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おさかな’sぶろぐ

日々感じたことを徒然なるままに。。。

秋田といえば

2022年10月15日 00時05分00秒 | 史跡
秋田といえば、まず最初に頭に浮かぶものの一つに「なまはげ」があります。主には男鹿半島周辺で行われてる民族行事なのですが、建築士会全国大会式典オープニングで登場してきました、なまはげを生で見るのは初めてだったのですが、その迫力に圧倒されただただ見入ってしまいました。





男木島

2022年09月29日 22時56分35秒 | 史跡
男木島は高松港からフェリーで40分ほどくらいかかる沖合に浮かぶ島です。山が海に飛び出してるような島で平野がほとんどありません。集落は男木島港の東斜面に階段状に形成されていて、島の南西部に位置します。下の写真はその集落を、フェリーのデッキから撮影したものです。今年は瀬戸内国際芸術祭が開催されているので、にぎやかなんだろうと思います。


瓶ヶ森

2022年09月09日 22時41分54秒 | 史跡
 愛媛県西条市と高知県いの町の県境付近に位置する「瓶ヶ森」は、日本三百名山・四国百名山に選ばれている山です。標高は1897mで、愛媛県第3番目の高峰です。四国だと5番目にあたります。最高峰は女山(めやま)で稜線沿いに男山(おやま)が並んでいます。古くから石土信仰の対象で、女山山頂には蔵王権現、男山山頂には石土古権現の祠が祀られています。山頂の西側には氷見二千石原(ひみにせんごくばら)と呼ばれる、緩やかな準平原のササ原が広がっていて、瓶が森に行くのは、この風景がみたいから足を運んでいます。
 愛媛県第3の高峰ではありますが、気軽に登れる山です。大駐車場から男山頂上、女山山頂へと登り、氷見二千石原の中を通り駐車場に戻るのが一般的なコースです。2時間半もあれば踏破できると思います。下の写真は、女山山頂から氷見二千石原へ下りる途中に撮影したものです。この風景が好きなんです。


唐招提寺 開山御廟

2022年08月13日 22時10分16秒 | 史跡
唐招提寺境内北東に位置する鑑真和上の墓所です。
鑑真は奈良時代に日本へ仏教の戒律を伝えるためにやってきた唐の高僧です。日本への渡海は困難を極め5回失敗し6回目でようやく日本へ渡ることができました。度々の渡海失敗により失明もしています。平城京に到着後、東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。その後、天平宝字3年(759)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置しました。4年後の天平宝字7年(763)唐招提寺で死去した。享年76だそうです。


佐和山

2022年08月12日 23時06分03秒 | 史跡
彦根市中心部の北東部に位置する佐和山には、中世中期から近世初期にかけて山城がありました。鎌倉時代・近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされています。以降、六角氏が支配し、応仁の乱後は、家臣の小川左近大夫・小川伯耆守を城主に置いてました。戦国時代の後半に入ると、六角氏の勢力が衰退し、新興勢力である浅井氏が伸張し、佐和山城もその支配に入りました。浅井氏が織田信長に滅ぼされた後、家臣の丹羽長秀が入城。本能寺の変の後に行われた清洲会議で、佐和山城は明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられた。天正13年(1585)、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。天正19年(1591)に石田三成が入城しました。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで石田三成は徳川家康に敗れ、その支配地には徳川四天王の一人である井伊直政が入りました。井伊直正は、佐和山城を継承することなく新たに彦根城を築き明治まで当地は井伊家の支配となりました。下の写真は、彦根城から望む佐和山です。写真中央左側の山が佐和山になります。


大湯環状列石

2022年05月22日 23時39分46秒 | 史跡
秋田県鹿角市で特別史跡に指定されている大湯環状列石です。野中堂環状列石と万座環状列石で構成されていて、下の写真は野中堂環状列石になります。縄文時代後期(約4,000年前)の遺跡です。葬送儀礼や自然に対する畏敬の念を表す儀式を行った「祭祀施設」であったと考えられています。


快天山古墳

2022年02月25日 23時10分16秒 | 史跡
快天山古墳は、丸亀市綾歌町栗熊東と富熊にまたがる古墳時代前期後半の前方後円墳です。平成16年9月30日に国の史跡に指定されています。墳丘の長さは98.8mで、香川県では2番目、四国では3番目に大きな古墳です。




後円部墳頂には江戸時代の円福寺僧侶の快天・快山・宥雅の墓が残り、古墳名の「快天山」はこれに由来しています。





野田院古墳

2021年08月18日 23時06分24秒 | 史跡
善通寺市の大麻山山頂近くに位置する『野田院古墳』は、3世紀後半につくられた全長44.5mの前方後円墳です。後円部は直径21m×高さ約2mで石だけを積んでつくった「積石塚」になっています。有岡古墳群の構成古墳のひとつとして国の史跡に指定されています。


積石塚はその名の通り、石を積み上げて墳丘を造っている古墳です。香川県から徳島県の一部地域と長野県、山梨県の甲府盆地北縁などに多くみられる形式です。香川・徳島のものは古墳時代前期(3~4世紀)を中心としています。高松市の石清尾山古墳群では30数基の積石塚があり、こちらも国の史跡に指定されています。


古墳横には展望台が設置されていて、善通寺市内の五岳山(香色山・筆ノ山・我拝師山・中山・火上山)を一望することができます。


古墳周辺は公園として整備されていて、車で行くことが出来ますが、結構細いので対向車が来ると大変です。訪問した際にはトラックと鉢合わせになりましたが、運よくかわす場所が近かったので助かりました。

