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■シューマン・「ヴァイオリンコンチェルト」の初演が抱える問題■
09.9.21 中村洋子
★シューマン Schumann(1810~1856)の晩年について、
昨日のお話の、続きです。
シューマンは、1853年5月、22歳だったヨゼフ・ヨアヒム
Joseph Joachim(1831~1907)のヴァイオリン演奏に感動し、
彼のために、9月21日~10月3日まで、わずか13日間で、
「ヴァイオリン・コンチェルト」を、書き上げました。
20歳のブラームス Brahms (1833~1897)が、シューマンを訪問したのが、
9月30日ですから、ちょうど、「ヴァイオリン・コンチェルト」を,
書いている最中でした。
★ヨアヒムは、このコンチェルトを、大変に喜びましたが、
不思議なことに、シューマンの要望にもかかわらず、
それを演奏することは、ありませんでした。
さらに、『出版も、演奏もするべきではない』と、
ヨアヒムとクララ・シューマン、さらにブラームスも加えた3人で、
申し合わせ、“封印”してしまいました。
このコンチェルトに、作品番号が付されていないのは、
それが理由、とみられます。
★「封印」の理由は、定かではありません。
この曲が、陽の目を見たのは、84年後、ナチの興隆期の1937年。
11月26日、ベルリンのシャルロッテン・オペラハウスで、
Georg Kulenkampff ゲオルグ・クーレンカンプのヴァイオリン、
カール・ベーム指揮のベルリンフィルで、初演されました。
ヒットラーも臨席した、ナチのプロパガンダとしての演奏会であり、
放送で、世界中に流されました。
★この初演に至るまでは、さまざまな政治的駆け引きや、
暗闘があったようです。
当時、ナチにより、ユダヤ人作曲家の曲は、どんな名曲でも、
演奏は、不可能になっていました。
例えば、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトなども、不可。
そういう状況下で、このシューマンのコンチェルトが、
1937年に、“再発見”されたようです。
シューマンは、ユダヤ系ではなかったからでしょう。
★この楽譜は『シューマンの死後、100年間は出版してはならない』
という、「但し書き」付きで、ヨアヒムの息子のヨハネスに、託され、
ベルリンの 「Prussian State Library」 に、保管されていました。
★ヨアヒム・ファミリーのなかには、この曲を聴きたいという人も、
早くから存在し、その一員で、イギリスを舞台に活躍していた、
ジェリー・ダレイニー Jelly d'Aranyi という、
女性ヴァイオリニストが、初演を、熱望していました。
また、若き日のユーディ・メニューイン Yehudi Menuhin (1916~1999)も、
その楽譜のコピーを入手し、同様に、初演に意欲を燃やしていました。
★しかし、ナチは、ユダヤ系の上記二人のヴァイオリニストには、
初演を許さず、ドイツ人・クーレンカンプが、初演の栄誉に浴しました。
しかし、これは、シューマンのオリジナル譜面ではなく、
かなり、手直しされた楽譜によって、演奏されました。
パウル・ヒンデミット Paul Hindemith (1895~1963)が、手を加え、
さらに、クーレンカンプ自身も、同様に手を加え、
オリジナルとは、かなり異なった内容になっていたようです。
★クーレンカンプは、友人のヴァイオリニスト、カール・フレッシュ
Carl Flesch(1873~1944)への手紙で、『私は、ヴァイオリンパートを
直した。ヒンデミットがやったように。直したところは、両方とも似ている
ので、両方を少しずつ演奏した。私の意見では、手直ししないままの
オリジナル楽譜は、弾けない。
シューマンは、何度もヨアヒムに演奏するよう、頼んだそうだが、
オリジナルのままに、初演されなくて、シューマンはなんと、
ハッピーであったことだろう』と、書いています。
★(以上の経過や引用などは、主に、Great Violinists・Menuhin
NAXOS Historical ADD 8.110966 の英文解説(Tully Potter)に、
拠っています。このNAXOSの解説は、日本CDの薄っぺらな解説と異なり、
大変に充実した内容で、素晴らしいものが多い、といえます。)
★NAXOS の解説で、Tully Potter は、この手紙について、
「arrogant」(傲慢)と、書いています。
また、直された楽譜について、「mangled version , with cuts in the
orchestral tuttis,」と書いています。
