非国民通信

ノーモア・コイズミ

続くのがいいとは思わない

2008-07-31 23:04:05 | ニュース

日本人「勤勉続くと思わない」61%…読売調査(読売新聞)

 日本の発展を支えてきた「日本人の勤勉さ」について、これからも続くと思う人は35%にとどまり、そうは思わない人が61%に上ることが、読売新聞社の年間連続調査でわかった。

 1984年の調査では、続くと思う人が59%、思わない人が33%だったが、この四半世紀で楽観論と悲観論の比率がほぼ逆転したことになる。

(中略)

 ただ、今回調査で「一生懸命に働くことは美徳だ」という考え方への賛否を聞いたところ、「そう思う」が71%を占め、「そうは思わない」の25%を大きく上回った。

 この読売の記事によると、「日本人の勤勉さ」がこれからも続くと思うのが楽観論、そうは思わないのが悲観論という位置づけになっているようです。どうでしょうか、私はこの「日本人の勤勉さ」が今後も続くと思いますが、そう考えるのは楽観論からではなく、悲観論からです。「日本人の勤勉さ」が続いて欲しい、きっと続くであろうと考えるならば、それは楽観論と言えるかも知れません。一方で「日本人の勤勉さ」が続くべきではないが、続いてしまうだろうと考えるなら、これは悲観論です。私は後者なのですが、読売記者は前者のパターンしか想定できていないようです。

 そもそも、「勤勉でありたい」という自身の願望の結果として勤勉さが続くのと、「勤勉でなければならない」という社会の要請の結果として勤勉に振る舞わざるを得ない場合、両者では全く性質が違います。ここでも私は後者の立場を採るわけですが、まぁ少数派であり、想定されていないのかも知れませんね。ただ、可能性としては後者の方が有力ではないでしょうか?

 「一生懸命に働くことは美徳だ」という考え方が多数を占めるわけですが、この考え方は「一生懸命に働かない奴は悪徳=モンスターだ」とする排除の思考と表裏一体です。そこで悪徳として排除されないためには(会社のために)一生懸命に働くこと=勤勉さが要求されます。「一生懸命に働くことは美徳だ」と人々が考え続ける限り、「一生懸命に働かねばならない」という社会の圧力は働き続け、その結果として勤勉であることが強いられた結果として維持される、このように「日本人の勤勉さ」が続く可能性もあるでしょう。

 私の変わらぬ主張でもありますが、労働は目的ではなく手段です。働くために生きるのではなく、生きるために働くのです。働くことに一生懸命になるのではなく、自分の人生を楽しむことに一生懸命になること、労働はそこで欠くことの出来ない金銭的な要求に対応するための手段の一つであり、それに一生懸命になることは本末転倒である、こうした価値観への転換が必要です。そのためには、ここで言われているような「日本人の勤勉さ」は滅びてもらいたいのです。

 定年まで同じ企業に勤めることができる「終身雇用制」を望ましいとする人は77%で、過去最高の88年と並んだ。年齢や勤続年数よりも、個人の能力や業績を重視し、賃金などに反映する「成果主義」については、「好ましい」の65%が、「好ましくない」の30%より多かった。

 ちなみに、成果主義の支持がダブルスコアで不支持を上回ったとか。成果主義による受益者と、成果主義による損失を被った人であれば、ダブルスコアで後者が上回ると思いますが、この結果はどうなのでしょう? その支持者は成果主義に何を期待しているのでしょうか? 自分の「成果」が認められること? その割に自分の「成果」が認められたという話は耳にしないような気もしますが。

 「アイツはロクに仕事をしていない、怠けている!」と、そう信じ込むのは傲れる民間人が公務員を前にした場合だけではありません。しばしば、自分の職場の上司、部下、同僚に対して同じ様なことを考えている、考えられているのではないでしょうか? 「アイツはダメな奴だ、アイツが今のような給料をもらっているのはおかしい!」と。だから成果主義を導入すべきだ、成果主義を導入して、成果の出ていないアイツが相応しく評価されるべきだ、そう意図して成果主義を支持してきた人もいるとしたらどうでしょう、この場合であれば、支持者の期待に成果主義は応えてきたのですから筋は通るはずです。

 成果主義によって、大方の人は評価を落とした、かつてよりも給与が抑えられるようになりました。結果として、憎きアイツの評価も下がった、成果主義によってアイツの働きぶりが適正に評価された、罰が下った、この路線をもっと推し進めるべきだと、そう考えている人もいるのではないでしょうか。そこで無視してはならないのは勿論、成果主義を支持した「自分」の評価も大方の場合、下がっていることです。他人に罰を下したつもりが、自分の首を絞められているわけです。これに気付くか気付かないか、そこが分かれ目かも知れません。

 たぶん成果主義の支持者の少なからぬ層は、体罰の支持者、厳罰論者と同じ考え方をしているのでしょう。以前にも触れたことですが、要するに彼らは罰―――体罰、極刑、給与を抑え込む方便としての成果主義―――の執行者を根拠なく信じている、罰が下されれば必ず「悪い奴」に当たると、そう信じているのです。実際のところは言うまでもなく、執行者が罰したいと願った人が罰されるのですが、それでも神の裁きを待ち望む、そんな良くも悪くもナイーブな人が目立ってきていることを成果主義の支持は示しているのではないでしょうか。

 

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逆転の発想

2008-07-30 23:01:36 | ニュース

打倒!"ソフトバンク"iPhone--ドコモ、auの戦略(東洋経済)