赤穂城【兵庫県赤穂市】

2020年10月02日 22時52分46秒 | 史跡
 赤穂義士で有名な赤穂城です。江戸期の主な城主は、浅野家・永井家・森家です。江戸期の遺構としては、石垣、堀、本丸庭園、二之丸庭園、門跡になります。区の史跡及び名勝に指定されています。下の写真は、本丸表門になりますが、表門は復元建築です。5万石の割には規模の大きな城です。


備中松山城【岡山県高梁市】

2020年09月19日 23時53分51秒 | 史跡
 備中松山城は江戸時代の天守閣が今も残る城跡です。天守閣はもちろん重要文化財に指定されています。今日は天守じゃなく岩盤と石垣のコラボが独特の景観を造り出している石垣の写真です。



高松藩主松平家墓所【香川県高松市】

2020年09月17日 23時20分33秒 | 史跡
 高松藩主松平家墓所です。高松市仏生山町の法然寺にあります。墓所は、他にもさぬき市の霊芝寺にもあります。法然寺の墓所は、初代賴重をはじめとして3代賴豊から8代賴儀までの7人の藩主、正室、一族からなる202基の墓で構成されています。全国的にみても有数の規模を誇っているそうです。平成31年には国の史跡に指定されています。



 法然寺は、浄土宗の寺院で、本尊は法然作と伝わる阿弥陀如来立像です。創建は寛文8年(1668)で、開基は、高松藩初代藩主の松平頼重です。

高野長英の隠れ家【愛媛県西予市】

2020年08月13日 23時05分43秒 | 史跡
 愛媛県西予市の宇和町卯之町にある『高野長英の隠れ家』です。愛媛県史跡に指定されています。隠れ家は、1階に6畳と3畳、2階に4畳半となっていて、階段は3畳の間に設けられていたようです。後に、平屋建に改築され保存されています。現在の建物は、木造平屋建で瓦葺き、間口3.6m、奥行2.7mとなっています。


 高野長英は、陸奥国水沢にて生まれた医者・蘭学者です。天保10年(1839)「蛮社の獄」で入牢、弘化2年(1845)獄舎の火災により逃亡。幕府の探索を逃れ、嘉永元年(1848)宇和島藩主伊達宗城の保護を受け、伊東瑞渓と変名して宇和島に潜入し、大きな影響を与えたそうです。嘉永2年(1849)春、シーボルト門下の学友二宮敬作を頼って卯之町に来た。同年夏、再び卯之町を訪れた長英を、敬作は裏庭の離れ2階にかくまったそうです。

丸墓山古墳【埼玉県行田市】

2020年08月08日 23時31分57秒 | 史跡
 映画{のぼうの城」の舞台となっているのが、忍城の攻防戦です。秀吉が小田原の北条攻めの折り、石田三成を総大将とする軍勢が、忍城を囲んだのですが、その際、本陣となったのが『丸墓山古墳』です。国の史跡にも指定されています。



 そんなに大きな古墳ではないですが、古墳の上から、忍城はこんなふうに見えます。写真中央部分に小さく見えてるのが再建天守です。もっとも、当時は天守閣などなかったと思いますが。。。


 下の写真は、水攻めの際築造された石田堤から見た「丸墓山古墳」です。


 ちなみに日本遺産「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成遺産の一つでもあります。

尾去沢鉱山【秋田県鹿角市】

2020年07月14日 23時01分07秒 | 史跡
 秋田県鹿角市の廃鉱山『尾去沢鉱山』は、銅や金が採掘された鉱山でした。銅山として発見されたのは和銅元年(708年)だと伝えられています。採掘された銅や金は、東大寺の大仏や中尊寺で使われたとの伝説が残っています。江戸期に入ると金が枯渇し、新たに銅鉱脈が発見され、別子銅山、阿仁銅山とならび、日本の主力銅山の一つとなりました。明治に入ると、三菱合資会社の経営となり、日本の近代化を支え、太平洋戦争後は、戦後復興の礎となっていましたが、銅鉱石の枯渇による不採算性が高くなり、昭和53年(1978年)に閉山しました。
 現在、跡地はテーマパーク・史跡 尾去沢鉱山として開業しています。坑道の方は見学することが出来ますが、鉱山施設の遺構は、立ち入ることが出来ません。選鉱場、シックナー(濁水から固体を凝集沈殿させる非濾過型の分離装置)、大煙突等が残され廃墟となっていますが、それがとても雰囲気があって存在感があります。ミラーレスカメラのズームレンズで撮影してみました。雲が下りてきていてなかなかいい感じです。




 鉱山施設の遺構は国の史跡に指定されていて、土木学会選奨土木遺産や、近代化産業遺産に認定されています。


東有年・沖田遺跡公園【兵庫県赤穂市】

2019年04月01日 23時20分42秒 | 史跡
 兵庫県赤穂市東有年の『東有年・沖田遺跡公園』です。ここは、縄文時代後期(約3500年前)から室町時代(約600年前)にかけての遺構や遺物が多く発見された場所で、特に弥生時代後期の大型竪穴住居や古墳時代後期(約1400~1450年前)の竪穴住居が密集して見つかったことが特筆される史跡です。平成4年に兵庫県指定の史跡に指定されています。


 遺跡公園は道を挟んで北側が古墳時代のムラが復元されています。






 南側が弥生時代のムラとなっています。建物自体の形は似ていますが、建物形状が円形で入口が平入りなのが弥生時代で、建物形状が長方形で入口が妻入りになってたのが古墳時代のものでした。何故なのかは、詳しく調べてないので不明ですけど。





 公園内には何本かサクラが植えられていました。満開ではなかったですが、綺麗に咲いていました。復元されてる古代の建物といい按配でかぶってくれて楽しめました。



 赤穂市は、赤穂浪士で有名な地ですが、有年エリアは古代の遺跡が数多く残っているようです。次は別の遺跡にも立ち寄ってみようと思います。