つまり、「ズタズタにされている」、と指摘しています。
★クーレンカンプの初演後、メニューインは、同年12月23日、
ニューヨークで、ウラジミール・ゴルシュマン指揮の、
セントルイス交響楽団で、アメリカ初演を果たします。
これは、シューマンの「オリジナル楽譜」どおりの演奏でした。
★翌1938年2月、メニューインは、ジョン・バルビローリ指揮の、
ニューヨークフィルで、このコンチェルトを録音し、
それが、上記 NAXOS Historicalシリーズの一つ
「 Menuhin SCHUMANN DVORAK 」として、出ています。
「メニューインが戦前に残した録音のなかで、最高のものである」と、
Tully Potterは、記しています。
★私も、まことに素晴らしい演奏であると思いますし、さらに、
クーレンカンプが、なぜ「手直ししないままのオリジナル楽譜は、
弾けない」と言ったのか、全くのところ、さっぱり分かりません。
★この「クーレンカンプの手直し」は、いろいろと考えさせられます。
このシューマンのコンチェルトに限らず、作曲家と演奏家との
関係を考えるうえで、永遠の相克とでもいうべき、
厄介な問題、かもしれません。
★演奏家、一般化すれば、誰にも自己顕示があります。
まして、その時代のドイツを代表する大家、マエストロの
クーレンカンプとしては、自分がいままで刻苦勉強し、
到達した自己の音楽観が、当然、牢固として、築かれています。
そこに、いままで誰も演奏したことのない曲、“天才シューマン”が、
約1世紀前に作った曲が、出現し、初演することになります。
“天才”の作品は、往々にして、音楽的常識とはかけ離れていますし、
さらに、20世紀前半のある種、大袈裟な演奏様式と、シューマンの
ある種、簡素で、潔癖な音楽とは、相当異なっています。
オリジナル楽譜どおりでは、「分からない」、「面白くない」、「変だ」と、
クーレンカンプが感じる場所が、多分、たくさんあったはずです。
そこで、どうするか?
★誰もいままで聴いたことがない曲である以上、人間の心理として、
自分にとって「よく分からない」ところなどを、特に、
自分が納得する形に手直しして、より“完璧な”、
素晴らしい作品にしたい、してあげたい、
という、心理が働くのは当然かもしれません。
それは、自己顕示に裏打ちされたものかもしれませんが、
純粋に“よりよくなる”と信じ、善意によるものかもしれません。
★しかし、残念ながら、その手直しは、あくまで、20世紀前半の、
クーレンカンプの音楽観に基づいた、彼の音楽であり、
シューマンが意図した音楽とは、かけ離れたものに、
ならざるを、得ません。
単純にいえば、クーレンカンプの理解力が、足りなかっただけの
ことかもしれません。
それを、「傲慢に」あるいは、「善意から」、直したのでしょう。
★このことは、シューマンの妻、クララ Clara(1819~1896)についても、
実は全く、同じことがいえます。
シューマンの死後、夫のピアノ曲を、クララが校訂した際、
フレージングやアーティキュレーションなどを、実に実に、
常套的に、直し、改竄して出版してしまいます。
そのオリジナルなフレージングやアーティキュレーションにこそ、
夫の天才が、発揮された肝心なところなのです。
★クララは、当時、大変に有名で、素晴らしいピアニストでしたが、
しかし、彼女の夫の作品への理解が、夫の天才の、大きな領域にまでは、
達することはできなかった、という証拠ではないかと、思われます。
それゆえ、オリジナルなままでは、どうしても自分に納得がいかず、
常識的な形に直し、つまり、自分で納得のいく楽譜にした、
ということなのでしょう。
オリジナル楽譜では、複雑で統一のとれていないように見える
表現の多様性を、“常識の目”で見て、画一的な表記に、
きれいに整え、“カンナを掛け”、書き直してしまったのです。
★クララは、晩年のシューマンの様式を、「心の病による創作力の低下」
としか、見ることが出来ず、若い頃の作品と比べて、
低く評価していた、と思えます。
作曲家の、「晩年の様式」というのは、ベートーヴェンにしても、
フォーレにしても、厳然として存在し、それは、若いころの作品様式と、
優劣をつけるべきものでも、ありません。
シューマンの晩年の様式は、彼が追求した作曲技法の到達点とも、
いえると、思います。、
こうしたことを、ベッチャー先生とお話していましたら、
先生も、同感で、「晩年のシューマンはどれも素晴らしく、
Clara is wrong」とおっしゃっていました。
★現在も、シューマンのピアノ作品の普及版楽譜は、
クララ校訂版を基にしたものが、依然として広く、出回っていますので、
慎重に楽譜を選び、いわゆる「Urtext」(原典版)とも、
必ず、比較することが重要です。
(紫式部の実)