 アイフォーンによりNTTドコモ、auの高単価ユーザーを切り崩し自社内に取り込みたいソフトバンク。対して、狙われた両社はどう対抗するのか。

 「ユーザーインターフェースがよくできているし、プロモーションがうまい。じらしながら仕掛けていくやり方など、ホント、よく学んでいかないと」と、KDDIの高橋誠取締役執行役員常務はうなる。

(中略)

「LISMOにも優位性がある」 高橋 誠 KDDI取締役執行役員常務

 LISMOの課金は1曲420円だが、iTunesでは99セント。音楽の価値が4分の1と評価されているわけだ。権利者の価値を大事にしたいという思いが強いところは、LISMOのビジネスモデルを高く評価してくれるはずだ。

 方々で話題になっているという、このKDDIの偉い人の発言ですが、色々な意味で「新しさ」を感じさせます。ま、当の取締役は自分の発言の「新しさ」に気付いていない、たぶん「天然」なのだとは思います。これが意図して発信できるようになれば一流と呼べるのですが。

 発言の肝はもちろん、LISMOが1曲420円、iTunesのサービスが1曲99セントと同ジャンルのサービスでありながら後者の方が遥かに安いにもかかわらず、LISMOを「高く評価してくれるはずだ」と躊躇なく言い切ってしまう力強さにあります。同種のサービスであれば価格の安い方が売れる、これが一般論であり、価格競争力に劣る(音質でも劣るそうで)LISMOが高く評価される可能性は低いと見積もるのが従来型の発想です。しかし、この価格の高さを不利とは見なさず、逆に優位であるかのように語る、見事な発想の転換がここで披露されているのです。

 「LISMOのビジネスモデルを高く評価してくれるはずだ」という一文には主語がありません。「誰が」高く評価してくれるはずなのでしょうか? おそらく、消費者ではないでしょう。そうではなく、生産者、権利者ですね。一口に権利者と言っても管理団体と演奏者の取り分が不明ではありますが、とにかく曲を提供する側から「高く評価してくれるはずだ」と。どうでしょうか? 他の例に置き換えて考えてみるとこんなところかも知れません。農家が丹誠込めて林檎を育てたとします。収穫した林檎を買い叩き、特売99円でバッタ売りする安売り店よりも、無茶な値引きはせずに定価で売っているウチの店を「高く評価してくれるはずだ」と。

 まぁ、市場シェアを武器に仕入れ値の引き下げを要求してくるような流通であっても、販売量が多ければそこに靡いてしまう、それが生産者が受け容れざるを得ない現実でもあります。とは言えそれだけが全てでもないのでしょう。いかに販売量が多くとも、この場合では流通と生産者の力関係は明白な上下関係のまま覆すことが出来ませんから。それよりも、流通と生産者が啀み合わず、生産者が満足できるビジネスモデルを考えていく、それも胸を張って語りうる選択肢の一つのはずです(果たしてKDDIが言うほどに、それを実践できているかはまた別問題ですが)。

 とりわけ「お客様は神様」というスローガンの元、日本では消費者重視を口実にして生産者が圧迫されがちです。「お客様のため」であれば生産者=労働者の権利は制限されても致し方ない、これに反対するものは消費者の敵、ひいては社会の敵であると、そう目されてきました。ですから、たとえ生産者側の取り分は少なくとも、より安価なサービスを顧客に提供しているiTunesの方が善しとされ、相対的に顧客へのサービスが高額であるLISMOは「消費者を軽視している」、生産者側の価値を大事にしたいなどと言い出せば嘲笑を浴びるわけです。

 間違いなく、そこまで意図した上での発言ではないとは思いますが、この消費者重視を口実にした生産者への圧迫が当然視される社会に疑問符を投げかけるとしたら、それは間違いなく画期的です。KDDIのような大企業のトップが言うなら尚更ですね。消費者ばかりではなく、生産者、権利者の重視、そもそも消費者あっての生産者であるのと同様、生産者あっての消費者ですから。消費者が将来的に、その恩恵を享受し続けたいと願うならばサービスの提供者を生かしておかねばならないのです。略奪農法で緑地を砂漠に変えてしまえば、いずれ収穫が得られなくなるように、消費者の目先の利益を追うだけでは済まされませんよね?

 フェアトレード的な発想をKDDIが推進しても面白いのではないでしょうか。子どもを奴隷労働させて収穫したコーヒー豆ではなく、ちゃんとした給料で人を雇って収穫したウチのコーヒー豆を見てください、と。ま、LISMOに比べてiTunesは権利者の取り分が少ないとしても、あくまで相対的なものであって、それで困窮するような権利者はいないと思いますが、発想としてはいずれ必要不可欠になってくるはずです。単に安いものを選ぶのではなく、生産者に適正な利益をもたらしているものを選んでいく(推していく)、そうしないと将来的には自分の首を絞めますから。

 

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「カビ型」と「ムシ型」

2008-07-29 23:02:31 | ニュース

「カビ型違法行為」の恐ろしさ(NBonline)

 米国の違法行為というのは、一言で言えば「ムシ型」、つまり害虫型だ。ハエや蚊のような害虫と同じように、小さくても、その意思で動いている。個人の意思で、個人の利益のために行うのが、ムシ型違法行為だ。米国は自由競争、自己責任の国、あえて違法行為を行うとすれば、何らかの個人的利益のために、個人的動機で行うのが通常であろう。

