった場合に想定される諸々の負の要素と秤にかけるようなバランス感覚を持った人は残念ながら多くありません。そして子宮頸がんワクチンも然り、予防接種のリスクが「あるか、ないか」を問う声に圧倒され、子宮頸がんを発症するリスクとの軽重を計る理性は傍流に追いやられがちです。

 そしてリスクと同様に、統計もまた比較されなければならないと言えます。この辺が冒頭で「無意味」と断言した理由になるところで、要するに適正な比較対象のないアンケートでは結果が示すところが何であるかを判断することなどできないわけです。もし今回のアンケートを意味のあるものにしたいのなら、似たような母集団で注射を受けなかった場合(あるいは申告した症状がワクチン接種の時期以前にもあったかどうか)、そして似たような母集団で子宮頸がんワクチンとは別種の筋肉注射を受けた場合も最低限、調査する必要があるでしょう(厚生労働省は調査しているようなのですが)。

 こうしたものと比較することで、自己申告された症例がワクチンと関係するのか、それとも筋肉注射を受ければ普通に起こりうる範疇なのか、あるいは普通に生活していても起こりうる範囲なのかが推測できるようになります。上でも触れたように注射跡が腫れるくらいはよくあること、皮下注射でも一般に起こることですし、ちょっと不健康な人なら頭痛や目眩なんて日常の風景なのです。そういった「普通」を考慮できていないアンケートなんて、何の意味もありませんし、取り上げるメディアにもそれくらいの理解は求めたいところ、しかし神奈川新聞の見出しはあらぬ誤解を広めようとする悪意が感じられますね……

 

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ある福島大准教授の真実

2014-05-24 12:03:12 | 社会

元自民幹部「赤旗」に続々 首相批判、共産が追及に利用(産経新聞)

 加藤紘一氏ら元自民党幹事長の共産党機関紙「しんぶん赤旗」への登場が相次いでいる。自民党とあらゆる面で正反対の「宿敵の土俵」のはずだが、いずれも安倍晋三首相への批判を展開。かつての政権・与党中枢の“反乱”は、共産党による「保守派でさえ反対することを推し進める首相」というイメージの拡散作戦に活用されている。

(中略)

 ハト派と呼ばれた加藤氏らは現職当時から首相と政治理念などで対極にあり、平成24年の第2次安倍政権発足後に赤旗への登場が増えた。志位和夫委員長は15日の記者会見で、加藤、古賀、野中3氏の名を挙げ、行使容認について「保守政治を屋台骨で支えてきた人々がこぞって反対している」と強調。その上で「真面目な保守の方々と協力関係を強めたい」と、連携まで呼びかけた。

 

 先日は安斎育郎氏を例に軽く言及したところですが、「保守」にせよ「反原発」にせよ、古株と現行の主流派との乖離が著しいなと思うわけです。上の引用では長年にわたって自民党における保守の「本流」として活躍してきた政治家の名が上がっていますけれど、昨今での扱いはどうでしょう。かつての天敵であったはずの共産党の機関誌から招かれる一方で、産経新聞に限らず「保守」を自称する層からは専ら敵視されることが多いようにも思います。この辺、原発の利用自体には否定的でも科学に背を向けない人は反原発の主流派から御用学者だの原発推進勢力だの工作員だのと罵倒されてきたのと同じようなもの、たぶん今時は歴史に背でも向けないと「保守」のお仲間とは認めてもらえないのでしょう。

 

福島には住めない発言、准教授「使わないで」 「美味しんぼ」編集部が拒否(朝日新聞)

 週刊ビッグコミックスピリッツの人気漫画「美味しんぼ」(小学館)に登場する荒木田岳(たける)・福島大准教授が「除染しても福島には住めない」という自らの発言を作品で使わないよう求めたにもかかわらず、編集部が「作品は作者のもの」と応じずに発行したことがわかった。編集部が取材に事実関係を認めた。

 荒木田氏は12日発売号に載った「美味しんぼ」に実名で登場。「福島はもう住めない、安全には暮らせない」「福島を広域に除染して人が住めるようにするなんて、できないと私は思います」などと述べた場面が描かれている。

 編集部によると、荒木田氏は2年前に原作者の雁屋哲氏らと出会い、取材を受けるようになった。体験や持論を伝えるなかで、こうした発言もした。

 だが、荒木田氏の関係者によると、昨年末に筋書きを知った荒木田氏は、福島全体が住めないと読者に受け取られるおそれから、「自分もここで暮らしており、使わないでほしい」と編集部側に要望。福島で暮らさざるを得ない県民感情に配慮した表現を求めた。

 これに対し、編集部は「作品は作者のもので登場人物のものではない」と説明。荒木田氏は「作品の中身の是非まで言う立場にない」と最終的に伝えたという。

 取材に対し、編集部は一連の事実関係を認め、「同じ土地に住んでいても個々人によって判断が異なり、それぞれが被曝(ひばく)について考えることがある。広く『福島』とする表現を作者が採用したことには意味があると考えた」としている。

 荒木田氏は20日、こうした経緯には触れず、「美味しんぼをめぐる議論が世間の対立を激化させている現状に心を痛めている」とする見解を公表した。(本田雅和)

 

