非国民通信

ノーモア・コイズミ

今年も人事は平常運転

2021-03-28 21:55:05 | 雇用・経済

 さて皆様のお勤め先でも、4月からの人事が発令されたところは多いのではと思います。私の勤務先でも一部を除いて公表されているわけですが――例年通りシャッフル人事が目につくところだったりします。まぁ、とにもかくにも「変える」ということが評価に結びつく組織では、シャッフル人事も改革意欲の表れと見られるのでしょう。

 新型コロナウィルス感染者の再拡大が明白となる中、帰省や観光を控えるようにとの意見も聞こえる中ではありますが、「転勤を控えるように」みたいな声明は昨年と同様に耳にする機会がないわけです。転勤命令は神聖にして侵すべからざる雇用主の権利であり、それは帰省や観光とは次元の違うものとして扱われていることがわかります。

 弊社でも4月からは東北の人間を東京に、東京の人間を大阪に、全国各地で従業員を大移動させることが決まっています。転勤を命じられた社員は新居探しや業務の引き継ぎのために県をまたいで飛び回る日々を過ごしているわけですが、どうしたものでしょうね。頓挫したGoToトラベルの埋め合わせというものでもありませんし……

 私の会社は基本給は低いですが転勤者への手当は割と手厚いところがありまして、それは人員増以上にコストのかかりかねない部分であったりもしますが、社員を転居させることにはそれだけの価値があると判断されているようです。まぁ本当の幹部社員ともなれば各地で見聞を広める必然性もありそうですけれど、そうでない人はどうなのでしょう。

 一方で、転勤はおろか同じ部署から永遠に異動しないでいる人もいたりしまして、相変わらず人事の意図はわかりません。2年と待たずに勤務地の変わり続けるジャーニーマンもいれば、私が入社するよりずっと昔から同じポジションで働き続けている人もいて、謎は深まるばかりです。

 全国を飛び回りたいか、それとも同じ部署で働き続けたいか――そういう意向を問われたことは入社して一度もありませんので、たぶん本人の望みによるところとは関係がないものと思われます。本人の選択とは無関係に、高頻度で飛ばされる人もいれば一貫して不動の地位にいる人もいる、人事とは人知を超えたものなのでしょう。

 全国各地に飛ばされる人々が幹部候補のゼネラリストかといえば、そういう風でもありません。そして決して異動の対象にならない人が特定部署になくてはならないスペシャリストかといえば、やはりそうでもなかったりします。ずっと同じ仕事を続けているけれど、必ずしも頼れる存在ではない、ところがどうして会社の評価は低くなかったり……

 ヨソから異動してきた上司は落下傘候補よろしく部署の仕事を知らない、一方で異動とは無縁な人はローカルルールだけは知っている。そうした中で異動とは無縁な人が「リーダーシップを発揮している」かのごとく人事の目には映る場面があるのでしょうか。人事と無関係な人には、別なものが見えている気もしますけれど。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英語とカタカナ語

2021-03-21 22:27:22 | 文芸欄

 海外スポーツ関係の報道を眺めていると、時に「臀部の故障(負傷)」みたいな報道を見かけます。スポーツ選手とは臀部を酷使する仕事なのだなと感心する人もいるでしょうか。どうもこの「臀部の故障(負傷)」、英語の記事では"hip injury"であることが多いようです。まぁ「ヒップ」すなわち臀部の故障と、そういう風に訳されるのは分からないでもありません。

 なお日本のカタカタ語で言うところの「ヒップ」は「臀部」に相当するわけですが、英語で言うところの"hip"の指し示すところとは少なからず異なりまして、英語で"hip injury"と言った場合は「ヒップ」ではなく「股関節」の故障であることが一般的らしいです。英語と、それに近い発音のカタカナ語は、時に日本語の手紙と中国語の手紙のように意味合いが異なることが分かります。

 そもそも英語の"sports"とカタカナ語の「スポーツ」はどうでしょうか。日本でも一時期「eスポーツ」が提唱されたことがありましたけれど、世の反応は「あんなものはスポーツではない」というものが多くを占めたわけです。国際的には"sports"のジャンルとして定着し、選手として大金を稼ぐ人も増えているところですが、それでもカタカナ語の「スポーツ」のイメージとは相容れないのでしょう。

 カタカナ語の「スポーツ」は英語で言うところの何に当たるのか、そこには「ヒップ」と"hip"における指し示す範囲の違いと同等の差があるように思います。カタカナで「スポーツ」と言ったとき、それは身体の運動を要件として捉える人が多数派という印象ですが、そうなると「スポーツ」を英訳するならば"athletics"あたりが近いような気がしますね。

 カタカナ語の「テンション」なんかも、英語の"tension"とは明らかに違う使い方しかされません。「テンション」をどう英訳して良いのか私にはよく分からないです。他に「ガバナビリティー」とかもコンサル用語で良く使われますが、英語の"governability"とは全く正反対の意味を持っているものと解釈できます。そして「プロフェッショナル」あたりもどうでしょう?

