■ 映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」を見る ■
09・9・20
★大作曲家を描いた映画は、その作曲家の音楽を理解するうえでは、
あまり参考にならず、逆に、誤った偏見を植え付けられることも多く、
私は普段、あまり見に行きません。
しかし、今回は、監督と脚本が、ブラームスの叔父の末裔の
ヘルマ・サンダース=ブラームスという女性、ということでしたので、
映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」を、見てまいりました。
★原題は「Geliebte Clara 」で、
“愛しい人クララ”というような、ニュアンスでしょうか。
日本語の題は、照れてしまうような、常套的な、
「愛の協奏曲」というタイトルに、なっています。
★ロベルト・シューマンと、妻クララを演じた俳優さんは、
健闘していますが、二人の作曲家の描き方とその脚本に少々、
問題があったと、思います。
ストーリーは、シューマン夫妻と、クララに思いを寄せる
ブラームスのプラトニックラブを基調に、狂気のシューマンを
を支えるクララ、それを、暖かく見守って援けるブラームスという、
お馴染みの「有名」な物語を、そのままなぞっています。
★さらに、自立する女性としてのクララの苦悩を、
もう一本の筋として、絡ませています。
しかし、二人の天才、「シューマン」と「ブラームス」とを、
つなぐ役割の「クララ」と、女性として自立していく「クララ」を、
描こうとするのであれば、シューマンとブラームスの、
天才としての側面に、鋭く切り込んでいかなければ、
クララの葛藤が、いまひとつ、浮び上がってこないと思います。
★シューマンのピアノコンチェルトを、演奏するクララに、
憧れの眼差しを、送るブラームス。
その姿を見て、激しく嫉妬の炎を燃やすシューマン。
これが、この映画での、三人が最初に出会うシーンです。
そして、シューマンは、嫉妬に狂い、アヘン中毒に堕ち入り、
他人への思いやりも、感じさせないような冷たい主人公、
典型的な恋愛ドラマの主人公を、演じさせられていました。
★そうしたシューマン像には、がっかりし、
時間の無駄であった、というのが、率直な感想です。
この映画を見られた方が、シューマンのイメージを、
映画によって固定化し、彼と彼の音楽に、
偏見をもたれないことを、願うばかりです。
つぶさに天才シューマンの音楽を、
素直に、聴いて頂きたいものです。
★本筋のお話ではありませんが、クララを演じた女優の、
マルティナ・ゲデックは、この役のため、
数週間、ピアノを猛練習したそうです。
音は、完全には合っていないながらも、ピアノコンチェルトの
演奏場面では、手の動きも、本人が演じています。
★テレビで、日本人の女性ピアニストが、コンチェルトを弾く際、
ときどき、最も基本的な技術の未熟さゆえ、
指の付け根の関節を陥没させながら、弾いているように
見えることが、あります。
本来なら、指を支えるため、この関節はガッチリと盛り上がり、
横から見ますと、三角形の山の頂点に、位置しなければなりません。
★ゲデックは、関節を陥没させてはいるものの、
それなりに、本物のピアニストらしく、立派に弾いていました。
俳優として、役に成り切る努力の凄さが、垣間見えました。
★シューマンを演じたパスカル・グレゴリーは、
脚本に問題があるとはいえ、演技はすばらしく、
特に、エンデニッヒの精神病院に、シューマンが収容された後の、
治療風景、髪の毛を剃られ、頭頂部に刺激を加えられ、
血が滲んだ姿には、心が痛みました。
★ブラームスを演じたマリック・ジディは、好青年ですが、
ブラームスの天才を感じさせる雰囲気は、作れなかったようです。
映画の中で、人々に請われ、ブラームスが弾いたピアノ曲が、
「ハンガリアン舞曲」だったのには、苦笑しました。
ピアノに向かうより、ディスコで踊るほうが、
似合った現代青年、という役作りでした。
★グローブ音楽辞典などによりますと、史実上、
シューマン(1810~1856)と、ブラームス(1833~1897)の
出会いは、次のようです。
1853年5月、シューマンは、当時22歳だったヨアヒムが演奏する、
ベートーヴェンの「ヴァイオリンコンチェルト」を聴き、感動します。
そして同年9月、ヨアヒムの友人だった弱冠20歳のブラームスが、
シューマン夫妻を、初めて訪問しました。
それが二人の出会いでした。
シューマンは、ブラームスの自作ソナタなどを聴き、
作曲家としての才能を、ピアニストとしての才能を、
即座に、見抜きました。
★そして、音楽評論誌に、「新しく道を切り拓いて行く人」と、
最大級に、ブラームスを讃える記事を、書きました。
クララによりますと、シューマンは、前年の1852年春から、
「リューマチ」のため、不眠と鬱病に、陥っていました。
ブラームスと出会ってから、半年もたたない1854年2月、
ライン川で投身自殺を図り、精神病院に入院します。
1856年、その病院で没します。
この晩年の、病に苦しんだ時期の作品については、
妻のクララは、評価していなかったのですが、
それについては、また、書きます。
(紫式部)