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲
09.9.21 中村洋子
★シューマン Schumann(1810~1856)の晩年について、
昨日のお話の、続きです。
シューマンは、1853年5月、22歳だったヨゼフ・ヨアヒム
Joseph Joachim(1831~1907)のヴァイオリン演奏に感動し、
彼のために、9月21日~10月3日まで、わずか13日間で、
「ヴァイオリン・コンチェルト」を、書き上げました。
20歳のブラームス Brahms (1833~1897)が、シューマンを訪問したのが、
9月30日ですから、ちょうど、「ヴァイオリン・コンチェルト」を,
書いている最中でした。
★ヨアヒムは、このコンチェルトを、大変に喜びましたが、
不思議なことに、シューマンの要望にもかかわらず、
それを演奏することは、ありませんでした。
さらに、『出版も、演奏もするべきではない』と、
ヨアヒムとクララ・シューマン、さらにブラームスも加えた3人で、
申し合わせ、“封印”してしまいました。
このコンチェルトに、作品番号が付されていないのは、
それが理由、とみられます。
★「封印」の理由は、定かではありません。
この曲が、陽の目を見たのは、84年後、ナチの興隆期の1937年。
11月26日、ベルリンのシャルロッテン・オペラハウスで、
Georg Kulenkampff ゲオルグ・クーレンカンプのヴァイオリン、
カール・ベーム指揮のベルリンフィルで、初演されました。
ヒットラーも臨席した、ナチのプロパガンダとしての演奏会であり、
放送で、世界中に流されました。
★この初演に至るまでは、さまざまな政治的駆け引きや、
暗闘があったようです。
当時、ナチにより、ユダヤ人作曲家の曲は、どんな名曲でも、
演奏は、不可能になっていました。
例えば、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトなども、不可。
そういう状況下で、このシューマンのコンチェルトが、
1937年に、“再発見”されたようです。
シューマンは、ユダヤ系ではなかったからでしょう。
★この楽譜は『シューマンの死後、100年間は出版してはならない』
という、「但し書き」付きで、ヨアヒムの息子のヨハネスに、託され、
ベルリンの 「Prussian State Library」 に、保管されていました。
★ヨアヒム・ファミリーのなかには、この曲を聴きたいという人も、
早くから存在し、その一員で、イギリスを舞台に活躍していた、
ジェリー・ダレイニー Jelly d'Aranyi という、
女性ヴァイオリニストが、初演を、熱望していました。
また、若き日のユーディ・メニューイン Yehudi Menuhin (1916~1999)も、
その楽譜のコピーを入手し、同様に、初演に意欲を燃やしていました。
★しかし、ナチは、ユダヤ系の上記二人のヴァイオリニストには、
初演を許さず、ドイツ人・クーレンカンプが、初演の栄誉に浴しました。
しかし、これは、シューマンのオリジナル譜面ではなく、
かなり、手直しされた楽譜によって、演奏されました。
パウル・ヒンデミット Paul Hindemith (1895~1963)が、手を加え、
さらに、クーレンカンプ自身も、同様に手を加え、
オリジナルとは、かなり異なった内容になっていたようです。
★クーレンカンプは、友人のヴァイオリニスト、カール・フレッシュ
Carl Flesch(1873~1944)への手紙で、『私は、ヴァイオリンパートを
直した。ヒンデミットがやったように。直したところは、両方とも似ている
ので、両方を少しずつ演奏した。私の意見では、手直ししないままの
オリジナル楽譜は、弾けない。
シューマンは、何度もヨアヒムに演奏するよう、頼んだそうだが、
オリジナルのままに、初演されなくて、シューマンはなんと、
ハッピーであったことだろう』と、書いています。
★(以上の経過や引用などは、主に、Great Violinists・Menuhin
NAXOS Historical ADD 8.110966 の英文解説(Tully Potter)に、
拠っています。このNAXOSの解説は、日本CDの薄っぺらな解説と異なり、
大変に充実した内容で、素晴らしいものが多い、といえます。)
★NAXOS の解説で、Tully Potter は、この手紙について、
「arrogant」(傲慢)と、書いています。
また、直された楽譜について、「mangled version , with cuts in the
orchestral tuttis,」と書いています。
つまり、「ズタズタにされている」、と指摘しています。
★クーレンカンプの初演後、メニューインは、同年12月23日、