 英語で"professional"と言ったとき、それは「職業~」を指すものとされています。スポーツ界隈では失点を防ぐために行われる意図的な反則行為を"professional foul"と呼び、これはそのままカタカナ語でもプロフェッショナルファウルと伝えられるところですが、カタカナ語の「プロフェッショナル」のニュアンスと比べてどうでしょうか。どうも日本で言う「プロフェッショナル」と、あくまで仕事としての"professional"には溝があると感じます。

 ドイツには「連邦憲法擁護庁」と訳される組織があり、ドイツ語では"Bundesamt für Verfassungsschutz"、英語では"Federal Office for the Protection of the Constitution"と書かれます。要するに"Constitution"すなわち「国体」を守るための公安組織なのですけれど、日本人が「憲法擁護」という字面から想像するものは、もう少し別のものであるような気がします。

 勿論"Constitution"とは国家体制を意味すると同時に憲法をも意味します。"Constitution"を"Protect"するのであれば、それを「憲法擁護」と訳しても間違いとは言い切れません。しかし「憲法擁護庁」の実態と、日本人が抱くであろうイメージは大きく異なるはずです。国体と憲法を不可分の"Constitution"として認識する文化と、両者を別物と思いがちな文化であれば、使われる言葉が同じでも受け止め方は違ってくることでしょう。

 まぁ日本語の中でも、字面と意味合いが一致しない、言葉から受ける印象と実態が異なるものもあります。例えば「実効税率」など、あたかも実際に課される税率のように感じてしまう人は多いのではないでしょうか。これは給料の「額面」と「手取り」に例えれば前者に相当するもので、実効税率ではなく「額面税率」と呼ぶべきと私は提唱しているのですが、まぁ法人税負担を重く見せかけたい政財界の思惑とは相容れませんね。

 いずれにせよ、言葉によって想起されるものは時に実態と異なるわけです。誤ったイメージを与えないように誠実に言葉を選ぶことも出来れば、都合良く読者や聞く側が誤解してくれるよう言葉を選ぶこともできます。経営者が従業員に「プロフェッショナルであること」を要求したとき――給料のために働く以上"professional"であることは既に満たされているはずですが――そこにはどういう意図があるのでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目標未達の責任は

2021-03-14 21:38:36 | 社会

 首都圏における新型コロナウィルスの感染者は下げ止まりが指摘されてきたわけですが、とうとう先週比で上回る日が続くなど、緊急事態宣言が継続中であるにも関わらず増加に転じる兆しさえ見え始めています。メディアが語るのを好むのは専ら「自粛疲れ」ですけれど、実際に起こっているのは「コロナ慣れ」でしょうか。

 結局のところ身体的な意味合いでの集団免疫が幻でしかない一方で、社会が感染者の拡大を深刻に受け止めなくなってしまうと言う精神的な面での免疫は広まりつつあるのかも知れません。ただ感染者の増加に危機感を抱かない人がどれだけ増えたとしても、それで感染症の影響がなくなることへは繋がらない、健康リスクは高いままであり、医療の逼迫も続くわけです。

 首都圏の緊急事態宣言は2週間の延長が発表され、そこから1週間が経過しました。残る1週間で顕著な減少に向かう可能性は乏しく、果たして解除して良いものかという意見は当然ながら出てくることでしょう。ただ継続してもなお感染者数は増加に向かうとなると、今までの緊急事態宣言とは違ったことも考えなければならないように思います。

 

「出勤者半減」目標が…千葉県庁テレワーク率たった4%(朝日新聞)

 新型コロナ対策で「出勤者5割減」を掲げた千葉県庁で、1月のテレワーク実施率が約4・4%にとどまることがわかった。森田健作知事が民間にテレワーク導入を訴える中、足元の県庁では全く進んでいない。

(中略)

 民間でも浸透していない。森田知事は「出勤者7割減」を求めているが、1月22日~2月8日の県の調査では、県内4972事業所のうち、そもそもテレワークを実施した事業所が979件(19・7%)にとどまった。

 テレワークを実施した事業所でも、週1日以上実施した従業員の割合は、「1割」が50%、「2割」が11%で、実施状況は小規模とみられる。

 

