ふだん、プロコフィエフの音楽は好んで聴くのに、ショスタコーヴィチの音楽をすすんで手にすることはあまりありません。たんに好みの問題にすぎないとしても、どういうところがズレているのかには興味があります。
そのショスタコーヴィチの音楽の中でも、比較的昔からよく聴いていたのが、交響曲第7番「レニングラード」でした。題名の「レニングラード」といえば、燦然たる王宮と芸術の中心地ペテルブルグであり、ロシア革命の指導者レーニンの名を冠した、モスクワと対をなす古都である、というイメージでした。東の東京に対する西の京都、摩天楼のニューヨークに対する古都ボストン、というようなイメージです。
私にとって、彼の交響曲第7番と言えば、「ショスタコーヴィチのボレロ」の音楽を持つ大曲というイメージでした。世界史におけるレニングラード攻防戦の知識はあってもその実態までは知らず、ひの・まどか著『戦火のシンフォニー~レニングラード封鎖345日目の真実』という迫真のドキュメントを読むまでは、そんなスゴイ背景を持った音楽だとは思ってもいませんでした。
第1楽章:古典派交響曲ならほとんど1曲分に相当するような長い楽章です。堂々たる第1主題、穏やかで美しい第2主題は人々の平和な生活を表しているのだとか。ところが、そこから「ショスタコーヴィチのボレロ」を徹底的に反復するのですから、彼はまさにアジテーターの素質充分(^o^)/ 編成も大きければ響きも半端ではありません。とくに、転調して悲壮な雰囲気になってからは、まるで突撃決死隊です。思わず高揚してしまい、作曲者の術中にはまります。ただし、レハールの「メリー・ウィドウ」中の「マキシムへ行こう」の旋律みたいなのが繰り替えされるわけですから、「メリー・ウィドウ」をよく知っている人たちなら、「それでも僕はマキシムへ行くぞ。あそこは神聖な祖国を忘れさせてくれる」という趣旨の歌詞だったことを思い、アジテーターの本質(=自分は突撃せず他人を突撃させる)を発揮したと斜めに見ることもできるでしょう。
第2楽章:前楽章とともに、レニングラード脱出前に書かれていた音楽だそうです。こうした背景の中で書かれたとは思えない、意外なほどの軽やかさを持つ音楽ですが、なるほどと思うような懐旧的な優雅さと緊張感があります。
第3楽章:全曲中二番目に長い音楽です。廃墟の前に立つような空虚感が、しだいに諦めとは別なものに変化していくようです。
第4楽章:独ソ戦の最中に、戦火のレニングラードを逃れて、なんとか平穏さのある土地で書かれた曲ではあるにしても、逆に言えばソヴィエト政府の監視下での作曲活動だったのでしょう。でも、音楽はけっこう高揚感を持って書かれたと感じさせる、「勝利の音楽」のフィナーレです。
ロードノイズの多いカーステレオにはピアニシモの箇所が不向き、ミニコンポの小型スピーカで小音量で耳を傾けるにも不向き、できればステレオ装置で聴きたい。でも、さすがに大音量で何度も繰り返し聴くのはしんどい。というわけで、いずれにしろ日常的に聴いて楽しむような音楽ではありません。ショスタコ7を聴いた後に、シューマンの「幻想小曲集Op.12」を聴くと、思わずほっとしてしまうのが正直なところです(^o^;)>poripori
演奏は、エリアフ・インバル指揮のウィーン交響楽団、1991年3月、ウィーンのコンツェルトハウスで収録されたPCM/デジタル録音です。制作は川口義晴、録音とミキシングは後藤博、技術はホルガー・ヴァバッハ等とクレジットされています。CDはDENONのCOCO-70656、クレスト1000シリーズ中の1枚です。
■エリアフ・インバル指揮ウィーン交響楽団
I=28'38" II=11'46" III=19'07" IV=16'37" total=76'08"
そのショスタコーヴィチの音楽の中でも、比較的昔からよく聴いていたのが、交響曲第7番「レニングラード」でした。題名の「レニングラード」といえば、燦然たる王宮と芸術の中心地ペテルブルグであり、ロシア革命の指導者レーニンの名を冠した、モスクワと対をなす古都である、というイメージでした。東の東京に対する西の京都、摩天楼のニューヨークに対する古都ボストン、というようなイメージです。
私にとって、彼の交響曲第7番と言えば、「ショスタコーヴィチのボレロ」の音楽を持つ大曲というイメージでした。世界史におけるレニングラード攻防戦の知識はあってもその実態までは知らず、ひの・まどか著『戦火のシンフォニー~レニングラード封鎖345日目の真実』という迫真のドキュメントを読むまでは、そんなスゴイ背景を持った音楽だとは思ってもいませんでした。
第1楽章:古典派交響曲ならほとんど1曲分に相当するような長い楽章です。堂々たる第1主題、穏やかで美しい第2主題は人々の平和な生活を表しているのだとか。ところが、そこから「ショスタコーヴィチのボレロ」を徹底的に反復するのですから、彼はまさにアジテーターの素質充分(^o^)/ 編成も大きければ響きも半端ではありません。とくに、転調して悲壮な雰囲気になってからは、まるで突撃決死隊です。思わず高揚してしまい、作曲者の術中にはまります。ただし、レハールの「メリー・ウィドウ」中の「マキシムへ行こう」の旋律みたいなのが繰り替えされるわけですから、「メリー・ウィドウ」をよく知っている人たちなら、「それでも僕はマキシムへ行くぞ。あそこは神聖な祖国を忘れさせてくれる」という趣旨の歌詞だったことを思い、アジテーターの本質(=自分は突撃せず他人を突撃させる)を発揮したと斜めに見ることもできるでしょう。
第2楽章:前楽章とともに、レニングラード脱出前に書かれていた音楽だそうです。こうした背景の中で書かれたとは思えない、意外なほどの軽やかさを持つ音楽ですが、なるほどと思うような懐旧的な優雅さと緊張感があります。
第3楽章:全曲中二番目に長い音楽です。廃墟の前に立つような空虚感が、しだいに諦めとは別なものに変化していくようです。
第4楽章:独ソ戦の最中に、戦火のレニングラードを逃れて、なんとか平穏さのある土地で書かれた曲ではあるにしても、逆に言えばソヴィエト政府の監視下での作曲活動だったのでしょう。でも、音楽はけっこう高揚感を持って書かれたと感じさせる、「勝利の音楽」のフィナーレです。
ロードノイズの多いカーステレオにはピアニシモの箇所が不向き、ミニコンポの小型スピーカで小音量で耳を傾けるにも不向き、できればステレオ装置で聴きたい。でも、さすがに大音量で何度も繰り返し聴くのはしんどい。というわけで、いずれにしろ日常的に聴いて楽しむような音楽ではありません。ショスタコ7を聴いた後に、シューマンの「幻想小曲集Op.12」を聴くと、思わずほっとしてしまうのが正直なところです(^o^;)>poripori
演奏は、エリアフ・インバル指揮のウィーン交響楽団、1991年3月、ウィーンのコンツェルトハウスで収録されたPCM/デジタル録音です。制作は川口義晴、録音とミキシングは後藤博、技術はホルガー・ヴァバッハ等とクレジットされています。CDはDENONのCOCO-70656、クレスト1000シリーズ中の1枚です。
■エリアフ・インバル指揮ウィーン交響楽団
I=28'38" II=11'46" III=19'07" IV=16'37" total=76'08"