 ……で、こんな話もあるようです。荒木田岳と言ったら、それはもう完全に雁屋哲と同じ側の論者であって「美味しんぼ」に掲載された発言はいかにも荒木田氏らしいもの、氏の世界観をよく伝えるものです。あの漫画は福島の真実を伝えるものではありませんでしたが、この福島大准教授の真実はよく伝えていたと言えます。しかるに関係者――とりあえず本人ではないのでしょう――によると自らの発言を作品で使わないよう求めたとのこと、でも「前科」を鑑みればこの人が世間にあらぬ誤解を広めることに罪の意識を覚える類とは考えにくいです。

 そもそも「美味しんぼ」に掲載しないで欲しいと「関係者」から伝えられたという発言を朝日新聞というスピリッツよりも遙かに発行部数の多いメディアが報道してしまっているわけですが、朝日新聞は荒木田氏の承諾の元で発言を掲載しているのでしょうか。本人の要請を振り切って「美味しんぼ」が荒木田発言を使ったことに朝日新聞が何らかの問題意識を持っているのなら、同様に本人の発言をより発行部数の多い媒体に載せた朝日新聞の思惑もまた、取材対象になっても良さそうなものです。よもや漫画雑誌に権利はないけれど、我が社には報道の自由があるとでも思っているわけではないでしょうね?

 3月には安倍内閣が河野談話を撤回しようとしているという記事がアメリカの新聞に載って、後に日本政府からの抗議で撤回されるという一幕がありました。安倍晋三の本音はまったく隠れていなくとも、しかしアメリカに対する「建前」というものがある、仲間内では自身の世界観に酔いしれることができても、アメリカに向けては行儀良く振る舞わなければという意識もあったのでしょう。荒木田氏の態度もこれと同じようなもの、脱原発サークルのオトモダチの間では、あるいは中日新聞みたいなアレな媒体の中では偏見を広めるのに乗り気でも、今回のように「アウェー」の目線に触れる場所で自身の発言が晒されるという事態を前には態度を変えたくなるところもあったものと推測されます。

 よく「オフレコの発言を記事にされた」と怒る偉い人がいるわけです。しかしまぁ、公に言えないようなことを仲間内で囁き合うというのもまたどうかと思わないでもありません。全くの私人ならプライバシーというものがあって、それは表現の自由だからと言って安易に侵されて良いものではないわけですが、反対に社会的な地位なり影響力なり権限なりの面で「上」にいる人は、その立場に応じて発言にも責任が求められるものではないでしょうか。大学の教授職というものも――放射線や被曝に関しては全くの素人でも――そんなに軽い地位ではありませんし、自らあれこれと(真偽はさておき)主体的に情報を発信している分野に関わる発言ならばなおさらのこと、「掲載しないで」では済まされないものもあるように思います。

 

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船を山に登らせようとするのはイノベーションなのだろうか

2014-05-21 22:51:17 | 雇用・経済

 船頭多くして船山に登る、ということわざがあります。ことわざとしての知名度は低くない方だと思うのですけれど、実際にそれを教訓として意識している人はどれだけいるのでしょうか。日本の会社の求人と言いますと、とかく「コミュニケーション能力」一辺倒になりがちですが、ちょっと上の――第二新卒とか馬鹿げた名称では呼ばれなくなるような――年代を対象にした求人ともなりますと、今度はやたらと「リーダーシップ」を連呼する類が目立つようにもなったりします。リーダーシップを発揮できる人材を待ち望むと、そう描かれた求人を目にすることが極めて多いのですね。

 よくよく考えてものを言えよ、と思います。まぁコミュニケーション能力よろしくリーダーシップも一種の決まり文句と言いますか、それを掲げておけば格好が付くという代物なのかも知れません。しかし毒にも薬にもならぬと言うよりも、それは有害でさえあるのではないかという気が私にはするのです。年を取れば当たり前のように会社から追い出され若い人に入れ替えられるブラック企業ならばいざ知らず、真っ当な会社の労働年齢世代からすれば、自分より若い人の方が頭数が少ないのが普通です。40歳代よりも30歳代の方が少ない、30歳代よりも20歳代の方が少ない、この傾向は将来的にも続くであろうことが確実でもあります。

 そんな少子化が進む時代にありながら、30歳以上の中堅向けの求人で挙って「リーダーシップ」が求められるというのも奇妙な話ではないでしょうか。自分から見て年少者の方が数が少ない、年上の方が頭数が多い、それが避けられない時代に突入して久しいのに、当たり前のようにリーダーシップが求められる、これを真に受けて年長者がリーダーシップを発揮しようものなら、言うまでもなくリーダーの数が部下の数を大きく凌駕してしまうことになります。船頭ばかりを集めてどうするの?

 もしかすると日本の企業経営者にとって、船頭多くして船山に登るとは一種のイノベーションに見えているのかも知れません。リーダーシップを持った人間を集めることで、船を山に登らせるような新しい展開を期待しているとも言えます。あるいは船頭を集めつつもトウが立った人は片っ端からリストラして少子化時代の中でも社員の世代構成をピラミッド型に維持しようとか、そんな風に規制緩和系の論者は考えているのでしょうか。私はもう少し、船を漕ぐ人を集めた方が良い、水を運ぶ選手を集めた方が合理的と思うのですけれど。

 「もっと静かに演奏しろ」と、オーストリアの名指揮者であった故カラヤンは楽団員に指示したそうです。特定のセクションが大音量で演奏すると別の楽器の音が聞こえなくなってしまう、後ろに引っ込められてしまうこともあるわけで、全体の調和を考えれば「もっと静かに演奏しろ」と要求することもまた合理的であったのでしょう。例によってこの辺は、オーケストラに限った話ではないと思います。

