Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

革命的包容政策の危機

2006-10-11 | 文化一般
承前)攻撃は最大の守りと、朝鮮民主主義人民共和国からミサイルが飛んでくる前に先制攻撃をすると言う勇ましい革命家的な意見がある。その一方中華人民共和国は、この独裁国家を包容して、恰もヤクザの「家の元気な若い奴」のように政治的に利用する積りが、いつのまにか部分核の危機に曝されている。しかし、朝鮮半島の非核化を掲げる北京中央政府にとっては、自国の辺境で小規模の核爆弾なら暴発しても構わないぐらいにしか考えていないであろう。

北京政府は、イスラム社会と西洋社会と現在の世界文化の三極体制の一角を担っている。マルク・ジーモンスが北京から伝える共産党の文化政策に関する記事は面白かった。周知のように社会主義体制の文化政策は重要であり、一党独裁社会ではプロパガンタに使われ、正しい世界観や人生観を人民に示す。文化大革命については触れないが、そこから今消費社会へと変貌している中国にとっては、文化政策の理論付けは重要である。

そして新五カ年計画では、文化産業の市場秩序とマーケティングが大きな柱になっていると言う。つまり、文化と言うのは全て文化産業の市場原理に基づいていく事を明言している。筆者に言わせると、北京政府は東西の壁崩壊以後の世界の文化動向をよく研究した結果だろうとする。

こうして目指すものが、以前は検閲と戦っていたような監督ツァン・イモウ、チェン・カイゲ、ツァン・ユーアンなどに中国映画制作を奨励して、外国からの文化輸入超過を削減していくと同時に市場原理を利用してエンターティメント化で文化芸術の毒抜きを図ることにあるらしい。

もちろん昨今問題となった中国版TV「スター誕生・スーパーガールス」のような視聴過熱を避ける手立ても企てられる。つまり共産党は、社会秩序を護るために安定したコントロールをしていけば良い。こうした現象は米国型のマスメディアの市場形態である。西洋では表現の自由を一義として公序良俗と安寧秩序を護るが、市場は供給されるものに対して十分に ひ ね て いて醒めた受け止め方をする反応能力が存在する。

それは大衆の反応に限らず、表現者や知識階級においても変わらず、中国人はアドルノやホルクハイマーの思考へとは至らない。文化産業と言うのは、彼らフランクフルト学派にとって、いつも渇望されるようなものではなく、とりわけドイツ語圏では驕慢な後期資本主義の結晶として、決して美しい言葉とはならないのである。

伝統文化や共産主義文化の政治的ポップ化やレプリカ化については改めて考えるべきであるが、ここでは最初に述べたハリウッド映画やTVスポットなどの日常文化の衰退を対極に一瞥しておくとよいだろう。工業技術の進展に伴った文化である、DVD化コピーなどの文化消費財の経済価値の破壊やネットによるTV文化駆逐などは、現在年十パーセントの経済成長の見られる市場で中国共産党が想い描く、文化教育産業の発展の到着点を示している。

中国共産党の自由市場原理至上主義は、レーニン主義の下で段階的に進んでいるようにも見えるが、実際は先の到着点が既に見えている。そのように考えると、中国文化は形式上米国化して、その産業規模がある程度に達した時点で、そのときは米国文化の大きな転機は既に終えているように思われる。

何れにせよ文化産業の名の下に、米国のトロッキストを起源とするネオコンサヴァティヴと中国のマオイストのネオリベラリズムが、発展段階は異なっても最終的に同一の収束をするであろうことがこれで予想出来る。

一方欧州においては、文化の社会的価値という大義名分から、文化産業も他の産業同様の経済分野の一つとして計算されていて、嘗ては分野の混同や文化の自立の喪失に対抗するものとして論拠にあったものが、今や技術用語化して ― サブカルチャー化として良いか ― 取り入れられている。そして、こうした現象を不当なこととして扱う心情も失せて来ているかに見えると、この記事の筆者は表する。これが、欧州文化の現状であるとしても異議は無い。
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