 そういう違法行為は、通常単発的だ。何十年も続いているということはあまりない。それに対する対処方法も単純だ、個人の意思で、個人の利益のためにやっているのだから、その個人に厳しいペナルティーを科して思い知らせてやるのが効果的だ。害虫に対しては殺虫剤をまくというのと同じことだ。

 それに対して、日本での違法行為には「カビ型」という特徴がある。個人の利益のためにやっているのではなくて、組織の利益のためにやっている。組織の中の一定のポストに就くと、好むと好まざるとにかかわらず、そういう違法行為に手を染めざるを得ない。違法行為は継続的・恒常的に行われる場合が多く、一定の分野全体、業界全体に、ベタッとまとわりつくように生えていることも珍しくない。なぜそうなるかというと、背景に何らかの構造的な要因があるからだ。

(中略)

 それと同様に、カビ型違法行為は、その違法行為の広がりを明らかにして、違法行為全体を取り除き、その原因となった構造的な問題を是正しなければ、解消することはできない。

 日本における企業や官庁の不祥事への対応においては、このカビ型違法行為としての性格を十分に認識する必要がある。これまでの不祥事対応は、カビ型に対してもムシ型の対応をして「その場しのぎ」的な後始末をしてきただけだ。

 引用元はそれなりに長いので、転載するのは断片だけにとどめます。興味がある人はリンク先を見てください。

 さて、ここで引用したコラムで注目に値するのは「ムシ型」「カビ型」という概念の導入です。特定できる個人の意思が原因である「ムシ型」、個人の意思ではなく組織の性質として蔓延する「カビ型」があり、そして日本ではカビ型の違法行為がはびこっているにもかかわらず、ムシ型の対応ばかりが為されていると。言い得て妙です。

 これ以上に付け加えることはあまりないので、自分の意見を書きにくい難記事です。産経新聞などは随所にツッコミどころがちりばめられており、ネタにするには格好の素材なのですが、それとは反対に、紹介すれば事足りてしまう今回のような記事は扱いにくくもあります。

 まぁ、ちょっと肉付けしましょう。カビ型―――要するにそこにいる人が特別な存在でなくとも起こりうる「害」です。そこにいる人の特別な性質によって発生するのではなく、「そこにいること」によってこそ発生する―――例えばそう、観光地で売店のオバチャンが油性ペンを勧めてくる、何かと思えば柱に自分の名前を書き付けていく人が多いらしい、こんな状況で落書きが発生するとしたらどうでしょうか? そこにいた人が特別に「悪い奴」だったために問題が起こるのでしょうか? それとも、そこにいたのが誰であるかに関係なく、起こりえたことでしょうか?

 そうでなくとも企業ぐるみの不正などは大概がそうです。組織の歯車として、会社に忠実に行動すればするほど「カビ」に染まるように出来ているもので、そこには何の悪意も必要としません。それでも尚、我々の社会はカビ型ではなく、ムシ型の対策を繰り返してきたわけです。

 世の中が上手くいかないのは「悪い奴」が権力を握っているからだ、善意の人がしかるべき地位に就けば、世の中は何もかも良くなると、そんなふうに考えていた時期が私にもありました。言うまでもなく善悪の問題ではない、物事はそんな単純に出来ているわけではないのですが、それでも今なお勧善懲悪の世界に生きている人が多いのかも知れません。悪い奴がいて、正義のヒーローがそれを懲らしめる、これの繰り返しで上手くいくと、そう信じている人が。

 勧善懲悪の世界の住人にとって、諸悪の根源は悪意を持った個人です(ムシ型ですね)。そしてこの悪意ある個人=「悪い奴」を正義の味方が懲らしめることで問題が解決されるわけです。根本的にはカビ型であるにもかかわらず、彼らの想定にはムシ型しか存在しない、「悪い奴をやっつける」ことしか考えられないと、ハエ叩きと殺虫剤でカビに立ち向かうような愚が繰り返されるのでしょう。

 問題はもう少し根深いかも知れません。発想の根幹に「ムシ型」しかなく「カビ型」という概念が欠損している場合、何か不都合なことがあった時に求められる原因や解決手段はどうなるでしょうか? それがムシ型でしか有り得ないのであれば、答えは一つです。原因は「悪い奴がいるから」であり、それを解決するには「悪い奴を退治しなければならない」と。ですから何か不祥事があれば「悪い奴がいる」と人々は確信し、誰かが槍玉に上げられ、それを大々的に咎めることを唯一の選択肢とするわけです。それが「カビ型」、構造的な問題であったとしても、ムシ型しか想定していない人は誰か特定の個人を諸悪の根源として非難せずにはいられない、ですから時には「悪い奴」を作り出しさえしてきたのではないでしょうか? そうして、根本的な原因は放置され、作り出された「悪い奴」に集中砲火を浴びせることで問題解決した気分になる、そんな繰り返しです。

 

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労働基準局のお仕事

2008-07-28 23:09:34 | ニュース

朝帰りもタクシー 厚労省 徹夜勤務明け始発後140件(産経新聞)

 厚生労働省労働基準局などの職員が徹夜勤務明けに、電車がある時間帯にもかかわらず、特別会計から支出される深夜帰宅用タクシー券を使って“朝帰り”していることが分かった。厚労省のタクシー券使用規程では「原則、業務が深夜におよび通常の交通手段がない場合に限る」と定めているが、労働基準局書記室は「職員の健康管理に配慮した」と説明。霞が関で働く国家公務員の過酷な労働実態が明らかになるとともに、税金の使い道に対するコスト意識の低さも浮かび上がった。

