偉大なる未完成と評される文芸作品や音楽作品は多々あれど、『悪霊』もその一つだろうというのが読後すぐの感想。
それにしても、ドストエフスキー作品は毎度感想をまとめるのに困る。なので、今回も思ったことをただあげつらう。ネタ割れ注意です。
『悪霊』の読了は二度目である。作品を読んで否応なく残ってしまうのが、執拗なまでの我意を超越せんとする登場人物の思想(考え方)である。前回でも少し触れたが、環境や病気の所為にしない精神状態にあって、獣的な行為と人類を救うために命を惜しまない偉業との間には美の差異はなく、快としても同じだと言えるという責任能力へのこだわりは、作家のどういった動機から端を発しているのか?と考えてしまう。
作家にはてんかんの持病があった。また若かりし頃にはとんでもなく放蕩・浪費癖があったし、賭博熱となるとそれを止めるある時期まで、四六時中その熱が治まることがなかった。
恋愛嗜好となるとかなりのドMで、性欲となるとおそらく青年期以降は生涯を通して衰えることがなかったのではないかというくらい、旺盛であった。(異常性欲と言ってもいいかもしれない)。愛情や美を感じる対象としては、かなりの少女趣味・美男子への好みが強かった。
また作家の精神状態について付け足すと、感激癖と鬱とのギャップが極端だった。他人にはたとえ親密な間柄であっても手放しで友への愛情を過度に示す日と、冷酷なまでに友に気づかず無関心にふるまう日があることに、なんら違和感を覚えていなかった。
作家の性格や人柄については他にもたくさん指摘できる点はあるのだろうが、忘れてはならないのは、作家は若い頃フーリエの空想的社会主義を奉ずるサークルに出入りし、そこで官憲から逮捕され、あげく死刑を宣告されたものの、その執行直前に皇帝からの恩赦が下るというむごい体験をしていることである。生涯の持病てんかんはその擬似死刑を折りに悪化したとされる。他にも、最初の妻が『白痴』を書く4年前に亡くなり、同じ年に兄も他界していること、『白痴』を書いた年には長女のソフィヤを生後三ヶ月で亡くしていること、などが『悪霊』を書く前に起こっていたりする。(作家の性格や嗜好、持病、そしてかつて関わった政治結社のことを足早に書いたが、興味を覚えた方は、詳しい伝記や研究書がたくさんあるので個々人で調べてほしい。)
『悪霊』を再読して思ったのは、上に触れたような自分自身に対して、作家が登場人物たちに我意の超越性を付与することで、おのれの精神を正気に保つ努力を作家がしていたのかもしれないということ。もっといえば彼にとって作家という職業は、闘病生活を送る上での、一つの大きな武器であり城だったのではないだろうか。
また『白痴』を描こうとした頃から、上に書いたような自分の性格や嗜好を見つめなおすだけでなく、無神論に対するより深い考察や、過去に抱いていた政治的な思想をより丁寧に清算・再検討しようと思い始めたのではないかなぁ。
もちろん、闘病生活の薬とするためだけに作家を続けていたわけではあるまい。しかし、亀山郁夫氏の本に、ドストエフスキーの作品の創作過程ではアンナ夫人による口述筆記が作品にかなり大きな影響を及ぼしているのでは、といったような指摘があるが、口述する側に重要になってくるのが自身の超越性の保持ではないかと思うのである。つまりは、超越性を保持しながら口述筆記をしてもらっているということは、アンナ夫人に寡黙なカウンセラーをやってもらっていることになりはしないか。その上でもともとの「至高の存在」への関心とあいまって、己の過去のことを題材にした作品を書こうとすると、我意を超越しなければならず、そうでないと書けなかった作品が『悪霊』だったのかもしれない。逆にいえば、そうでもしないと日常生活・闘病生活だけでなく作家を生業として創作することができなかった、そうでないとやっていけなかったのでは?と思うのである。
『悪霊』の構想の元ネタになった事件や、その事件を起こした学生のモデルであるピョートル一味の特徴の現代性、彼ら「革新」とそれに対する「保守」が抱える根本的矛盾についてもいろいろ考えたことがあるが、まとまりきらないのでまた別の機会に。