 日本の働き方の非効率な部分としてはよく「会議が長い」ことが挙げられます。そうですね、実に長い、ああでもない、こうでもないとグダグダ駄目出しを続けながら深夜にまで及ぶことも珍しくないでしょうか。必要な事だけ告げて、意見のある人だけ手を挙げるだけなら話は早そうなもの、しかるに何を言ってもあれではダメ、これではダメだとケチが付き、永遠に結論が出ないまま議題がこねくり回され続けるわけです。

 議論に積極的に参加することが、たとえ下っ端であろうとも日本では当たり前のように求められている、社員である以上は船頭として進路について意見を持てと、それが当たり前のように思われているフシがあります。本当は意見などなくとも、何かしら発言をしなければならない、そういう雰囲気が作られてはいないでしょうか。なにせ日本の社員と言えばリーダーシップを要求されて育った人ばかり、会議の場でどんどん意見を述べていかないと不熱心と受け止められかねないところもあるはずです。その結果として「ああでもない、こうでもない」と誰が意見を出しても横槍が入って決断が下されるには至らない、会議はいつまでも続いて終わる様子がありません。必要もないのに意見を言わなくて良い、船頭の指示に沿って動く漕ぎ手であっても良い(役割を果たしている)、そういう理解も求められるところです。

 

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左派こそ批判的になるべきもののはず

2014-05-18 22:30:15 | 社会

不快な思いに責任痛感…美味しんぼ問題で編集部(読売新聞)

 小学館の週刊漫画誌「ビッグコミックスピリッツ」連載中の漫画「 美味しんぼ」(作・雁屋哲、画・花咲アキラ)で、原発事故後の健康への影響に関する描写が批判を受けている問題で、同誌の19日発売号に掲載されている編集部の見解が、16日明らかになった。

 「編集部の見解」は村山広編集長名で出され、「福島の真実」編として作品に描かれた内容について、「多くの方々が不快な思いをされたことについて、編集長としての責任を痛感しております」と述べた。

 掲載に踏み切った理由として、健康不安を訴える人の存在などは事実であり、「少数の声だから」などの理由で取材対象者の声を取り上げないのは誤りという雁屋さんの考えは、「世に問う意義があると編集責任者として考えました」と説明している。

 

 ヘイトスピーチとは、果たして何を差すのでしょう。特定の人種、民族あるいは国籍(ルーツ)を対象にしたものだけをヘイトスピーチと呼ぶのか、あるいは特定の国籍に限らずとも対象を誹謗中傷し、それが排除されるよう訴え差別を助長するような言動全般をヘイトスピーチと考えるのか、とりあえず日本国内では一般的に前者であると言えます。特定国のルーツを持った人々への憎悪扇動のみをヘイトスピーチとして問題視するわけですね。しかし、ヘイトスピーチとは呼ばれないヘイトスピーチに晒されているのは、残念ながら特定国のルーツを持った人々には限られていないようです。

 不安を訴える人の存在などは事実であり、「少数の声だから」などの理由で取材対象者の声を取り上げないのは誤り云々との主張を「世に問う意義があると編集責任者として考えました」と、小学館の編集長は述べています。ふむ、では在日外国人や隣国の人間に対して不安を訴える人の存在は事実でしょうか、それとも妄想でしょうか。その「不安」の根拠とは裏腹に、「不安を訴える人の存在」自体は、紛れもない事実のはずです。ではそうした不安を訴える(都合良く選別された)取材対象者の声を取り上げないのは誤りという考えは――世に問う意義があると言えるのでしょうか?

 

「美味しんぼ」一時休載へ 「表現のあり方を今一度見直す」と編集部見解(産経新聞)

 東京電力福島第1原発を訪問した主人公らが鼻血や倦怠(けんたい)感を訴える描写や、「今の福島に住んではいけない」などの表現で議論を呼んでいた漫画「美味しんぼ」を連載する小学館の「週刊ビッグコミックスピリッツ」最新号(19日発売)に、「ご批判、お怒りは真摯(しんし)に受け止め、表現のあり方について今一度見直していく」などとする編集部の見解が掲載されていることが16日、分かった。自治体や有識者による描写への賛否両論を並べた特集も掲載された。

 併せて、美味しんぼを次号からしばらく休載することが明らかにされた。編集部によると、休載は以前から決まっていたという。

(中略)

 この中で、立命館大の安斎育郎名誉教授(放射線防護学)は、1シーベルト超の被曝(ひばく)をしなければ倦怠感は表れないが、漫画で第1原発を見学した際の被曝線量ははるかに低く、倦怠感が残ったり鼻血が出たりすることは考えにくいと指摘。「率直に申し上げれば、『美味しんぼ』で取り上げられた内容は、的が外れていると思います」「200万人の福島県民の将来への生きる力を削(そ)ぐようなことはしてほしくない」と訴えた。

(中略)

 一方で、岡山大の津田敏秀教授(疫学、環境医学)は「チェルノブイリでも福島でも鼻血の訴えは多いことが知られています」「『低線量放射線と鼻血に因果関係はない』と言って批判をされる方には、『因果関係がない』という証明を出せと求めればいい」と擁護。「こんな穏当な漫画に福島県の放射線のことが描かれたからといって文句を言う人のほうが、むしろ放射線を特別視して不安をあおっているのではないでしょうか」とつづった。

