僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

2001年苦痛の旅

2011年06月07日 | ランニング

まず、冒頭から上記のタイトルの説明をしなければならない。
これは 「2001年宇宙の旅」 という映画の題にひっかけたダジャレです。
1968年に公開された映画なので、ご存知でない方も多いでしょうね。
しかし、あぁ、ダジャレに説明をつけるとは…。 最悪のスタートだ。 
(しかも、ほとんどシャレになっていない。 とほほ)

さて、今日は久しぶりに朝の6時頃から、大和川堤防へ出て、ジョギングをした。
勤めていた頃は、朝しか走る時間がなかったので早朝ジョギングが日課だった。
しかし、時間が自由に使える身になって、この習慣が崩れ、走る時間が減った。
まったく自由であるということは、 僕の性格からしてどうしても怠惰を招くようだ。

やはり、長年続けた日課が狂うと、生活の質が微妙に劣化する感じがある。

曇天で比較的涼しい中を走っていると、忘れかけていた感覚が戻ってきた。
泳ぐことやら歩くことやら、好きな運動は多いけれど、やっぱり走ること。
これが心身にこの上ない心地よさをもたらす、というのを改めて実感した。
まあ、歩いているのか走っているのか、わからないようなスピードだけど。

走りながら、ふ~む、6月と言えば… 
…と、ある思い出深いマラソン大会を思い出していた。

ちょうど今から10年前の6月だった。

2001年。 21世紀の幕が開いた年である。

その年の3月下旬のある日のこと。
たまたま手に取った読売新聞夕刊に、赤穂100キロマラソンの記事が載っていた。
6月3日に開催されるとのことである。

ランニングをさぼっていた僕は、体重がわが人生最大の数値を示し、
これではいかん、と思いながらもグズグズして、怠け続けていた。

その新聞記事を読み終えた瞬間、何のためらいもなく、決めた。
「うむ。 これしかない! 赤穂へ行こ~」 

当時、52歳だった。
ナマってしまった身体で100キロにチャレンジするのは、かなり難しい。
それに、レースまでの準備期間が2ヶ月しかないのは、ちょっと苦しい。

しかし練習期間が短い方がダレなくて済む、という利点もあるし、
あれこれ考えるより、とにかくやってみようという気持ちが勝った。

さっそく参加申込書を取り寄せ、4月1日から練習を開始した。

ほぼ毎日、走る日が続くと、日常生活もピリッとしはじめ、
気持ちのほうも、何となく充実してきた。
2ヶ月間、練習で走った距離は830km。
体重は5kg 減って、お腹がひっこんだ。

そして、レース開催日の6月3日がやってきた。

場所は 「忠臣蔵」で有名な、あの赤穂である。
赤穂海浜公園の1周5キロの周回コースを20周する。
スタートは午前5時だ (…なので前日は赤穂駅前ホテルに泊まった)。
制限タイムは14時間である。

14時間あれば、なんとかなりそうだけど、
なんたって2ヶ月間での急仕上げである。
完走をめざすには、決して無茶をしてはいけない。
(レースに出ること自体が無茶、という考え方もあるが … むふっ)

14時間すべてを使うつもりでペースを考えなければならない。

午前5時。 パーンという号砲で、スタートした。
選手たちはみんな歓声とともに威勢良く飛び出した。
おいおい、100キロやで。 この先、100キロあるんやで。

僕は集団の最後尾をゆるゆると走った。 

何周か走っているうちに、どんどん気温が上昇してきた。 
その暑さのためか、チラホラと棄権する選手が出始めた。

僕はエイドステーションの水とスポーツ飲料をガブガブ飲んで、
バナナ、梅干、ビスケット、チョコレートなども食べまくった。

80キロ地点を9時間40分で通過したとき、完走を確信できた。

残りの20キロは1キロごとに走ったり歩いたりを繰り返し、
13時間 04分のタイムで、ゴールインすることができた。

制限時間まであと1時間残していたが、走っている人は見当たらなかった。
みんな、すでにゴールし終えたか、あるいは棄権したかのいずれかである。

僕がゴールしたときは、係員らもテントをたたみ始め、
まだレースは終了していないはずなのに、帰る準備などをしていた。
僕はほとんど、というか、完全に、というか、ビリに近い順位だった。

それなのに、不思議なことが起こった。
係員の一人が僕のところへやって来て、こう言った。
「え~っと、○○さん。 50歳代の部で1位です。 おめでとうございます」
「え…? うっそぉ」
わが耳を疑った。 
「いや、ほんとです。 1位です。 どうぞ、これ、優勝メダルです」
そう言って、立派なメダルをくれた。

半信半疑でケースに入ったままのメダルを受け取り、改めて選手名簿を見た。
それぞれ氏名の後ろに年齢が書いてあったが、50代は全部で9人いた。
もし係員が言ったように、僕が50代で1位だったということであれば、
僕以外の50代の選手は、全員が棄権したとしか思えないのである。
つまり完走したのが1人だから、 必然的に1位ということになるわけ。 

思いも寄らぬ 「おまけつき」 でレースが終わった。
あとにも先にも、「優勝」 と名の付く 「栄誉」 はこれ一つだ。
32歳でジョギングを始めてから、ちょうど20年目のことだった。

あれから10年経ったが、以来、大会には一度も参加していない。

ウルトラマラソンは、僕にとっては走る競技というより、旅みたいなものだった。
まぁかなりの苦痛を伴う旅だけれども、終わるとこれほど感慨深いものはない。

今年、突発的に、フルマラソンに挑戦しようという気を起こして、
いくつかのレースを目標にしたのだけれど、いずれも挫折した。

もう一度ああいう過酷なレースを体験したい、という思いと、
あんなしんどいことは…もういらん、という思いが交錯する。 

もう、マラソン大会に出ることはないのかなぁ~。
今朝、堤防を走りながら、そんな思いに耽った。

 

 

   
   赤穂100キロマラソンで 「年代別優勝メダル」 を
   ケースに入ったまま、もらった。 … 10年ひと昔。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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