デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



本をまま頻繁に持ち歩いているものの、読了までに1年以上を要した作品が、とうとう?現れた。H・フィールディングの『トム・ジョウンズ』(朱牟田夏雄訳、岩波文庫全4巻)である(以下、『トム』と記す)。作品を読もうとしたときと、その後とでは積極性に波があったとはいえ、これほどまでに作品の内容に対して関心度が下がっていった文芸作品は初めてだ。
この作品の存在を知ったのは、『レ・ミゼラブル』を読んでた頃にたまたまネット上の掲示板で、「モームの世界十大小説には入ってないけど『レ・ミゼラブル』は傑作ですぜ」みたいなコメントがあったからだと記憶している。
クイズ番組でなら10人の回答者が順に世界十大小説にとりあげられている作品名を一つずつ挙げていって、10個目まできちんと答えられたら絵になるだろうし、また何らかの機会(そんな機会をつくろうにも無理があるが)で10作品をそらで言えることができたら、「賢い」だ「すごい」だと言われて悦に入る時間を得れるかもしれないが、実際作品を読む、読んだ経験があるとなると、なかなか難しいだろうと正直思う。「…『レ・ミゼラブル』は傑作ですぜ」と書きこんだ人は、その後『トム』を読んだのだろうか。
私が思うに、モームが『世界の十大小説』で採り上げているからといって、『トム』を読んだ・読もうとしたという人はさほど多くない気がする。なので、自分のことを褒めてやりたい、どうだすごいだろ?と言いたいのではない。言いたいのは『世界の十大小説』にあるのだからって、それらが世界屈指の文芸作品であるというわけではなく、読んでもおもしろく感じられるかは読者次第だということである。モームに気を遣って「おもしろかった」と心にもない感想を吐することはないということだ。

『トム』について私の思ったことは多々というほどありはしないが、それでも印象に残る作品であることは確かだ、良くも悪くも。(以下、ネタ割れ注意)
たぶん、作品が評価されているのは、小説というジャンルを歴代的に見ていった場合、『ドン・キホーテ』のあとに現れた作品のなかでは、とりわけ主人公の個性がきわだっているからだと言うことが可能なのだろう。『トム』の主人公トムは美男子で純粋で慈悲深く情熱家、だが情欲家でならず者で何事においても少し思慮が足らず、結果誤解を招いては不幸に突き落とされるのだが、こういった普通の人間で不幸を絵に書いたようなならず者を主人公にしている、つまり完全無欠でない主人公としてはドン・キホーテ以来であった、というところだ。トムに作者フィールディングの気持ちが乗り移っている場面がないとは言い切れないが、トムとフィールディングが生きていた頃に出ていた他の作家による小説の主人公たちとは、一線を画しているようである。その点、当時としては人間味があり斬新(一部の批評家からすれば低俗)だったようだ。
しかし、古今東西の作品が出揃っている時代に生きている読者からすると、「小説の歴史的にはそうなのね」としかいえない。作品の中身や手法となると、作者がいちいちしゃしゃり出てきて所見や警句を吐きたがるし、巻の第一節はエッセイにまるまる費やしていて、エッセイの中には同情なしに読めないものもあるものの、はっきり言って物語の筋からすれば邪魔だったりした。とどのつまり作品内容の語られ方が自分に合わんかっただけなのだが、もしこれから読もうとする人がいれば、同じ言語で語られているはずなのに、てんで意味が分からないマニアックな講演会に間違って紛れ込んだり、高尚な言葉で語られはするもののいつしか眠たくなってしまう祝辞を延々と聞かされるような試練が訪れるようなことを覚悟したほうがよい。

あと、読み進めるにつれ、『トム』は『ドン・キホーテ』の影響をどうしても受けてしまってるのだなぁと思った。ドン・キホーテは遍歴の旅に出るが、トムも不幸な生い立ちが付け加わっているだけで、旅の描き方はどこかしら似ているし、読者を退屈させないためかそろそろ緩慢だな、と思う頃に、誰々が宿に飛び込んできて騒ぎが持ち上がるとか言い合いがはじまるとか、店でケンカがおっぱじまったとか、それに主人公が巻き込まれるだとか、物語に関係のない小品となるような挿話がもられたりとか、そのパターンが繰り返し起きる点に辟易としてきたのは否めない。
また、とある夫人が策謀をめぐらせ、劇的な場面をもたらしてくれるはずのイベントをこしらえた割には、その効果は尻すぼみで、尻すぼみになった「原因」を後付で説明されても、読んでて気づかないぐらい説明が簡潔すぎる点が気になった。またその策謀を陰謀に利用するところもひどい話、「これはいつ権謀術数を計画したの?」ということがわからなくなってしまい、自分で『トム』のなかで起こる事件の状況設定を勝手につくりあげてしまいそうになったりした。それに私が見逃したのかまだ確証はないのだが、第16巻で触れられているフィッツパトリック氏にウェスタン令妹が送った手紙って、いつこしらえられたのか分からなかったし、それを送ろうと決めた記述は第16巻以前のどこに出てきたのだろう? 送ろうとする動機を二人とソファイアの従姉との過去から推察することは、わずかではあるが可能かもしれぬと思いはするものの、もし手紙が無いとしたらストーリー的に破綻し致命的とはいわぬまでも、話のつじつまが合わないお粗末さを露呈していることになるのでは???
まぁ私も集中力を切らしていたので、また分かり次第、またはそれを教えてくれる人が現れたら、後日の記事で触れるかもしれない。(この箇所については後記あり)
最後に、作品で最も印象に残った点がある。これは人間同士のコミュニケーション能力の乏しさによる悲劇がこの『トム』の根底にあることだ。他人を介することなく、主人公(もしくはヒロイン)が自分で相手に(相手を)確かめに行けと言いたくなる様な、読者がムズムズするような場面が多い。昔も今も同じことで人間は苦悩しているんだなぁと改めて思った。

それにしても、なんという冗長な文になってしまったことか(笑)。

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