 

 安斎育郎氏は、さながら「保守」における「保守本流」的なポジションにいると言いますか、脱原発論者の草分けでありながら昨今の反原発論者の主流からは完全に外れてしまっている人ですね。むしろ敵視されることすらあるくらい。その理由は科学に背を向けなかったからでしょうか、氏の言動は反原発論者の主張を何度となく否定するものとなっています。原発の利用に否定的ではあるけれども科学的事実を曲げない人を、原発否定のために次々と架空のエピソードを捏造し続ける人々が敵視する、そんな構図は往年の「保守本流」と呼ばれた政治家が近年の「真性保守」と称するレイシストから敵視されているのと酷似しています。

 それはさておき岡山大の津田敏秀氏――こんなのでも教授というのですから理研の小保方氏だってそんなに酷い存在ではないと私は感じたところで――が言うには「チェルノブイリでも福島でも鼻血の訴えは多いことが知られています」とのこと、実際に鼻血を出す人はさておき、鼻血の「訴え」は多いのかも知れませんね。100人でしょうか、200人でしょうか。とりあえず「たくさん」ということにしておきましょう。でもそれは、在日韓国/朝鮮人の脅威を訴える声が多いみたいな類と同じようなものです。「訴え」が多かろうとも、その根拠となるものの真偽くらい問うのが理性というものです。

 「『低線量放射線と鼻血に因果関係はない』と言って批判をされる方には、『因果関係がない』という証明を出せと求めればいい」とも津田は語るわけで、要するに被疑者に無実であることを証明せよと迫っているわけです。常識的には嫌疑をかける側が因果関係を証明する責任がありそうなものですが、こういう下らない屁理屈をこねるようなバカが幅を利かせていることには危機感を覚えずにはいられません。まぁ、津田が「津田敏秀の研究室にカバはいない」ことを証明して見せたならば、私も微量の被曝と鼻血には何の関係もないことを証明して見せましょう。

 「不安を訴える人の存在」だの「訴えは多い」だのといった大義名分で、事実無根の中傷や危険視と排除が許されるのであれば、我々の社会は対象の如何によらずヘイトスピーチに抗うことができなくなってしまいます。先日は中日新聞が美味しんぼの描写を指して「主張まで『通説とは異なるから』と否定して、封じてしまっていいのだろうか」と言い張りました。そもそも「封じられた」事実がなく一部で批判を受けたに過ぎないのですけれど、それでも中日新聞的には「行き過ぎ」であり「過剰反応」なのだそうです。ちょうど安倍内閣が集団的自衛権を軸として憲法の歪曲に踏み出したところですが、中日新聞の論理に従えば安倍内閣の憲法観も「主張まで『通説とは異なるから』と否定して、封じてしまっていいのだろうか」ということになる、それを批判するのは行き過ぎということになっていまいます。瀬戸内寂聴が「(原発が稼働する時代より)戦争中の方がまだましでしたよね」などと言い出したときもそうですが、こういう流れには左派こそ危機意識を持つべきではないかと思うところ、しかし実態はどれほどのものやら。

 

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反原発と言うより、反福島

2014-05-16 00:02:59 | 社会

福島県内の反発拡大 抗議声明も 「美味しんぼ」被ばく発言(河北新報)

 東京電力福島第1原発を訪問後に鼻血を出す描写が議論を呼んでいる漫画「美味(おい)しんぼ」(雁屋哲・作、花咲アキラ・画)を連載している「週刊ビッグコミックスピリッツ」(小学館)の最新号が12日発売され、福島県双葉町の井戸川克隆前町長が鼻血の原因をめぐり「被ばくしたからですよ」と語る場面があることが分かった。最新号では、主人公らとの会話の中で井戸川氏が「福島に鼻血が出たり、ひどい疲労感で苦しむ人が大勢いる」として、被ばくを原因に挙げた。さらに「今の福島に住んではいけないと言いたい」と発言した。福島大の荒木田岳准教授が除染作業の経験を基に「福島を広域に除染して人が住めるようにするなんて、できないと私は思います」と語る場面もある。また、岩手県の震災がれきを受け入れた大阪市内の焼却場近くの住民が鼻血を出したり、目やのどなどに不快な症状を訴えたりしているとの表現があった。

(中略)

 福島市内などの書店やコンビニエンスストアなどでは軒並み、12日発売号が売り切れた。
 県庁近くの西沢書店大町店では前日までに購入予約が相次ぎ、12日昼までに完売した。同書店の担当者は「話題になっていることもあり、すぐに売り切れた」と話した。

 

 参考、週刊ビッグコミックスピリッツ「美味しんぼ」に関する本県の対応について - 福島県

 さて「美味しんぼ」が話題に上っているわけです。掲載誌のスピリッツと言えば売り上げ的には遠からず休刊もしくは廃刊になってもおかしくな状況であったと認識していますが、美味いこと炎上ビジネスに成功したと言ったところでしょうか。近年ですと東洋経済とか、おそらくは意図的に粗悪な妄想垂れ流しの記事を乱発することで活路を見出そうとしているメディアも散見されます。まぁ、普通からキワモノに転身すれば変化として注目されることもある一方で、逆に元からトンデモ路線だと既に飽きられている、相手にされなくなっているケースも多々あって、そうした点ではこの「美味しんぼ」以外にも世間的な注目度の低いところで風評被害の拡散に努めている輩は少なくない、「美味しんぼ」ばかりが批判されるのも気の毒かなという気はしないでもありません。スピリッツ編集部からすれば、狙い通りなのかと推測されますけれど。