(中略)

 労働基準局書記室は「徹夜勤務をした職員の健康管理に配慮し、例外的に使用した」と説明。厚労省のある職員も「タクシーで帰宅した後、シャワーを浴び、着替えただけで再び職場に戻ることもある。それくらいは勘弁してほしい」と話す。

 産経新聞らしくツッコミどころに事欠かない記事ですが、この手のネタ、公務員叩きに関してはどの新聞をチョイスしても、概ねツッコミどころに困ることはありませんね。例えばそう、タクシー業界としてはどうなんでしょうか、昨今は翳りが見えるとはいえ「失業の受け皿」として機能してきたタクシー業界です、業界から見るとどうなんでしょう? 私の勤務先にも取引先にも「官庁事業部」とか「官庁課」なんてのがありまして、お役所関係はかなり重要な顧客でもあるわけです。このお役所との取引が一斉に途絶えてしまうと、会社の経営にも甚大な影響が出てきます。そこでタクシー業界はどうでしょうか? 昨今のタクシー利用を巡るヒステリックな騒動に巻き込まれ、乗客を失ったタクシー運転手も少なくないのではないかと。

 足を失う職員も乗客を失う運転手も困るわけで、誰も得をしないタクシー規制ですが、どうなんでしょうか、「傲れる民間人が溜飲を下げる」ことが目的でしょうか。コスト意識を持つならもっと大きなものを考えなきゃいけないところですが、在日米軍の一棟7000万円の豪邸や自衛隊専用のゴルフ場よりも、マッサージ椅子の方が気になるお国柄です。高額商品にはどんぶり勘定、しかし日々の買い物には10円20円の端金に血眼になる、節約できない主婦感覚が老若男女を問わず行き渡っているせいもあるのかもしれません。

 そもそも、「職員の健康管理に配慮した」ことを咎められることがおかしい。労働基準局としては、その当然の勤めを果たしただけです。これが非難の対象になるのであれば、「職員の健康管理を蔑ろに」することが求められるのでしょうか? 労働基準局が模範を示す代わりに、別のお墨付きを与えろと?

 民間であれば、徹夜勤務明けであっても電車で帰るところが、シャワーと着替えだけのために1万円以上かけてタクシー帰りするコスト意識の低さも問題といえる。

 民間、民間、民間であれば、民間なら当たり前、傲れる民間人の定番フレーズです。もちろん民間の方が役所より優れているようであれば、民間の「当たり前」に合わせるべきです。しかし往々にしてこの民間の「当たり前」は想定されている「官」よりも劣ったものです。この場合であれば「職員の健康管理に配慮して」タクシーを使わせてやるのが「官」、労働者の健康よりも経営側のコストを優先するのが「民間なら当たり前」です。果たしてどちらか望ましいでしょうか? しかし国民の求めているのはどちらでしょうか?

 何度か同じ様なことを書いてきましたが、果たしてこの国の住民が本気で労働環境の改善を願っているのか、時に私は信じることが出来なくなります。むしろ反対ではないかと。だってそうでしょう? 「労働者の健康管理に配慮した」職場に我々の社会はいかなる眼差しを注いできたでしょうか? 労働基準がよく守られている、配慮されている、給与面などでよく報われている、そのような職場を我々の社会は「模範」「当然そうあるべきもの」と見なしてきたでしょうか? 労働環境の優れていることは、すなわち全否定の対象であり、「民間では当たり前」という言葉の元、待遇を悪化させることが世論の大勢であったはずです。政財界の特権階級だけではなく、労働者が、庶民が、国民が、それを望んだのです。政財界のお偉いさんは、そんな「国民の声」に耳を傾けてきただけです。

 ちなみに私の勤務先(言うまでもなく民間企業ですよ)でも、徹夜勤務のような長時間の拘束の後はタクシー代くらい申請できます。まぁ徹夜になるようなケースは滅多にありませんがね。こうした企業がどの程度存在するのかは知りませんが、悪いことでしょうか? この辺も「民間なら当たり前」とか「既得権益」とか、真顔で口にしているような連中にしてみれば否定の対象なのかも知れません。そうした「恵まれない労働者」の声を経営トップが聞き入れようものなら、アシ代なんてでなくなる、徹夜明けで体調不良でもタクシーは使うな、かえってもムダだから会社に泊まり込んで仕事を続けろ、そういう社風に変わっていくのでしょう。そしてこうした積み重ねがあって、今に至るのです。

 

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日本人の生活保護世帯も1.7倍増だよ?

