僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

淀殿の墓 ~太融寺~

2016年10月21日 | ウォーク・自転車

 

 
    NHK大河ドラマ「真田丸」の1シーン。
   淀殿(茶々)の、この言葉が印象的でした。


大阪駅の東側に阪急百貨店がある。

そこから東へ向いて扇町筋という道路が延びており、
そこを歩いて行くと、10分足らずのところに太融寺がある。
ここに淀殿のお墓があるということで、一度行きたいと思っていた。

ちょうどいい機会だった。

広い道路を歩いて行くと、やがて道の向こう側に太融寺が見えた。
こんな賑やかなビジネス街の中にお寺が建っているんだ。
しかもそこに、淀殿の墓があるとは

 
 太融寺が見えた。右側の筋に表門がある。

 

 
 ここです。ひっそりとした雰囲気でした。


そもそも、なぜ淀殿の墓が太融寺にあるのか…ということだが、

大坂夏の陣に敗れ自刃した淀君の遺骨は、
大阪城近くの鴫野(しぎの)神社というところに、
祠をつくって埋められたが、後に大阪城周辺に練兵場や軍需工場が
造られることになり、その際、遺骨がこの太融寺に移されたそうだ。
太融寺は、もともと豊臣家とは縁が深かったという。 

 

 
 中に入ると案内の立て札が…
 「真田丸」の影響で、観光客も多いのでしょうか。
 

 

 
 左へ曲がると、ありました!

 

   
その奥にお墓が…
最初は九輪の石塔を造り埋葬していたそうですが、
戦争で焼けたので、今は六輪になった…とのこと。

 

 

お墓のそばに藤見東陽という漢詩人の「弔碑」があります。

これだけでは僕などはまったく意味がわからないので、
その読み下し文を載せます。 

大坂の城樓(じょうろう)碧涯(へきがい)を壓(あっ)す
姉(いろね)は豊公の寵(ちょう)珠帷(しゅい)を縱(ほしいまま)にす
春花秋月(しゅんかしゅうげつ)君に依(よ)りて麗(うるわ)し
窈窕(ようちょう)嬋妍(せんけん)嗣(し)を抱(いだ)いて期(き)す
方廣(ほうこう)の鑄銘(ちゅうめい)姦智(かんち)の將(しょう)
紅蓮(ぐえん)の劫火(ごうか)憫憐(びんれん)の姫
今聞く鐘(かね)は愴(かな)し太融寺
墓石(ぼせき)香煙(こうえん)菊を供うるは誰(たれ)ぞや

むずかしいですけど、意味はぼんやりと分かるような気もします。

さて、大河ドラマ「真田丸」も、
いよいよ真田幸村が大阪城へ入城しましたね。
それが1614年の秋ですから、ここから冬の陣が始まり、
真田丸を築いて徳川勢を蹴散らすシーンなどが楽しみです。

そして翌年の5月7日、夏の陣で幸村は天王寺で戦死しますが、
その翌8日、大阪城が落城し、秀頼と淀殿は自害するのですね。

ドラマ「真田丸」の前回の放送の中で、
茶々と幸村が大阪城で再会するシーンがありました。

この2人は、以前、こういう会話を交わしていました。
幸村が大阪城を去る時、茶々がこう言ったのです。

「私と源次郎(幸村)は、不思議な糸で結ばれている気がします。
離れ離れになっても、あなたはいつかまた戻ってくる。
そして、私たちは同じ日に死ぬの」

そう言う茶々に、幸村は、
「遠い先であることを祈っております」
と返す。

そして先週は、2人が大阪城で再会したシーンで終わりました。

その後、幸村が戦死した翌日、大阪城が落城し、
淀殿は秀頼とともに自害した…

…ということで、
幸村と淀殿は、同じ日…ではなく、
1日違いで亡くなったわけですが…。

 

 

 

 

 

コメント (2)
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