デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



カラカラ浴場から近いヌマ・ポンピーリオ広場

古代ローマを1000年に渡り支え続けていたものはなにか、といった大きな問いの答えの一つに、インフラの充実と整備を欠かさないことが国のあるべき姿を維持するという考え方を持っていた、という答えは、間違っていないだろう。
インフラの代表格といえば道路と水道だが、これらは国が国として成り立つ為に必要な動脈といえる。古代ローマはその動脈を、道路を例に挙げれば、人工の舗装された街道を敷設する技術、不断のメンテナンスを行いそれを維持するシステムを持っていた。また街道は一本だけではなく、ローマから帝国中にネットワーク化して張り巡らせていた。
その最初のローマ式街道がアッピア街道である。着工が前312年、カエサルが生れる200年以上も前に街道の敷設が始まったのだ。アッピア街道はローマ人から「街道の女王(regina viarum、レジーナ・ヴィアルム)」と呼ばれていたそうである。アッピア街道のアッピアとは、立案者の財務官アッピウス・クラウディウス・カエクスにちなんでいる。
アッピア街道(旧街道)は現在でもローマで見ることができ、自分の足で歩くこともできる。だが町の中心から少し離れている。


アッピア街道への自転車ツアー御一行

ヌマ・ポンピーリオ広場から、サン・セバスティアーノ門通りを南南東に行けばアッピア街道に行ける。


左がラティーナ門通り、右がサン・セバスティアーノ門通り

ラティーナ門通りを行けば、ラティーナ門やシピオーニ公園(スキピオ家の墓)の入口へ行ける。シピオーニ公園からサン・セバスティアーノ門通りへ抜けることも可能。


ドゥルーソ門



ドゥルーソ門の裏側から

サン・セバスティアーノ門通りを行けばドゥルーソ門が目に入る。ドゥルーソ門には草が生えていて、また鳥の巣ができていた。いかにも遺跡という感じで目を引いた。
ドゥルーソ「門」と呼ばれているが、カラカラ浴場へ水を通していた水道の橋脚だったようである。
ドゥルーソ門のすぐ後ろがサン・セバスティアーノ門だ。


サン・セバスティアーノ門



いよいよここからがアッピア街道

日曜日は交通規制してるので、観光客は歩きやすい。交通規制のための黄色いテープが張られているようだ。


パトカーも出てくれている



サン・セバスティアーノ門を後にする

サン・セバスティアーノ門はアウレリアヌス城壁にある18の門の一つだが、その中で最大かつ完璧な形で残っている門である。


アウレリアヌス城壁

アウレリアヌス城壁は紀元後3世紀になって築かれたものだ。セルヴィウス城壁を破壊して都市を拡張させたカエサルの時代とは異なり、紀元後3世紀はローマは防衛の必要性が不可欠になっていたのだった。
城壁や門が現在もしっかりした形を留めているのは、ローマの建築技術に加えて帝国滅亡後のローマ教皇たちが修復や補強をしたからである。


アッピア旧街道に入る



アッピア旧街道起点のマイルストーン(レプリカ)

前120年頃、グラックス兄弟の弟ガイウス・グラックスが立案した「センプローニウス法」が成立し、この法によって、すべてのローマ街道には1ローマ・マイルごとに石柱が立つようになった。↑はアッピア街道の第1マイルストーン(本物はカピトリーニ美術館蔵)で、これを見学に訪れる人はやっぱりちらほらいて、私と同じようにガイドブックを見ながら手を触れ、写真に収めているのだった。東京の日本橋が昔日の姿を留めていないように、アッピア旧街道の起点も車がビュンビュン(とはいえ日曜の一方通行ではあったが)通り、道も昔日の姿を留めていなかった。
しかし、レプリカではあれ、アッピア旧街道の起点のマイルストーンが立てられていたことには感動を覚えた。ここから、アッピア街道がローマからイタリア半島の踵(かかと)にあるブリンディシの港にまで通じているのだ。
街道が段階を経てブリンディシまで開通したのが第一次ポエニ戦争が始まりであるから、スキピオもまだ歴史上に名前が登場していない頃である。なおのこと驚愕に値する。昔日の街道を目にする為、街道を南南東へと足を運んだ。

つづく

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