2008-07-27 22:45:52 | ニュース

外国人の生活保護世帯急増、登録外でも37自治体が対象に(読売新聞)

 生活保護を受給する外国人世帯が急増している。06年は2万9336世帯で10年前の1・7倍。

 一方、生活保護法は国民が対象で、外国人の保護受給は権利ではないとされ、福祉現場で運用に差も見られる。

 主要73市・特別区への読売新聞の調査(7月)では、DV(配偶者からの暴力)を逃れるためなど、やむを得ない理由で外国人登録地と異なる自治体に生活保護申請した場合、37自治体は「保護できる」、25自治体は「保護できない」と回答した。

(中略)

 大阪市など37自治体は居住実態を優先し登録の有無に関係なく「保護できる」とした。25自治体は「登録地でないと保護できない」と回答。このうち19自治体は、居住実態は問わないとした。6自治体は登録と居住実態の一致を条件とした。一方、保護打ち切り処分などへの不服申し立てを認めているのは大阪府だけ。05~07年には12件を受理、2件の処分を取り消したという。

 厚労省保護課は「登録地と居住地が異なる事例は想定していなかった。現場で判断してもらうしかない。ただ、保護は権利ではなく、不服申し立ては認められない」としている。

 嘘を吐かなくても、情報の一部だけを限定的に披露することで、実態とは異なった印象を与えることが出来ます。例えば給食費の滞納額ですが、「22億円に上る」などと書かれると、さも大問題であるかのように見えるのではないでしょうか。しかるに、給食費の総額は4200億円超、滞納額は0.5%に過ぎません。あるいは生活保護の不正受給、2006年の不正受給は総額89億円です。これだけ見ると、どう思いますか? 実際のところは、生活保護総額2兆5000万円からみれば、不正受給の占める割合は0.35%程度に過ぎません。

 そして今回の記事ですが、「外国人の生活保護世帯急増」「1.7倍」だそうです。これだけ見て、どんな印象を持ちましたか? 私にしてみれば初歩的な子供だまし、使い古された定型通りの印象操作でしかないのですが、それでもこのレベルの記事が再生産され続けているのは、それでも通用してしまうからでしょうか。メディア・リテラシーなどと言っては、自分に都合の良い情報(ヨタ)ばかりを鵜呑みにしている子が増えているせいかもしれませんね。読者に合わせて記事は書かれますから。

 この記事は外国人の生活保護世帯数に限定して報道することで、それがあたかも外国人に特有の問題であるかのような印象を与えます。では、外国人に限定しない、日本全体の生活保護実態はどうでしょうか? 06年の生活保護世帯数は、1,075,820世帯です。10年前は? 96年の生活保護世帯は、613,106世帯です。そこで計算してみましょう、1,075,820÷613,106=?

1,075,820÷613,106=1.7547......

 そうです。日本国籍の有無にかかわらず、生活保護の受給世帯は10年前の1.7倍超に増加しているのです。生活保護世帯の増加は外国人に特有の問題ではなく、日本全体の問題なのです。ですから最低でも「外国人世帯」ではなく、「外国人世帯」と書くのが正しい、それを怠るようでは、意図して誤った印象を与えようとしているとの疑いを免れ得ないでしょう。

 その先もあります。例えば外国人登録者数の推移を見てみましょう。06年の外国人登録は2,084,919人です。そして10年前、96年の外国人登録は1,415,136人です。また、簡単な計算です。2,084,919÷1,415,136=?

2,084,919÷1,415,136=1.4732......

 日本国内に在住する外国人は1.5倍近く増加しています。そんな中で、保護世帯数の増加は1.7倍です。一方で日本人は? 言うまでもなく、日本人の人口は完全に横這いです。増減はほぼありません。増減がないにもかかわらず、生活保護の受給世帯は1.75倍に増加しています。いかがでしょうか? 人口当りの保護世帯は日本人の場合は1.7倍超ですが、外国人の場合は1.2倍弱です。それでも尚「生活保護を受給する外国人世帯急増」?

 不服申し立ては認められないことなど、国籍の有無によってどのような差別的取り扱いが行われているか、その点を伝えたことは評価できます。しかし、保護世帯の増加云々に関しては、明らかに現状とは異なった印象を読者に与えるであろう、欠陥記事です。まぁ、読売新聞ならずともよくあることではありますが。

 

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生産性向上に背を向けられるワケ

2008-07-26 22:40:35 | ニュース

終日営業で労働効率3割低下=小売りが産業全体の生産性抑制-労経白書(時事通信)

 厚生労働省が22日公表した2008年版「労働経済の分析(労働経済白書)」によると、終日営業は、通常時間帯の営業に比べ労働効率が3割も低下することが分かった。スーパーなど小売業が営業時間の延長を進めたことが、日本の産業全体の労働生産性に影響しているという。同省は、労働力が限られる少子化社会に対応するため、「さらなる生産性向上に取り組む必要がある」と指摘している。

 生産性が低下している、という話です。その原因は営業時間の延長にあるとの分析ですが、それはそうでしょうね。営業時間を延ばせば延ばすほど1時間当りの利益は減少するわけで、客足の少ない時間帯まで営業を続けていれば、こうなるのも当然です。社会通念上は「生産性の低さは克服しなければならない」と考えられており、厚労省も「さらなる生産性向上に取り組む必要がある」と指摘するわけですが、しかるに世の中は逆行しています。

 長時間営業が生産性の向上を阻害しているわけですが、ではその長時間労働の現場が生産性向上に反対でもしているのでしょうか。さすがに表立って「生産性をもっと低下させるべきだ」と主張している経営陣は見たことがありません。とは言え、現に生産性の低下に繋がる営業形態が推し進められてもいるのです。この齟齬は何なのでしょうか?