 なんだかもう今さらの感も拭えないのですが、鼻血が出るほど被曝したら「絶対に」鼻血だけでは済みません。鼻以外の色々なところからも出血しますし、かなりの確率で死にます。逆に鼻血だけで収まっているのなら、被曝の影響でないことは確実です。そもそも鼻血が出るほど被曝するためには厳重な警備網を突破して原子炉内にダイブするくらいしないと無理なのですが、まぁ「想像だけで」放射線の――というよりも福島の――害を説く人は今なおいるわけです。こういう、現実に原発事故が起こっても何も学ぼうとしない人には、もうどうすることもできませんね。

 ちなみに「福島に鼻血が出たり、ひどい疲労感で苦しむ人が大勢いる」と言い張るのは福島県双葉町の井戸川克隆前町長、そのような事実はないと自治体からも地元メディアからも福島在住という無名のネット住民からも氏の言動は否定されています。何でも井戸川氏は「地震津波のあった年の3月3日に、地震津波があることを日本政府は知っていたんですよ。しかし、それを止めたのは、政府と東京電力と東北電力と日本原燃が発表を止めてしまったんですよ。」などと主張しているとか。元々は原発を誘致する側の人間であったそうですが、この辺の支離滅裂さへの転向は小佐古敏荘辺りを思い出させてくれます。

 なお問題の「美味しんぼ」では、「大阪で、受け入れたガレキを処理する焼却場の近くに住む住民1000人ほどを対象に、お母さんたちが調査したところ、放射線だけの影響と断定はできませんが、眼や呼吸器系の症状が出ています。」「鼻血、眼、のどや皮膚などに、不快な症状を訴える人が約800人もあったのです。」などと主張しているそうです。そもそも処理に使われた大阪の焼却場は住宅地から遠く、近隣住民の実在性すらも疑われているようですけれど、それ以前に大阪で燃やされたガレキは岩手県から送られたものです。岩手まで?

漫画『美味しんぼ』での大阪における災害廃棄物の処理に関する記述について - 岩手県

漫画『美味しんぼ』での本府の災害廃棄物処理に関する記述について - 大阪府

 かつて、岩手は陸前高田市から送られた松が住民?の抗議によって送り返されたりなんてこともありました(参考、偏見や嫌悪を煽る声に立ち向かおう)。福島第一原発から陸前高田市まで、どれだけ距離があると思われているのか興味深いところですが、良くも悪くも「東北は一つ」みたいな感覚が蔓延してもいるのでしょう。「美味しんぼ」の作者にしてみれば岩手も福島も同じようなものなのかも知れません。いかに測定が繰り返され影響のないことが確認されても危険を煽り続け、ありもしない被害を捏造するような人もいる、そういう人に媚びる政党・政治家もまた存在するわけです。ガレキ受け入れを巡る賛否は、その人が現実に向き合うか妄想の中に生きるのかを端的に表わすリトマス試験紙的なものがあるようにも思います。

 「この漫画はフィクションであり、実在の個人、団体とは全く関係ありません」云々と逃げを打つなら、まぁ表現の自由を口にする資格も一応はあるでしょう。しかるにスピリッツ編集部に言わせれば「美味しんぼ」は「綿密な取材に基づいて」描かれているとのこと、そうであるからには創作の自由云々よりも前に、風説の流布ではないかと問われねばなりません。ノンフィクション風のフィクションは最もタチが悪いと言いますか、実際には純然たるフィクションであるにも関わらず、それが事実であるかのごとく誤解を招く、作者側が意図して読者を誤解させようとしている類は、より厳しい基準で見られるべきものです。

 

美味しんぼ批判 行き過ぎはどちらだ(中日新聞)

 しかし、時間をかけた取材に基づく関係者の疑問や批判、主張まで「通説とは異なるから」と否定して、封じてしまっていいのだろうか。

(中略)

 問題提起はそれとして、考える材料の提供である。登場人物が事故と被害をどう見ていくのか。作品を通じ、作者は社会に訴えようと試みる。行き過ぎはないか。もちろん、過剰な反応も。

 

 もはや「いつものこと」として「美味しんぼ」ほどの話題を呼ぶことはありませんが、悪質さでは十二分に上を行くのが中日新聞(及び東京新聞)です。この東北地域では売られることのない新聞ほど原発に対する現地の感覚と、離れたところから妄想をたくましくする人々の感覚の乖離を表わしているものはないように思います。放射線への被曝に乗じて得体の知れない製品や粗悪なサービスを売り込む悪質な事業者の提供するネタを大々的に新聞に載せたり、ありもしないことと書き立てて福島が危険であるかのごとくに言い募るヘイトスピーチを擁護してきた前科には事欠きませんが、こういう扇動メディアも「美味しんぼ」と同等かそれ以上に批判されてしかるべきではないでしょうかね。

