また「喪中はがき」が来る時期になりました。わが家にも、先週あたりからポツリポツリと入り始めています。
喪中はがきといえば、以前はご両親などお身内が亡くなられたという場合がほとんどでしたが、近年は、もうこの齢ですから当たり前かも知れませんけど、自分とつき合いのあったご本人が亡くなり、奥様などからその喪中はがきをいただく、ということが増えてきました。去年も一昨年も、しばらく会っていない親しかった友人が亡くなったことを喪中はがきで知り、大きなショックを受けたものでした。
そして今年、一番最初に受け取った喪中はがきは、僕が勤めていた時に大変お世話になった元職場の上司のKさんで、その人が3月に亡くなっておられたとのことでした。僕が退職してからも一・二度お会いしていましたが、その人とは今だに忘れられない出来事があったので、「そうか。亡くなられたのか…」と、しばらく「あのとき」のことを思い出しながら、Kさんを偲びました。
「あのとき」というのは、もう数十年も前のことですが…
市役所の議会事務局で働いていた時、静岡県で議長会という催しがあって、僕は事務局の2人の上司と共に、議長・副議長に随行して静岡県に行きました。静岡県の伊豆長岡(現在は伊豆の国市)というところで議長会が行われることになっていましたので、そこへ出張したわけです。
長岡に着いて、昼食をとるため、僕たち一行は一軒の小さな食堂に入りました。そこでみんなでカレーライスを食べたように記憶しています。その食事中のことでした。
一緒に行った上司の一人であるKさんが、食べ終わるか終わらないうちに、
「すみません。ちょっと横にならせてもらいます」
と議長らに断り、長椅子に横たわりました。なんだか苦しそうな表情だったので、みんなが「大丈夫?」と尋ねると、「ええ、ちょっと休んだら治るでしょう」と目を閉じたのです。
しかし、顔色も悪く呼吸もおかしい。もう一人の上司だった人が「これは救急車を呼んだ方がいいん違うか?」と言ったので、僕はお店の電話を借りて119番をしました。
救急車が来て、僕がKさんと一緒に乗って行くことにしました。幸運なことに、その食堂のすぐ近くに順天堂病院という大きな病院があったので短時間でそこへ到着し、すぐに集中治療室に運び込まれました。僕は廊下の椅子に座りながら、一体なんの病気なんだろう?と、病気に関する知識に乏しいので、不安や緊張感が全身を巡りました。
しばらくすると、男の人が近づいてきて「ご家族の方ですか?」と僕に聞いてきたので「いえ、あの方は、え~っと、僕の上司です。大阪から出張で来ているところです」と、緊張しながら答えました。
「そうですか。あの…ですね。心筋梗塞のようなのですが、これから造影剤の投与を行うにあたって、それに同意していただく署名をお願いしたいのですが」
と、その人が言ったので、
「はぁ…。…わかりました」
と答えて、署名しました。
そのあと、議長会の会場へ電話をし、もう一人の上司に状況を説明しました。
それからどれくらいの時間が経ったのかわかりませんが、やがて集中治療室のドアが開き、Kさんは寝たままストレッチャーの上で酸素マスクつけた姿で出てきて、僕の顔を見て微かに頷いたように見えました。「心配かけてごめんね」という表情だったような記憶があります。
そのあと、医師が病状を説明してくれました。話が難し過ぎて僕にはほとんどわからなかったのですが、何度も「運が良かったですねぇ」という言葉を口にしていました。そこから推察すると、間一髪というほどの、よほど危険な状態だったようでした。
夜になって、会議を終えたもう一人の上司と一緒に、大阪から急きょ駆けつけた奥さんが娘さんと共に病院に来られたので、入れ替わりに僕はホテルに戻って遅い夕飯を食べました。張りつめていた神経が、やっと何とか落ち着いて来たようでした。
Kさんが順天堂病院に入院したまま、僕たちは帰阪しました。どれくらい入院されていたのか今は忘れましたが、かなりの期間だったように思います。でも、完治して戻ってこられたのは本当に何よりでした。
Kさんが仕事に復帰されてから、僕に対して、いつも「あの時以来、自分は周りの人のおかげで生かしてもらっている、と思ってるよ」としみじみした口調で言っていました。
この度、そのKさんが亡くなられたという喪中はがきを奥さんからいただき、はがきを握りながら、そんなことを思い出していました。
いろいろと縁のある人が亡くなっていく。
だんだん、こういうケース(年賀状から喪中はがきへ)が増えてくるんだろうなと思います。自分だって、もちろん例外ではありませんしね。いつか、妻か息子かは知らないけど、「のんが亡くなりましたので新年のご挨拶をご遠慮申し上げます」というはがきを出す日が来るんですから。
つまりまあ、年賀状をやりとりできている間は、お互いに「しあわせ」…ってことになるんでしょうね。