 結局のところ、目指しているもの、理想としているものに食い違いがあるようです。つまり厚労省や御用評論家の類は、理念上の「良いとされていること」を説きます。一方でより現場に近い経営者層は、自社の状況を見て「思いついたこと」を実行させます。その結果として両者の指し示す方向は正反対、方や生産性の向上を語り、方や生産性の低下へと突き進むわけです。

 生産性は高くあるべき、との主張は説明不要でしょう。そりゃ、生産性が低いよりは高い方が好ましい、ごく単純に生産性だけを勘案してみるなら、その向上に反対する必然性はありません。その一方で労働現場では生産性の向上に逆行している、この理由は何でしょうか? 機械的な生産性の向上を追求することが人間性を損ねるから?なーんて、とってつけたような理由がそこにあろうはずもありません。理由はもっと別のところにあります。

 生産性が高い=効率的であるとはどういうことでしょうか? より小さな時間的、金銭的コストでより高い利益を上げることでしょうか。そのために最適な人の使い方を考えるのが「無駄を省く」ことでもあります。しかるに、それが実践できるのは全体を見通す長期的なビジョンがあってこそです。そして経営者にそんな広い視野など期待できるはずもありません。往々にしてもっと近視眼的な、その場その場の「無駄」に目くじらを立てること、この繰り返しが労働現場なのです。

 例えば目の前の社員が余力を残しているとしたらどうでしょうか。彼を今以上に働かせることは可能であり、彼の労働力を限界まで使い尽くすことが「ムダゼロ」に繋がると、そう考える人は経営者ならずとも多いと思います(実際に労働現場で行われていることもそうです)。ところが、全社単位、中長期的なスパンで見れば社員に余力を残しておくことがトータルで見ればプラスであり、効率的な経営に繋がるケースもあるのではないでしょうか? しかるに、そんな可能性は考慮しない、あくまで近視眼的に目の前のムダを叩いていくのが日本的経営です。

 床にこぼれた水をバケツに移すとしましょう。タオルで水を拭き取って、バケツの上で絞ります。ここでタオルを限界まで絞ろうと足掻き続けているとしたらどうでしょうか? そんなことをするよりも、さっと絞ったらまた床を拭いた方が効率的です。しかし、「まだ絞れるのではないか、余力があるのではないか」と、そう考えてしまうのが近視眼的な経営です。まだ絞れそうなタオルに見切りをつけてしまうことをムダと感じ、限界まで絞り尽くそうと粉骨砕身する、それをカイゼンと呼んでいるのが日本式なのです。

 あくまで近視眼的に、労働力を余すところなく使い尽くすことを営業努力と信じてきた結果として、長時間労働の横行、長時間労働のライフスタイルに合わせた小売店の長時間営業があるわけです(決してそれだけが原因ではありませんが)。厚労省や御用学者も、「生産性の向上」というお題目を唱えるばかりではなく、こうした日本の現場感覚を考慮に入れた上で実践的な対策を考えていかねば、本物の効率化はいつまでも夢の中です。

 

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試してみた。

2008-07-26 21:03:43 | 編集雑記・小ネタ

 gooで「ブログ通信簿」なる、色々と微妙なサービスが開始されました。試しにやってみた結果がこちらです。

 ……どうやら私のブログは主張の弱さを克服する必要があるようです。じゃぁ、今夜は何を書きましょうかねぇ……

 

 

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自分は真面目なつもりでも

2008-07-25 23:01:35 | ニュース

「相談取り合わぬ両親、困らせようと」八王子殺傷容疑者(朝日新聞)

 東京都八王子市の駅ビルの書店で2女性が襲われた無差別殺傷事件で、殺人未遂容疑で逮捕された会社員菅野(かんの)昭一容疑者(33)が警視庁の調べに「両親を困らせてやろうと思い、事件を起こした」と供述していることがわかった。「職場の人間関係のトラブルについてアドバイスをもらおうと親に相談したが、聞いてもらえなかった」と話しており、同庁は経緯を調べる。

 捜査1課の調べなどでは、菅野容疑者は5月8日、八王子市内の板金加工会社に入社。しかし、同15日に仕事場でけがをし、仕事を休んでいた。7月中旬に会社を訪れて「早く戻りたい」と話したが、社長は「ちゃんと体を治して9月からの方がいいのでは」と答えたという。

 菅野容疑者は調べに、職場のトラブルの具体的内容は話していないという。父親(69)は取材に「息子は色々仕事を代えていたが、すべて自分で決めていた。仕事について相談されたことはない」と説明している。

 両親に相談したものの取り合ってもらえなかったことが犯行の引き金になったとか。それで無差別殺人に走るのはどうかとも思いますが、困窮者に一線を越えさせる引き金としては十分かも知れませんね。似たような例としては中高年の自殺でも耳にしますし。家族は真剣に取り合わなかったが、夜が明けてみると父親が首を吊っていた、なんて話は聞いたことがあるでしょう? それが自殺者によくある例なのか、都合良くピックアップされた例なのかは知りませんけれど。

 容疑者の父親によると「仕事について相談されたことはない」とのことですが、どうでしょうか、「相談されたことはない」のではなく、「相談されたという認識がない」様な気もします。容疑者は真剣だったけれど、父親の方は真剣に受け止めてこなかった、もっと軽い気持ちで聞き流していたような気もします。まぁ、家族でもこの手のすれ違いは避けられません。

 本人は大真面目だけれど、周りはそうは思っていない、そんなケースがよくあります。自分の認識と他人の評価、これは一致しません。自分は真面目にやっているつもりでも、周りがそれを認めてくれるとは限りませんし、他人を「不真面目だ」と感じたとしても、その当人は精一杯やっているのかも知れないのです。

7割超が「ぶぜん」の意味誤解 文化庁の国語世論調査(共同通信)

