Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

終わり無き近代主義

2005-09-03 | マスメディア批評
日本の償いは、中国とは小平氏によって、韓国とは金大中氏によって将来が確認され、裕仁、明仁両天皇の発言と訪問、細川、村山両首相の謝罪によって全ては解決した筈だ。それでは、何故未だに尾を引くのか?毎回反古にされるならば、被害者が受け容れようとしない限り終わりは無いと、コーレンハンマー氏は言う。

中国に関しては、1937年当時のベルリン在のシナ人学生が語ったような「日帝の侵攻によって眠れる獅子が起されて、それが転機点となる。」と言う史観を、現在の中共の歴史家は取っている。だから、それから内戦へと繋がり、文革を経て、初めてエネルギーが外向きに向ったとすると、1980年代からの反日キャンペーンが成る程と理解出来てくると言うのはジーモンス氏だ。

そして、今これらの盛り上がりに挑発を故意に与えている行動が挙げられる。それには、ベルリン知事では決して考えられない東京都知事の発言「人を批判するよりも己の事を処せ」や靖国神社HP への国学館大学総長の「賛大東亜共栄圏」の書き込みのみならず、去る8月15日の靖国神社への参拝や官僚にまで及ぶ同様の発言が含まれる。

それでは、これらはどのような意味を持っているのであろう。シベリアで極秘に裁かれた3000人や各地で処刑された984名の戦犯の数々に反して、進駐軍によって国内で逮捕された二万人の優秀な人材の多くは、放免されて其々の領域で戦後活躍した事は周知の事実だ。これもTVプログラムでも屡取上げられるようにドイツでも同様である(本日見たシュピーゲル誌には行方不明になっていた収容所所長の親衛隊の消息が分かりそうだとある)。ここで岸元首相を筆頭に企業家、警察・軍人、役人と並んでジャーナリストを挙げるのを忘れてはならない。独日の戦後処理の比較を、後者が「未曾有の破滅に経験不足だった事に依る」のではないかと言うのがイアン・ブルーマ氏である。

それに過去60年の歴史を見れば解かるように、日本ほど平和主義で民主的に繁栄した例は無いのではないかと診断する。勿論、朝鮮戦争後もベトナムへと軍事紛争を起した一党独裁国とは比較出来ない。

それでは、何故このような中国・朝鮮の反日キャンペーンに喜んで切っ掛けを与える勢力が存在するのだろう。修正主義の教科書の本当の目的は、ポストモダーンを標榜する滑稽な民族主義なのだろうか。嘗ては大日本翼賛会を、戦後は60年体制を支えて、今や民営化と二大政党制をオピニオンリードするジャーナリズムは、未だに喜んで二項対立の論陣を張っているのか。さもなくば「前近代的精神」に訴えかけようとしているではないのだろうか。

ディベートの言葉に代表されるような思潮は、一体どこへとベクトルが向けられているのだろう。アカデミズムのドグマは、一見市場の論理が働かないかに見えて、実は米国トロッキズムのニューコンサヴァティーブと母体を同じくする理想主義の遠く離れた象牙の塔に篭るか、もしくはマルキストの合理や進歩を、実は旧保守派と同じく単に経済的成長にしか求めていないのではなかろうか。しかしその其々のドグマ自らが、― 前者の「中東やアジアに民主主義が根付く」と少なくとも表向きは信じるマキャブリストとも違い、後者のそれを「端から不可能」と思いながらも唯物的な功利主義を建前とする利己的な楽天主義者とも違い ―、それぞれに微妙な差異に気付く時になって初めて近代を乗り越える事が出来るのかもしれない。

そして、FAZがこのような相対的史観を取上げるのは、クリスマスまで引き伸ばされそうな国連改革のそれも常任理事改革G4案へのジャーナリズムの知的取り組みでもある。当然の事ながら、安直なビジネス外交を極東において無思慮に繰り広げたシュレーダー政権への批判でもあり、次期の政権(「保守党でも余り代わり映えしない」と左翼ラフォンテーヌ氏がシュピーゲル誌で右翼シュトイバー・バイエルン首相に語っている)への戒めにもなっている。その場限りの中国市場の専有率確保や奪い合いでは無く、明快な対中外交を示す事は、最終的にドイツ連邦共和国の 益 になる事は間違いないであろう。

ポストモダンの貸借対照表 [歴史・時事] / 2005-09-02 より続く



参照:
„Vergangenheit, die vergehen sollte“- Entschuldigung, Entschädigung: Gegen die schwarze Legende der japanischen Nachkriegszeit/ Siegfried Kohlhammer, Frankfurter Allgemeine Zeitung 23.August 2005
„Trauma Nanking“ - Das andere Kriegende: Japans Schuld und der Westen/ Mark Siemons, FAZ 29.August 2005

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3 コメント

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Re. 「 無頓着で貧相な精神環境」 (ベスの親父(またはtoxandria))
2005-09-04 22:51:21
こちらこそ、ご無沙汰しております。



日本のジャーナリズムの腰抜けぶりは、明治以降に連綿と引き継がれてきた“悪しき伝統”(または悪しき本性)のようなものではないでしょうか? ポストモダンの時代環境のなかで、彼らの厚化粧が溶け始めただけだと思います。



この意味では、たしかに今更とは思うのですが・・・。ただ、次に見るように、日本のアカデミズムがポストモダンの環境の中で閉鎖的な傾向を強めつつあることを考えると、これは「太平洋戦争」直前の時代より、今の日本の状況の方が、かなり“ヤバイ”のではないかと思っています。



