私達日本人は、本音と建前をごく当たり前に使い分ける民族です。
イエスがノーであったり、ノーがイエスであったりする事は当たり前で、
その都度、時と場合によって猫の目の様に次々に変わったりします。
そのことが、欧米社会の人達から、何を考えているか解からなかったり
ミステリアスに感じられる場合も多かったのです。
しかしながら、日本中が次第に国際化してくると、このような曖昧な体質が
マイナスととらえられ、教育のみならず社会一般からして、イエス、ノーを
ハッキリとする傾向が強くなってきました。
メディアの発達と共に、情報を提供するマスコミやテレビなどでは、
ハッキリと主張する事が求められ、いつしか、欧米人の様に自分の意見を
しっかり言える人が優れているような風潮が生まれて来ました。
では、誰もがはっきりと自分の意見を言える社会は素晴らしい社会でしょうか。
確かに、様々な意見が平等に取り上げられ、物事や政治がとり行われる事は
人々の暮らしにとって理想的と言えます。
しかし、自分の意見を主張する事を中心に据えた社会は、本当に進歩的で
近代的な社会なのでしょうか。
合理主義が社会のシステムとなっている欧米社会にとっては良いかも知れませんが
日本人にとって優れた方法と言えるのでしょうか。
我が国は長い歴史上、他の国に占領されたりすることも無く、同じ国土で
限られた資源を無駄なく利用しながら生きて来ました。
その為、争いを避けるためにも、お互いに相手を察して、全体のバランスを感じ
自分の立場を決めてきました。
その体質が今でも、自分の主張を直ぐに出しにくい民族となっているのです。
領地を取りあいながら争いの中で国家を築いてきた欧米人にとって、
自分の領地をしっかり認識できることが幸せであり、どちらとも言えない曖昧な
態度は、直ぐに敵国に略奪される運命に在ったのです。
戦争ともいえるビジネスの世界では、このはっきりとした主張は非常に有力で
味方に対しても敵に対しても自分の立場を安全にできたのです。
日本人は、昔から何かを行なう時、多くの意見を取り入れる傾向が有りました。
その意見も、自分の考えと言うより、皆の為になると言う考えからのものでした。
この事が、責任の所在が分からなかったり、中々審議が進まない原因でもありました。
しかし、この優柔不断な性格が、ビジネスにおいてはマイナスであるかもしれませんが、
対人的、個人的には非常に有効な潤滑油の役目をしているのです。
数年後に予定される東京オリンピックの売り言葉、おもてなし、とは
日本人の一番得意な分野でもあるのです。
世界のグローバル化に伴い、日本も欧米の先進国の様に変わりつつありますが、
日本人に多く見られるこの精神が、実は、欧米人にとっては逆に憧れでもあります。
先祖から受け継いできた、素晴らしい日本人の精神が、実は世界が注目しています。
でも、私達日本人は、いまだ、イエス、ノーの社会を崇拝しようとしています。
おもてなしの精神は、オリンピックだけでなく、本当は、日常的に、友達や
家族の間でもう一度考え直す大切なジャパニーズスピリットでもあるのです。