ニューヨークで、ウラジミール・ゴルシュマン指揮の、
セントルイス交響楽団で、アメリカ初演を果たします。
これは、シューマンの「オリジナル楽譜」どおりの演奏でした。
★翌1938年2月、メニューインは、ジョン・バルビローリ指揮の、
ニューヨークフィルで、このコンチェルトを録音し、
それが、上記 NAXOS Historicalシリーズの一つ
「 Menuhin SCHUMANN DVORAK 」として、出ています。
「メニューインが戦前に残した録音のなかで、最高のものである」と、
Tully Potterは、記しています。
★私も、まことに素晴らしい演奏であると思いますし、さらに、
クーレンカンプが、なぜ「手直ししないままのオリジナル楽譜は、
弾けない」と言ったのか、全くのところ、さっぱり分かりません。
★この「クーレンカンプの手直し」は、いろいろと考えさせられます。
このシューマンのコンチェルトに限らず、作曲家と演奏家との
関係を考えるうえで、永遠の相克とでもいうべき、
厄介な問題、かもしれません。
★演奏家、一般化すれば、誰にも自己顕示があります。
まして、その時代のドイツを代表する大家、マエストロの
クーレンカンプとしては、自分がいままで刻苦勉強し、
到達した自己の音楽観が、当然、牢固として、築かれています。
そこに、いままで誰も演奏したことのない曲、“天才シューマン”が、
約1世紀前に作った曲が、出現し、初演することになります。
“天才”の作品は、往々にして、音楽的常識とはかけ離れていますし、
さらに、20世紀前半のある種、大袈裟な演奏様式と、シューマンの
ある種、簡素で、潔癖な音楽とは、相当異なっています。
オリジナル楽譜どおりでは、「分からない」、「面白くない」、「変だ」と、
クーレンカンプが感じる場所が、多分、たくさんあったはずです。
そこで、どうするか?
★誰もいままで聴いたことがない曲である以上、人間の心理として、
自分にとって「よく分からない」ところなどを、特に、
自分が納得する形に手直しして、より“完璧な”、
素晴らしい作品にしたい、してあげたい、
という、心理が働くのは当然かもしれません。
それは、自己顕示に裏打ちされたものかもしれませんが、
純粋に“よりよくなる”と信じ、善意によるものかもしれません。
★しかし、残念ながら、その手直しは、あくまで、20世紀前半の、
クーレンカンプの音楽観に基づいた、彼の音楽であり、
シューマンが意図した音楽とは、かけ離れたものに、
ならざるを、得ません。
単純にいえば、クーレンカンプの理解力が、足りなかっただけの
ことかもしれません。
それを、「傲慢に」あるいは、「善意から」、直したのでしょう。
★このことは、シューマンの妻、クララ Clara(1819~1896)についても、
実は全く、同じことがいえます。
シューマンの死後、夫のピアノ曲を、クララが校訂した際、
フレージングやアーティキュレーションなどを、実に実に、
常套的に、直し、改竄して出版してしまいます。
そのオリジナルなフレージングやアーティキュレーションにこそ、
夫の天才が、発揮された肝心なところなのです。
★クララは、当時、大変に有名で、素晴らしいピアニストでしたが、
しかし、彼女の夫の作品への理解が、夫の天才の、大きな領域にまでは、
達することはできなかった、という証拠ではないかと、思われます。
それゆえ、オリジナルなままでは、どうしても自分に納得がいかず、
常識的な形に直し、つまり、自分で納得のいく楽譜にした、
ということなのでしょう。
オリジナル楽譜では、複雑で統一のとれていないように見える
表現の多様性を、“常識の目”で見て、画一的な表記に、
きれいに整え、“カンナを掛け”、書き直してしまったのです。
★クララは、晩年のシューマンの様式を、「心の病による創作力の低下」
としか、見ることが出来ず、若い頃の作品と比べて、
低く評価していた、と思えます。
作曲家の、「晩年の様式」というのは、ベートーヴェンにしても、
フォーレにしても、厳然として存在し、それは、若いころの作品様式と、
優劣をつけるべきものでも、ありません。
シューマンの晩年の様式は、彼が追求した作曲技法の到達点とも、
いえると、思います。、
こうしたことを、ベッチャー先生とお話していましたら、
先生も、同感で、「晩年のシューマンはどれも素晴らしく、
Clara is wrong」とおっしゃっていました。
★現在も、シューマンのピアノ作品の普及版楽譜は、
クララ校訂版を基にしたものが、依然として広く、出回っていますので、
慎重に楽譜を選び、いわゆる「Urtext」(原典版)とも、
必ず、比較することが重要です。
(紫式部の実)
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