 中日新聞に曰く「時間をかけた取材に基づく」云々とのこと。しかし、どんなに時間をかけても間違いは間違いです。取材に時間をかけさえすれば無実の人を殺人事件の犯人であると報道しても良いのでしょうか。取材にかけた時間は報道の真実性を担保するものではありません。あるいは「『通説とは異なるから』と否定して、封じてしまっていいのだろうか」とも強弁しているわけですが、根本的に「事実と異なる」ことを主張し、その結果として実在する人々に迷惑をかけるようなことが許されるはずもないでしょう。そして通説と異なるからといって批判するのは行き過ぎというのなら、もはや代替医療やエセ科学の詐欺や、安倍内閣の歴史観や憲法観を批判するのだって行き過ぎということになってしまいますし。

 「問題提起はそれとして、考える材料の提供である」と逃げが打たれてもいますけれど、実態からかけ離れたところで捏造された架空の被害を元にした問題提起など、レイシスト連中の唱える外国人排斥論と何ら変わるものではないでしょう。それは問題提起であって批判するのは過剰反応――そんな中日新聞の論理に従えば、あらゆるヘイトスピーチを野放しにしなければならなくなってしまいます。まぁ、ありもしない危機を煽り立て、福島や東北に纏わる諸々が危険であるかのごとき偏見を広めてきた、それが排除されるよう仕向けてきた中日新聞社としては、こういう論法にならざるを得ないのかも知れません。

 

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人事権を持つ側の能力が問われる

2014-05-13 23:12:54 | 雇用・経済

働き手「70歳まで」…新生産年齢人口に(読売新聞)

 政府の経済財政諮問会議(議長・安倍首相)の有識者会議「選択する未来」委員会が、人口減と超高齢化への対策をまとめた提言案が明らかになった。

 70歳までを働く人と位置づけるほか、出産・子育て関連の給付など支援額を倍増させる。高齢者と女性の活躍を後押しすると同時に出生率の引き上げを図り、50年後の2060年代に1億人程度の人口を維持することを目指す。

 同委の三村明夫会長(日本商工会議所会頭)が「2020年及び半世紀後を展望した日本経済への提言」を5月半ばに諮問会議に提出する。政府は、6月にまとめる「経済財政改革の基本方針(骨太の方針)」に反映させる。

 日本の人口は、60年に現在の約3分の2の約8700万人に減り、約4割が65歳以上になると推計されている。これを踏まえ、提言は「年齢・性別にかかわらず働く意欲のある人が能力を発揮できる」制度が必要とした。

 高齢者について、定年後の再雇用などで70歳まで働ける機会を増やすよう求めた。さらに、20~70歳を「新生産年齢人口」と新たに定義し、60年に約4800万人と見積もった。現在の生産年齢人口(15~64歳)の推計値(約4400万人)より、約400万人多くなる。

 

 どうにも労働力不足云々とは鬼が笑うレベルの話にしか思えないところもあるのですが、まぁ色々と議論だけは盛んな様子が窺われます。ここでは「70歳までを働く人と位置づける~」というのが目玉になっているようですけれど、どうしたものでしょう。60歳が定年という社会的通念ができあがった時代の60歳と現代の60歳とでは健康さの度合いがまったく違う、昔の60歳よりも今の70歳の方が元気であるケースも多いとは言えますし、そもそも年金受給開始年齢が(加入者の同意なく)繰り上げられる中では、そこに至るまでの雇用の保証がなければ制度として致命的な欠陥ができてしまう、定年から年金受給までの間に空白ができれば、それこそ収入を絶たれて生活保護受給を選ぶ人が激増しかねない、その辺の折り合いを付けるにはこのような提案が出てくることは免れないのかも知れません。

 もっとも成人年齢を18歳に引き下げようという議論も盛んな中で、「新生産年齢人口」と新たに定義されたのが「20~70歳」辺りに、私などは首を傾げないでもありません。成人と認める18歳から「新生産年齢人口」に区分される20歳までの空白は、いったい何に当たると政府筋では考えられているのでしょうか。政府絡みのの機関であるからには政府の方針との一貫性も求められてしかるべきものと思われます。むしろ寿命が延びた時代には子供である時間も延ばした方が良い、思い切って成人年齢を25歳くらいまで引き上げて、同様に生産年齢も25~70歳くらいまでに引き上げた方が日本社会の実態に添うのではないかとも私は考えるのですが。

参考、改革という名の退行に背を向けて

 総じて経済系の論者は、中高年をリストラして若者を働かせたがっていると言えます。若者の就業機会の乏しさは中高年が居座っているからだと、あたかも「若者の味方」を装って若年層の被害者意識を人事権を持つ経営層にではなく、中高年世代に向けようと躍起になってきた人がいるわけです。私は正反対で寿命が延びた分だけ中高年を長く働かせて、若者は遊ばせておくべきだと主張してきたところですが、そうした立場を取る人には滅多にお目にかかれませんね。実際に会社を動かしている人々の間にも、中高年を排して若者に入れ替えたがっている様子は色濃いですし。

 日本――に限ったことかどうかは知りませんが――では性別に限らず、年齢でも役割が固定されがちなのではないでしょうか。○○は男性の仕事、○○は女性の仕事、そうした固定観念と同様に○○は若手の仕事、○○は年長者の仕事みたいな先入観が支配しているところがあるように思います。この辺、良くも悪くも若手と中高年の仕事が隔てられていることで定年延長が若手の仕事のニーズを奪わないことにも繋がっている一方、若くなくなった人の使いどころを見いだせずに持て余し、「もっと簡単に解雇できるようにすべきなのだ」と自らの無能の責任を棚に上げて主張し出す人もいるわけです。