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲
09・9・20
★大作曲家を描いた映画は、その作曲家の音楽を理解するうえでは、
あまり参考にならず、逆に、誤った偏見を植え付けられることも多く、
私は普段、あまり見に行きません。
しかし、今回は、監督と脚本が、ブラームスの叔父の末裔の
ヘルマ・サンダース=ブラームスという女性、ということでしたので、
映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」を、見てまいりました。
★原題は「Geliebte Clara 」で、
“愛しい人クララ”というような、ニュアンスでしょうか。
日本語の題は、照れてしまうような、常套的な、
「愛の協奏曲」というタイトルに、なっています。
★ロベルト・シューマンと、妻クララを演じた俳優さんは、
健闘していますが、二人の作曲家の描き方とその脚本に少々、
問題があったと、思います。
ストーリーは、シューマン夫妻と、クララに思いを寄せる
ブラームスのプラトニックラブを基調に、狂気のシューマンを
を支えるクララ、それを、暖かく見守って援けるブラームスという、
お馴染みの「有名」な物語を、そのままなぞっています。
★さらに、自立する女性としてのクララの苦悩を、
もう一本の筋として、絡ませています。
しかし、二人の天才、「シューマン」と「ブラームス」とを、
つなぐ役割の「クララ」と、女性として自立していく「クララ」を、
描こうとするのであれば、シューマンとブラームスの、
天才としての側面に、鋭く切り込んでいかなければ、
クララの葛藤が、いまひとつ、浮び上がってこないと思います。
★シューマンのピアノコンチェルトを、演奏するクララに、
憧れの眼差しを、送るブラームス。
その姿を見て、激しく嫉妬の炎を燃やすシューマン。
これが、この映画での、三人が最初に出会うシーンです。
そして、シューマンは、嫉妬に狂い、アヘン中毒に堕ち入り、
他人への思いやりも、感じさせないような冷たい主人公、
典型的な恋愛ドラマの主人公を、演じさせられていました。
★そうしたシューマン像には、がっかりし、
時間の無駄であった、というのが、率直な感想です。
この映画を見られた方が、シューマンのイメージを、
映画によって固定化し、彼と彼の音楽に、
偏見をもたれないことを、願うばかりです。
つぶさに天才シューマンの音楽を、
素直に、聴いて頂きたいものです。
★本筋のお話ではありませんが、クララを演じた女優の、
マルティナ・ゲデックは、この役のため、
数週間、ピアノを猛練習したそうです。
音は、完全には合っていないながらも、ピアノコンチェルトの
演奏場面では、手の動きも、本人が演じています。
★テレビで、日本人の女性ピアニストが、コンチェルトを弾く際、
ときどき、最も基本的な技術の未熟さゆえ、
指の付け根の関節を陥没させながら、弾いているように
見えることが、あります。
本来なら、指を支えるため、この関節はガッチリと盛り上がり、
横から見ますと、三角形の山の頂点に、位置しなければなりません。
★ゲデックは、関節を陥没させてはいるものの、
それなりに、本物のピアニストらしく、立派に弾いていました。
俳優として、役に成り切る努力の凄さが、垣間見えました。
★シューマンを演じたパスカル・グレゴリーは、
脚本に問題があるとはいえ、演技はすばらしく、
特に、エンデニッヒの精神病院に、シューマンが収容された後の、
治療風景、髪の毛を剃られ、頭頂部に刺激を加えられ、
血が滲んだ姿には、心が痛みました。
★ブラームスを演じたマリック・ジディは、好青年ですが、
ブラームスの天才を感じさせる雰囲気は、作れなかったようです。
映画の中で、人々に請われ、ブラームスが弾いたピアノ曲が、
「ハンガリアン舞曲」だったのには、苦笑しました。
ピアノに向かうより、ディスコで踊るほうが、
似合った現代青年、という役作りでした。
★グローブ音楽辞典などによりますと、史実上、
シューマン(1810~1856)と、ブラームス(1833~1897)の
出会いは、次のようです。
1853年5月、シューマンは、当時22歳だったヨアヒムが演奏する、
ベートーヴェンの「ヴァイオリンコンチェルト」を聴き、感動します。
そして同年9月、ヨアヒムの友人だった弱冠20歳のブラームスが、
シューマン夫妻を、初めて訪問しました。
それが二人の出会いでした。
シューマンは、ブラームスの自作ソナタなどを聴き、
作曲家としての才能を、ピアニストとしての才能を、
即座に、見抜きました。
★そして、音楽評論誌に、「新しく道を切り拓いて行く人」と、
最大級に、ブラームスを讃える記事を、書きました。
クララによりますと、シューマンは、前年の1852年春から、
「リューマチ」のため、不眠と鬱病に、陥っていました。
ブラームスと出会ってから、半年もたたない1854年2月、
ライン川で投身自殺を図り、精神病院に入院します。
1856年、その病院で没します。
この晩年の、病に苦しんだ時期の作品については、
妻のクララは、評価していなかったのですが、
それについては、また、書きます。
(紫式部)
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