 「ぶぜん」は「腹を立てている様子」と、「げきを飛ばす」は「元気のない者に刺激を与えて活気づけること」と意味を取り違えたり、慣用句も「足をすくわれる」を「足元をすくわれる」と間違える人が7割に上ることが24日、文化庁の07年度国語に関する世論調査で分かった。約8割の人が「今の国語は乱れていると思う」と答えた。今年3月、16歳以上の約3400人を対象に調査、約2000人が回答。

 私も全問正解は無理だと思いますが、ともあれ慣用句などの意味を間違えている人が設問により7割に達するとか。そして約8割の人が「今の国語は乱れていると思う」と答えたそうです。正答者が3割しかいないのに、8割の人が「今の国語は乱れていると思う」、最低でも回答者の半数は「今の国語は乱れている」と思いつつ、自分でもまともに回答できなかったことになりますね。

 まぁ、自分が出来なければ他人を批判する資格はないとか、そんなことは言いません。コーチよりも選手の方が競技能力が高いケースはしばしばですが、だからと言って指導力に疑問が呈されるものでもないですから。ですから自分のことを棚に上げて周りを批判するのも結構なのですが、しかしどうでしょうか、この世論調査はツッコミが甘いと思います。「あなた自身の国語は乱れていると思いますか?」と問い、その回答傾向ごとに正答率を出すなどすれば、自意識と実力の乖離が計れて有用な調査になったはずです。せっかく予算を投じて調査を行うのですから、もっと意味のある設問を用意すべきでしょう。

 正直なところ「自分の日本語が乱れている」と回答する人が8割に達するとは考えられませんし、7割の不正解者の少なからぬ部分が「自分は大丈夫」と確信して回答していたのではないでしょうか。しかるに日頃の用法と辞書的な意味は食い違う、自己評価との差は大きいわけです。意外や自分でも正当は出来ない、それでいて「今の国語は乱れている!」憤る人が大半を占めていたとするならば、むしろこの調査結果が示すところは社会的な不寛容の度合いにも見えます。「日本人のモラルが低下している!」と信じるのと根っこは同じ、「溶けゆく日本人」型の思いこみがどの程度浸透しているか、それを示す世論調査でもありそうです。

 

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「嫌煙」というレッテル

2008-07-24 22:54:31 | ニュース

 いわゆるネトウヨ諸兄の抱く被害妄想の逞しさには常々感心させられてきたのですが、その無から有を生み出す創造性や奇想天外な発想をもっと有効活用できないものかと、たまには思ったり思わなかったりします。存在しないものを「ある」と信じ込めるその妄想力の高さは私には真似の出来ない世界ですし。

 ……で、そんな類い希な妄想力を創作行為に結実させている例として、例えば筒井康隆が挙げられますね。ありもしないものをあたかも実在するかのように描き出す創造性、論理的な思考からは決して生まれえない型破りな展開は、妄想力のもたらした成功例として位置づけられるでしょう。そんな筒井康隆の「プロの妄想を見せてやる」とばかりのファンタジー溢れるコラムがこちらです。

筒井康隆の紫福談

 出来れば上のコラム、「嫌煙」を「反日」に、「愛煙」を「愛国」に置き換えて読んで欲しいのです。そうすれば、この典型的な「愛煙家の論理」が驚くほど「ネトウヨの論理」に酷似していることがおわかりいただけると思います。それがルーツであるとは考えにくいところもありますが、そのロジックの類似性を意識することは、両者を読み解く上での鍵になります。

 田中真紀子と小泉純一郎という性格的には似通った2人を時々例に出すのですが、両者をともに嫌いな人は、その手のやり方に賛成できない、両者をともに支持する人は、2人に共通するスタイルに共感すると考えられます。一方で「小泉純一郎は好きだが田中真紀子は嫌い」であれば、与党が好きで野党が嫌い、「田中真紀子は好きだが小泉純一郎は嫌い」ならば、野党が好きで与党が嫌い、論法の是非よりも「度平らの陣営に属しているか」で態度を決めると言えます。

 そして同じことが筒井康隆の喫煙者の論理とネトウヨの「愛国・反日の論理」でも言えそうです。この手のロジックや被害妄想、陰謀論に反吐が出るのなら、両者をともに退けるでしょう。一方で両者共に共感する人もいるかも知れません、それはそれで一貫性があります。しかるにもう一つのパターン、前者には共感するが後者は退ける、あるいはその逆もいるでしょう。つまり「自分と同じ陣営に属している」と感じられれば、内容の審議は二の次で評価してしまうパターンですね。反共でありさえすれば軍事独裁政権でも支援してきたのと同じです。

たばこの煙払い、鼻折られる=嫌った学生殴った男逮捕-埼玉県警(時事通信)

 さいたま市の路上でたばこの煙を嫌がるそぶりを見せた同市の男子大学生(23)の顔を殴り、鼻の骨を折る重傷を負わせたとして、埼玉県警浦和署が同市のアルバイトの男(22)を傷害の現行犯で逮捕していたことが23日、分かった。

 男は「(学生の)そぶりに腹がたった」と供述しているという。

 調べによると、男は22日午後9時50分ごろ、さいたま市南区別所の路上で喫煙していたところ、通りかかった「嫌煙派」の大学生が自分の顔の前で手を振り、煙を払ったのを見て立腹。大学生ともみ合いになり、顔を殴った。

 「嫌煙」などとレッテル貼りに勤しむ時点で「反日」とか真顔で口にしている連中と同レベルの印象しか受けないのですが、まぁこういう事件もあります。たまたま気の短い人だったのかも知れませんが、煙を払われた程度で殴りかかるとは、一体何を見たのでしょう? 反日勢力に脅かされていると信じている人は、外国の些細な動きにも内政干渉や侵略行為を見て取るようですが、この加害者も同じ様な夢を見たのかも知れませんね。

 

 ハァ?(゜Д゜)y─┛~~

 

参考、
No Smoking!

喫煙者がこの先生きのこるには

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ゴスロリ愛好者は骨がある?

2008-07-23 23:05:06 | ニュース

「解雇は不当」行動する若者 アパレル元店員と客(神戸新聞)

 若い女性に人気の「ゴシック・ロリータ」と呼ばれるファッションを販売する神戸・三宮のアパレル洋品店で、アルバイトをしていた女性が「解雇されたのは不当」と、同店の本社を相手に撤回を求める労働審判を神戸地裁に申し立てた。「これまで、労働条件に疑問を持ったことはなかった」という女性を、顧客だった女性らも支援。奇抜なファッションでビラ配りに立つなど、社会問題化している不安定な雇用や労働条件に、若者がアクションを起こしている。

(中略)

 問題を知った顧客ら約三十人は、ビラ配りするなど支援に乗り出した。「自分の好きな洋服を売っている会社が、そんなひどいことをしているとは」との思いからだ。岩上さんは「一見、華やかなアパレル業界の現状を訴えたい」と話す。

 これは珍しいですね。珍しいと言っても、賃金不払いや不当解雇のことではありませんよ。その辺の不法行為はこの国では野放し、当たり前ですから。それが表面化するのは、やや珍しいかも知れませんけれど。あるいは賃金不払いや不当解雇に遭った労働者が雇用主を訴えるケースも、その被害件数に比べれば格段に少ないとはいえ珍しいわけではありません。では何が? この問題を知った顧客が原告である元店員を支援しているところですね、これは珍しい、こんなケースを今の日本で探すことは非常に困難です。

 例えばそう、今やすっかり見かけなくなった交通機関のストライキですが、労働者が雇用主の不当な仕打ちを訴え、労働条件の改善を要求していたとしましょう。このようなケースで当該の交通機関の利用者が「自分の通勤(通学)の足になっている会社が、そんな酷いことをしているとは」と、労働者の支援に乗り出す可能性を今の日本社会で想像することができるでしょうか? 実態は全くの逆です。顧客と雇用主が手を携えて、不正を糾弾する労働者を邪魔者と見なしてきたはずです。

 彼らが採用したのは、もっと巧妙な組織的宣伝だった。スト参加者への反感を世間に広め、スト参加者は世間にとって有害な、公益に反する破壊分子だと思わせるのが狙いだった。
 
公益とは、ビジネスマンも労働者も主婦も全ての人間を含む「私達」全員の利益である。私達は団結して調和を図り、アメリカニズムの名のもと、一緒になって働きたい。それなのにスト参加者のような破壊分子が問題を引き起こし、調和を乱し、アメリカニズムを侵害している。
 全員が共生できるように、私達は彼らの活動を止める必要がある。企業の幹部も清掃人も、皆同じ利益を共有している。私達は調和を保ち、ともに愛し合いながら、ともにアメリカニズムのために働けるはずだ。
それが基本的なメッセージだった。
(『メディア・コントロール』ノーム・チョムスキー)

 「破壊分子」を「モンスター」に、「アメリカニズム」を「公」に置き換えれば、そのまま日本の現状を指し示すでしょう。むしろ日本こそが最大の成功例であるとすら言えます。経営側にとって望ましい結果を、(スト参加者以外の)労働者に支持させることの。かくも労働運動に、当の労働者が無理解である、その点で日本は比肩する相手を持ちません。

 労働者の視点が欠落しがちな日本では、表向きとして「顧客重視」が掲げられます。そして顧客の利益と労働者の利益はトレードオフの関係と信じ込まれ、「お客様のため」という名目で労働者に犠牲を強いるのが常態化しています。そこで労働者の権利を唱える人は「顧客の利益を損ねる輩」と位置づけられ、「顧客のためを思う経営者」及び「顧客」に対立する存在として描かれます。

参考、
ワタミの社長は何を偽っているのか

 一般に労働者が権利を求めて行動を起こしたとき、その顧客/利用者は労働者の行動のために、提供されるサービスが損なわれたと考え、結果として経営側と手を結んできました。最も顕著な例である鉄道のストを思い浮かべてください、利用者は労働者側の主張に共感などせず、労働運動を社会の調和を乱す要因と疎んじ、経営者と一緒になって労働運動を否定してきたはずです。そして他の場面でも、同じことが繰り返されてきました。顧客に奉仕する代わりに、自身の権利を訴える労働者は顧客の敵であると、そう目されてきたわけです。

 それがどういう訳か、冒頭に引用したアパレル用品店のケースでは顧客が労働者を支援しているとか。極めて例外的な事例です。これは希望の光ですが、いったいどんな要因が作用してこうなったのでしょうか。単に原告と顧客の仲が良かったのか、それとも店長が嫌な奴として評判でも悪かったのか、あるいはゴスロリファッションの愛好家には労働者の権利をよく理解した骨のある人間が揃っているのか、その辺は分かりません。ただ、こういう動きが拡がっていけばいいな、と。

 

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