デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ラファエロの墓。
墓に飾られている「石の聖母」は1520年にラファエロが
自分の墓のためにロレンツェットに委嘱したものである。

"パンテオン"とは「神々すべてを祭る神殿」、しかしローマ多神教の、というイメージが強かった私には、教皇のもとでバリバリ活躍した人間が埋葬されていることを知ったときに、正直違和感を覚えたものだ。



今となっては、キリスト教の神も神々のなかの一員であることだし、ラファエロも古代の彫刻をデッサンし研究したことで、多くの傑作を残し、彼が活躍したルネサンス自体、古代のギリシア・ローマの古典人文学的思想を取り入れた側面があるわけだから、パンテオンに彼の墓があっても私はなんら異議を挟む気持ちはなくなった。それに、誰でも訪れることのできるところにあるわけだから、それはそれでかえってよかったように思う。


パンテオンの床

現在のパンテオンはハドリアヌス帝が再建したものだ。前回触れたように、神殿正面の碑文にはアグリッパが建てたと刻まれているが、これはハドリアヌス帝が初代の建造者を尊重して刻ませたものである。
アグリッパの建てた角形の入口が南に開かれていたパンテオンは紀元80年にマルスの野を襲った大火災に見舞われて焼失した。その後ドミティアヌス帝の時代にもアグリッパの設計と同じ構造で再建されたが、落雷のために再度焼失(110年)。
ハドリアヌス帝は入口を北側に変え円形に設計したパンテオンを7年かけて再建。完成したのは125年である。だが、なんと床だけはアグリッパが前27年に建設した当時のままであるそうだ。












ハドリアヌス帝は、パンテオンを裁判所としても活用したという。
それにしても、193年にセプティミウス・セウェルス帝によって大がかりな修復工事が行われたとはいえ、古代ローマ時代の建築技術の粋を結集して建てられた大胆で独創性豊かな傑作は今も立派に建ち続け、訪れる人々を魅了する。建築構造的な工夫については解説を読めば、なんとなく理解できるのだが、これがキリストが生きていた頃から100年ぐらいしか経たない時代に建てられていたことに驚きを隠せなかった。


中からロトンダ広場を見る



柱も太い。どうやって建てたんですか?と思ってしまう。



パンテオン前に建つオベリスク

パンテオン正面のオベリスクは、もともと古代のイシスとセラピス神殿(現サント・ステファノ・カッコ教会)の入口に2本あったうちの1本であるとのことだ。


ロトンダ広場全体図、パンテオン


パンテオンを外から見てみた。















上の5枚に、アグリッパ時代の建設当時の遺構の一部が写っているのが分かる。床だけでなく、もともとのパンテオンを形作っていた遺構が残っているのだ。どうして残っているんだろう?と思ったが、後世の人間がアグリッパの功績をとどめておきたかったのだとすれば、それはそれで感動してしまう。

パンテオンはキリスト教の教会に転用されたことで、今に残り続けた。具体的には7世紀初めローマを支配した東ローマ帝国フォカス帝が、時の教皇ボニファキウス4世に寄進し、教皇はパンテオンをサンタ・マリア・アド・マルティレス(聖母と殉教者を祀る)という名の教会に変えたことによって残り続けたのである。現在は教会ではなくローマ時代の建物に戻っているわけだが、古代の神々やその神々を信仰した人々や古代ローマの技術水準に思いを馳せるよすがとしての役割をパンテオンは新たに担ったのかもしれない。また、シンマクスの思いはパンテオンを通して、彼が与えてくれる教訓を現代の人々になげかけるかもしれないと、私なりに浅い考えを抱いたのだった。

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