「利己的な心情から勝ち組を自覚する」というアカデミズムのイメージは、先ず、政府税制調査会などの各種諮問委員会・審議委員会等の“委員”を積極的に務める偉い先生方の周辺に纏わりついています。



尤も、実際の調査・研究活動などは、自らが顧問を務める民間シンクタンク等への丸投げでしょうから、その実態はケチな日当稼ぎのようなものです。



従って、彼らの大半は人畜無害な日和見主義者であり(いや、だからこそ有害なのですが・・・)、その意味では単に無責任な輩なのだと思います。つまり、これが「無頓着で貧相な精神環境」の学者(御用学者)の一つのタイプです。



しかし、このように身勝手なアカデミズムの培養池の中から政府の御達しどおりの「大増税案」(国民へ激痛を与えるプラン)などが“お気軽に”諮問されるのでは、日本国民はいいつらの皮だと思います。



尤も、ジャーナリズムが、この種の問題は殆んど取り上げないので、このような実態を自分にかかわる問題として自覚できる国民は少ないと思いますが・・・。



より問題なのは、例えば権力中枢の極右勢力(ドイツで言えばナチに相当する)などと最深層で繋がる“●▲■会”などの活動へ積極的に参画するタイプの中堅、あるいは若手の先生方が最近目立つことです。



このような動きを後押しする(そして“フランス語は数を数えられない言葉だ”と差別的発言をして物議をかもした)知事が管轄する東京都では、近年、複数の既存大学が一定のフィルターを通す形で「首都大学東京」として再編されています。



また、18歳人口の減少という教育関連の市場環境変化の中で、このように“既存のアカデミズムをフィルターにかける動き”が全国的に観測されるようになっています。経営面から大学等高等教育機関を厳しく評価するという意味では、ある程度は致し方がないことだとは思います。



しかし、ある一定方向へのフィルタリングが長期的に続くことになると、日本のアカデミズム環境が劣化するか、あるいは特異な方向へのイデオロギー的な偏向が懸念されることになります。



そして、当然のことながら文部科学省を介して権力中枢からの財務・人事面等への強いバイアスがかかることなり、ひいては日本のアカデミズムの中立的な環境が維持できなくなる恐れがあります。

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おはようございます (stone)
2005-09-05 09:48:04
TBふたつ重ねてしまいました、すみません。



「ポストモダンを標榜する民主主義」は、ポストモダニズム以降のフェミニズムと似てますよね。韓国はほんとそのまんま続いている感じがします。南京大虐殺キャンペーンは、秦郁彦氏によると、反日によるアイデンティティをはかるChinese Americansがフェミニズムと連合して、更に本国中国とは、文革の殺害者の数を「南京大虐殺」で相殺する目的で重なったとしています。そうした反日が、日本の反体制側と結びついたということなんでしょうね。秦さんは、共産党との連携を匂わせていたと記憶しています。



そしてフェミニズムからマルキシズムとフーコーを援用して(両者ともフェミニズムというか女性については言及していないのに)、それぞれ「マルキシズム・フェミニズム」と「フーコニアン・フェミニズム」になるのですが、前者は、「必要労働」がなくなる最終段階にはいまだ到達し得ないけれどもテクノロジーが擬似最終段階の社会を現出するとして、テクノロジー主導の激化した資本主義経済を肯定し、後者は、相対的史観というか「歴史化する視点」を採用します。



フェミニズムという共通点で、こんなにも多様な言説がまとめられ、更に自民党までがそれを意識して女性党員を増やすんですから、すごいもんですよね。そしてこれはやっぱりポストモダニズム以降のフェミニズムで描かれていた未来像(当時からみると)だなと感じています。
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「厚化粧が溶け始めた」、「フェミニズム」 (pfaelzerwein)
2005-09-05 16:59:29
toxandriaさん、こちらこそサーヴァーの不調でご迷惑をお掛けします。



「厚化粧が溶け始めた」は面白い表現で今後とも使いたいです。ポストモダンの厚化粧というのにも私自身最近気が付いたので余計です。



“ヤバイ”と言うと私は何時も漫然とですが、独日に共通した遅れて来た帝国主義というのを思います。このずれが、今どのような局面にあるのかです。



大学の自治とかマスプロ高等教育の再編成とか、世界的な問題でもあるかと思います。それと同時に、其々固有の問題が違う面から出てきています。ドイツのエリート大学創設の取り組みや高学歴化への躊躇いは、日本でのアカデミズムの社会でのあり方と正反対の問題を示しているようです。







stoneさん、サーヴァーの問題はお互い様です。何時も米国通の貴重なご意見として拝見させて頂いてます。中国人の研究者は米国を中心として全ての分野で数限りない論文を発表している事は周知ですが、こうして米国アカデミズムでの特に社会学の一端を聞くのは門外漢にとっては非常に興味があるのです。



「フェミニズムからマルキシズムとフーコーを援用」という感じは、至るところで感じていた「ポストモダンの厚化粧」と同調していて、なるほどという感じです。これだけでも幾多の不可解な現象が理解出来るかと思うと気持ちが良くなります。



掃除ロボットだけでなくて、育児ロボットも欲しいなという事にもなるのでしょうか。ポストモダーンの三種の神器開発と、ついつい読み替えてしまいました。



昨日ライヴで放送された独選挙のデュエルも初女性首相候補という事もあります。今晩にでも纏めてみます。

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