 次の千葉県知事は現・千葉市長になりそうな様子ですが、千葉市役所のテレワーク実施率はどの程度なのでしょうね。上の人間がそれらしきポーズを取ることはあっても、現場がテレワークに移行するかは別問題、人々がコロナに慣れてしまった今となっては政府の緊急事態宣言があろうとも仕事のスタイルひいては生活のスタイルを変えない人も多いであろうことが分かります。

 日本国内の地方格差は顕著ですけれど、その辺はテレワークの有無でも同様です。東京だって手放しで褒められるような状況ではないにせよ、都内の企業と県内の企業ではテレワークの実施率にも大きな差があります。テレワーク拡充で都心に住む必要の薄れた人が千葉を含む隣接県に転入するケースが昨年から増えたようですが、テレワークできる千葉都民と県内で働く人の格差は給与水準に止まらないのかも知れません。

 新型コロナウィルスの感染拡大は負の影響も少なからず及ぼしましたが、旧態依然とした日本社会を変えようとしている面では悪いことばかりでもないと感じています。きっと、後世には敗戦と同じぐらいの転機と記憶されるのではないでしょうか。上記のテレワークなんて概念だけはコロナ前から存在していましたけれど、それが一般に普及していた可能性なんてコロナ抜きでは全く考えられませんから。

 ただコロナという転機に働かせ方を変えた企業もあれば、何も変わろうとしない企業もあるわけです。そして変わらない事業者は都市部よりも地方に多い、東京と千葉では明らかな違いがあることが今回の引用からも分かります。東京と地方の格差は今後も一層、拡がっていきそうです。それでも多くの企業では、テレワークを実施する方法よりもテレワークできない理由を考える方に頭を使うのでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10年を経て

2021-03-07 22:49:35 | 社会

 もうすぐ東日本大震災から10年が経過します。他の天災とは一線を画する未曾有の被害がもたらされたわけですが、後代にどう記憶されていくのでしょうか。被害の大半は津波によってもたらされ、犠牲者は宮城と岩手に集中していた一方、報道は専ら福島に焦点が当てられていたとも言えます。

 立地がよく無事に冷温停止できた女川の原子力発電所などは避難者の受け入れ場所にもなり、当初は石巻市の(共産党系の!)市長から「安全対策をした上で再開する方向で考える必要がある」と運転再開を容認する考えを伝えられていました。一方で福島第一原発は津波による電源喪失から収束に結構な時間がかかってしまったわけです。

 東日本大震災によって発生した津波への備えが出来ていなかったのは宮城や岩手の沿岸部の自治体や住民も同じで、だからこそ万を超える犠牲者が生まれたのですが、第三者からの非難もまた原発や電力会社に焦点が当てられることになりました。まぁ、東北の居住者の死亡よりも原発事故の方が、他県に住む人々の心には刺さったのでしょう。

 恥ずかしながら自分は福島での原発事故が起こる前まで、反原発論者の言うことを信じていました。しかし実際に原発事故をリアルタイムに経験する中で気づいたのは、反原発論者がこれまで説いてきたような惨事は現実には起こっていない、ということです。反原発論者の語る脅威は本当なのか――そうした疑念を経て、私は反原発論者を信じるのを止めて実際に起こっていることを見るようになりました。

 原発事故に起因する健康被害は避けられた一方で、風評「加害」は今もなお続いています。不適切な検診結果の切り貼りや放射線の影響について創作を繰り返す論者や報道機関は絶えることがありません。彼らなりのイデオロギーに基づいた行動なのでしょうけれど、それが特定の地域への忌避感を広げるようなものであるならば、ヘイトスピーチとして対処すべきものだと私は思います。

 先のアメリカ大統領選挙において不正があった、トランプ陣営から票が盗まれたと、そう信じる人はアメリカ人の3割程度を占めるそうです。もちろん根拠のある話ではありませんが、何かを信じるのに根拠は必ずしも必要ではないわけです。世の中にはキリストの復活を信じる人も数多くいます。死んだ人間が生き返ることなどあろうはずもありませんが、信じる人にとっては事実関係など大した問題ではないのです。

 事実ではなく信念に基づいて行動を決める人は少なくありません。選挙に不正があった、福島県産は今でも危険だ――そこに信念があるのなら、いかに事実を突きつけようと彼らが考えを改めることはないでしょう。できることは、そうした人々に同調しないことだけです。彼らの影響力を最小化するためにはその主張に一切の理解を示さないこと、毅然として拒絶していくことが求められます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする