デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



別の墓が近づいてきた



解放奴隷ラビリイ一族の墓

名前の分かっている墓で、比較的完璧な形で残っているラビリイ一族の墓(墓碑は2000年までに修復されたようである)まできた。
アッピア旧街道に解放奴隷の身分であった人物とその一族の墓が残っているというのは、実にすばらしいと思った。映画の「スパルタカス」や「グラディエーター」などの影響からか、また奴隷という言葉のイメージが悪いせいか、ローマ市民は奴隷を打擲して言うことを聞かせていたような印象を持つ人も少なくないだろうが、頭からそう決めてしまっては話にならない。
私個人は、「人の価値」を計るという点で現代のヘッドハンティングと古代ローマの奴隷の起用の違いを説明しようとすれば、おのずと古代ローマと奴隷制については実は思いのほか誤解されていることが分かるかもしれないと思う。少なくともローマでは奴隷階級に生まれたら一生奴隷階級のままではなく、奴隷階級の出身であろうが才気を発揮して仕えたら、ローマ市民権を与えられたのである。解放奴隷の身分でローマ市民権を取得し、国政にたずさわる者もいた。詳しく知りたい方は塩野七生著『悪名高き皇帝たち(ローマ人の物語Ⅶ)』(新潮社)を読まれるがよい。



この辺りまで来ると、さすがに疲れてきた。チルコ・マッシモからカラカラ浴場、サン・セバスティアーノ門、ドミネ・クオ・ヴァディス教会、途中バスで移動したとはいえ、6kmは歩いたことになる。太陽も傾いてきたことだし、目的のカザル・ロトンドまでは厳しいかもしれないと思い始めた。








「装飾花づなの墓」




疲労がたまってきてたので体力的にもきつかった。水を口に含みつつ、どんなにか石碑に書いてあることを理解したいと思ったことか。街道沿いに建てられたローマ人の墓についての記述にも思いを馳せながら、じっくりと崩れた石碑を見つめた。
ローマ人は死者だけを一個所の集めずに、墓所は街道沿いに建てるのを好んだ。それは死んだ後も街道を行きかう人々の近くにいたいからであったという。街道脇に並び立つ墓碑は、街道を行く旅人の格好の憩いの時を提供する場でもあった。墓碑には、当時の人々の死生観が反映されていて、その健全さを示す碑文がとてもユーモラスである。

「おお、そこを通り過ぎていくあなた、ここに来て一休みしていかないか。頭を横に振っている。なに、休みたくない? と言ったって、いずれはあなたもここに入る身ですよ」

「幸運の女神は、すべての人にすべてを約束する。と言って、約束が守られたためしはない。だから、一日一日を生きることだ、一時間一時間を生きることだ、何ごとも永遠ではない生者の世界では」

「これを読む人に告ぐ。健康で人を愛して生きよ、あなたがここに入るまでのすべての日々を」

 塩野七生著『パクス・ロマーナ(ローマ人の物語Ⅵ)』(新潮社)p257





「装飾花づなの墓」を振り返る



エローデ・アッティコ通り

アッピア旧街道をちょん切ったような普通のアスファルトの通りまできた。この通りからバス765番と地下鉄A線を乗り継いでローマの中心部まで帰ることができる。

つづく

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