 往々にして年長者には管理職としての役割を期待されるところですが、しかし人口増加が続き下の年代ほど人口が多いとか、第一次産業や自営業の家に生まれた子供がどんどんサラリーマン化していくとか、そういう理由で従業員の年齢構成が自然とピラミッド型になっていく時代ならいざ知らず、現代は逆に下の年代ほど頭数が少なくなっていくものです。当たり前のこととして、年長者よりも率いるべき後進の数の方が少ないのです。これからの時代は、「リーダーではない年長者」の存在を会社が認めていく必要があるのではないでしょうか。

 会社に長くいれば誰でも「自分の仕事を奪われる」経験があるように思います。新しく入った若手に自分の仕事を引き継がされて、自分は他の仕事を命じられる、それは日本の会社では当たり前の風景です。ここで新たに割り当てられた仕事でも成功すれば当面のキャリアは明るいと言えますが、逆に元の仕事では上手く行っていたのに新しい仕事では何もかもが悪い方向にしか進まないこともあるでしょう。そうして年を重ねるにつれ、会社からお荷物と見なされるようになる、経済系の論者から無能な中高年だのノンワーキングリッチだのと罵倒されるようにもなるわけです。

 しかし、これは当人の責任なのでしょうか。むしろ適正のある仕事を割り当てることができないでいる経営の問題ではないのでしょうか。困ったことに○○は若手の仕事、年長者なら○○の役目を務めるべき――そうした既成概念に凝り固まった経営陣には配置の適正化による中高年正社員の活用という発想は甚だ乏しいようです。その結果として、リストラされるか、仕事にあぶれたまま窓際に追いやられて放置される中高年正社員が生まれているように見受けられます。70歳まで雇用を延長するのなら、いかにベテランの社員を活用するのか、若手にはコミュニケーション能力、中年以降にはリーダーシップという馬鹿の一つ覚えではなく、もっと本人の適正に応じた人の使い方、とりわけ若くなくなった人の活用法を日本の経営者が身につける必要もあるはずです。トウの立った従業員を退職に追い込んで若手に新たな雇用機会を創出するみたいなブラック企業思考が蔓延しているようでは、人を70歳まで働かせることは至難でしょう。

 

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規制緩和はイノベーションを遠ざける

2014-05-11 23:09:42 | 雇用・経済

日本経済の競争力回復のために「労働時間規制」は強化するべき - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代(ニューズウィーク日本版)

 第一次安倍内閣の際に廃案になった「ホワイトカラー・エグゼンプション」が、今度は「残業手当ゼロ化」とでも言うべき拡大案として、再び検討されているようです。今回は、管理職一歩手前の年収1000万円超クラスに加えて、労使協定を行えば全社員にも適用可(その場合は時間の上限規制はあり)というものです。

 この法案に関しては、過労死推進であるとか、日本経済の総ブラック化といった言い方で批判がされているようですが、私はそのような批判では足りないと思います。現在の日本社会で労働時間規制を緩和するということは論外であり、反対に徹底的に強化するべきです。そうではないと、日本経済の衰退を加速する、そのぐらいの問題であると思います。

(中略)

 とにかく現在の日本経済は「仕事のやり方」という意味で世界から周回遅れになっています。ここで「イノベーション」ができるかどうかが、これからの日本経済が生き残っていけるかどうかの瀬戸際だと思います。そのためにも、労働時間規制は強化するべきであり、緩和は論外だと考えます。

 

 競争力回復のためにこそ、規制は強化されるべきと説かれています。引用元の中略部分にて具体例も色々と書かれているわけですが、とにもかくにも規制緩和が必要だと強弁される日本社会においては見過ごされているものも多いのではないかと思うばかりです。時に私は経済をチーム競技――例えばサッカー――に擬えてきました。戦術的な約束事を撤廃して選手の自由に任せる場合と、連携を重視して個々に戦術的制約を課していく場合、チームとして強くなれるのはどちらでしょう? 経済も然り、企業(雇用主)に自由を与えることを最優先してきたこの十数年間が日本経済にもたらしたものは何であったかを我々は忘れてはなりません。

 「必要は発明の母」みたいに言われることも多いです。これは必ずしも正しくはない、逆に供給が先にあって、後からニーズが喚起されるケースも想定されますけれど、まぁ一般論としては「必要は発明の母」であることが多数派なのでしょう。逆に言えば「必要がなければ」発明あるいはイノベーションの産み出される母体は失せてしまうものなのかも知れません。ニーズもないのに発明しようという、そんな奇特な人は突然変異的にしか現れてこないものです。

 そこで労働時間規制の問題です。日本において人件費は下がるばかりで先進国としては相当に安い部類に入る、加えて残業代の踏み倒しも実質的にはお咎めなしの状態が続いてきました。後者に政府としてお墨付きを与えようというのがホワイトカラー・エグゼンプションでもあるわけですが、果たしてこの企ては何をもたらすのでしょう。もし十数年来の規制緩和路線を継続するならば、イノベーションの必要性は失せる一方、そして必要性がなければそれは産み出されることもなくなると言えます。

 日本において会社側が利益を貯め込むためには、労働者から奪うのが最も簡単で確実です。つまり、社員を非正規に置き換えて働く人の取り分を減らす、あるいは社員にサービス残業を強いて売り上げを伸ばしつつ人件費は据え置く、こうしたイノベーション不要の収奪によって日本企業は空前の内部留保を積み上げてきました。しかし内部留保ばかりが史上最大規模を更新し続ける一方で国のGDPは伸び悩み、世界経済における日本の地位が低下する一方でもあったのは言うまでもありません。

 働く人に無理をさせることで利益を確保してきた企業として代表的なワタミやゼンショーが、政権交代後の景気回復傾向の中で岐路に立たされています。これまでの日本的経営においては、とにかく社員を長く、安く、多く働かせれば済む、あまり頭を使う必要はなかったわけです。しかし、そんなイノベーション不要の日本的経営が日本社会を豊かにすることは永遠にあり得ません。必要なのは、それとは反対のことなのです。

 労働者の立場が弱い社会では、イノベーションは必要ありません。従業員をより長く、より安く働かせれば済むのですから。しかし、それが不可能になったらどうでしょう。今までのように労働者を安く買い叩くことができなくなったら、社員を無償で延々と残業させることができなくなったら――それこそまさにイノベーションが必要とされる時期です。従業員に真っ当な賃金を支払いつつ、それでいて利益を上げられるようになれなければ日本経済の国際競争力向上など笑い話に過ぎません。ここで改革という名の規制緩和によってイノベーションなき日本的経営すなわち安く長く働かせることでしか利益を上げられない経営を延命させるなら、日本が向かう先は新興国の「下」です。

 

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なりたい職業なんてなかった

2014-05-09 23:15:49 | 社会

 「(将来)なりたい職業」あるいは「就きたい職業」を問う類のアンケートは色々ありまして、ランドセルの素材などでも有名なクラレとかが毎年のように結果を発表していたりもします。親が回答する「(子供に)就かせたい職業」ランキングとは裏腹に、子供達の回答は何とも現実味がないと言いますか、単なる人気ランキングに終わっている印象も拭えないところ、まぁ推移を見ることで時代の流行を確認する上では役に立たないこともないのかも知れません。

 上述のクラレのアンケートですと「職人」や「自営業」とは別枠で「パン・ケーキ屋・お菓子屋」とか「板前・コック・寿司職人」辺りが並んでいるなど微妙に被っている様子で分類が機能していない印象も拭えないのですが、その辺はさておき読者の皆様も子供の頃は学校の自己紹介なり諸々で、将来の「なりたい職業」を語る機会のあった人は多いと思います。私も、一度ならずありました。しかし、子供の頃に語った「なりたい職業」に実際に就いた人って、果たしてどれだけいるのでしょうか。

 そもそも子供時代に抱いた「なりたい職業」が現実的な選択肢であった人は、全体の何割程度なのかと思うわけです。男の子の不動の一番人気である「スポーツ選手」なんてのは、それこそ甲子園のような全国大会で活躍するレベルの選手であってもプロに入れるのは至って僅か、選ばれし者だけに許される夢の中の夢の世界です。そうでなくともランキング上位の常連である「パン・ケーキ屋・お菓子屋」「花屋」、「警察官」「運転士」なんかも微妙と言いますか、現実的な目標として目指しうる職業ではありますけれど、そう回答した子供のうちの何割が、果たして本当にそれを目指したのでしょう?

 子供の頃の「なりたい職業」に就いた人を問う以前に、「なりたい職業」を実際に目指した人がどれだけいるのか、その辺も興味があります。小学校時代に言わされた「なりたい職業」なんて所詮は、子供目線で格好良さそうなものを適当に挙げているだけに過ぎない、そういう側面も色濃いはずです。「本当に」なりたい職業とは、果たしてなんなのでしょうね。

 私自身の幼年時代を振り返ってみても、その時々に応じて「なりたい職業」を適当に答えていた記憶はありますけれど、本気でそれを目指したことは一度もありませんでした。端的に言えば「なりたい職業なんてなかった」わけです。その辺は私が働くことに不真面目というのもあるかも知れません。しかし、表向きは働く意欲がある風を装って会社に入った人でも、少なからぬ人は「仕事をしたくないな」と思っているのではないでしょうか。否応なしに出勤を続けているけれども、本音では働きたくない、そういう人も多いはずです。ただ本音で話すことが――とりわけ採用面接の場面などでは――許されないだけで。

 今になってよくよく考えると、職種や業界などはどうでも良かったのだと思います。ただ会社に振り回されたくない、会社に拘束されない自由な時間が十分に確保できるようでありたい、大学を出た後でも読書家であり続けたい、ゲーマーであり続けたいと、そう考えていたわけです。要するに私は好事家になりたかったのですが、それは「職業」ではありませんでした。大事なのは会社都合で解雇されたり転居を強いられたり深夜や休日まで拘束されたり「しない」、自分の好きに生きられる人間であることであって、それは職業を問うようなものではなかったと言えます。

 将来の夢を聴かれて、「お嫁さん」とか答える人の方が、具体的な職業を挙げる人よりも真っ当に自分の未来を考えているのかも知れません。仕事が人生であるならば、なりたい職業を挙げるのも良いでしょう。しかし、仕事よりも大切なものが他にあるはずです。何の仕事に就くかよりも、どういう大人になるのか――仕事一筋に生きるのか、自分の趣味に生きるのか、家族大事で生きるのか、あるいは地域コミュニティ重視で生きるのか――そういうことも考えられてしかるべきではないでしょうか。職業を考えるよりもまず先に、どんな人間になりたいのか問われても良さそうなものです。

 

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