電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

ウィリアムソン教授と密航留学生たちの関わりは薩摩藩にも

2014年08月18日 06時01分24秒 | 歴史技術科学
明治の日本に話題を移す前に、犬塚孝明著『密航留学生の明治維新』をもとに、ウィリアムソン教授と密航留学生たちの関わりの深さを、もう少し紹介しておきましょう。

長州藩からは、最初の五人の他にも、高杉晋作に鼓舞されて南貞助と山崎小三郎が渡英してきます。ところが高杉は、渡航費用だけは用意したものの、生活費のことを全く考慮していませんでした。山崎小三郎は、造船技術の実地研究のためグラスゴーに去った山尾庸三の後にクーパー邸になんとか入ることができたものの、朝夕の食事も衣服も、真冬のロンドンで暖をとることもままならない困窮生活におちいります。グラバー商会のハリソンの父親が見かねて月額25ポンドほどの金銭援助をしてくれたようですが、ついに肺結核にたおれてしまいます。このとき、ウィリアムソン教授夫妻は山崎小三郎を自邸に移し、エマ夫人が懇切に世話をしてくれたそうです。しかし、過労と栄養失調のため、病気はすでにかなり進行しておりました。ついに入院の事態となった山崎小三郎は、治療と看護の甲斐なく、三月初め頃に病死してしまいます。享年22歳でした。

当時の地元紙(The London and China Express)は、教育上の目的で来英していた日本人士官の客死を小さく報じ、「ユニヴァーシティ・カレッジのウィリアムソン教授および12名の日本人学生たちが出席して葬儀がとり行われた」(p.127)ことを伝えているとのことです。

山崎小三郎の死は、不謹慎な言い方ですが、アジテーターに煽動され活動家となった若者が犠牲となる構図にあてはまり、在英の野村弥吉からの知らせを伊藤俊輔が井上聞多に伝えた書簡にあるように、

山崎の病気畢竟衣食足らず、朝夕余りの困難を経、其上異郷言語等も通ぜず、かつは自国の事を煩悶して休まず、終に此病を醸すに至る、此以後は必ず外国へ人を出すなれば、先づ金等の事を弁じ、其上ならでは決て送りくれ申さず様との事に御座候。

というのは、全くその通りであると思います。

ところで、葬儀に出席した日本人留学生の人数が12名と報じられているのは、実は野村弥吉と南貞助の他に、薩摩藩からの留学生10名が含まれておりました。英国への密航留学生については薩摩藩からも組織的に派遣(*3)されており、金のない山尾庸三が、たまたまロンドンで薩摩藩の留学生と出会って、グラスゴー行きの旅費を借りて旅立っていたようです。東洋の野蛮人と人種差別を受けても不思議ではない英国社会にあって、留学生たちは薩摩だ長州だといがみ合うことの愚を痛感していたことでしょう。ジャーディン・マセソン商会やグラバー商会の斡旋に加えて、留学では先輩にあたる山尾が薩摩藩留学生たちにカレッジ生活を案内し、ウィリアムソン教授やヒュー・マセソン、画家のクーパーなどが支援する留学生サークルのような集まりを形成したのかもしれません。山尾がグラスゴーの造船所に去った後に、困窮の中で病死した一人の留学生仲間の葬儀は、国家の近代化という当面する課題を超えて、様々な人生上の疑問を生んだものと思われます。19名で渡英していた薩摩藩留学生たちはやがて分裂し、森有礼らは、留学生サークルに近づいた宗教家の示唆した、西欧文明社会の裏面をキリスト教に基づく宗教的共同体で乗り越えるという幻想に取り付かれてアメリカに渡ります。しかし、英国に残った者たちは、ウィリアムソン教授の分析化学からさらに進んで、数理物理学(野村弥吉)などの学習に取り組みます。

こうして、英国に渡った幕末の先覚者たちは、ウィリアムソン教授との関わりを支えにしながら、ロンドンからグラスゴー等へと地理的な広がりを見せていったと考えられます。山尾庸三は、グラスゴーの造船所で働きながら、工員のための教育を通じて後に日本の工学教育の祖となるダイアーと知り合っているようです。

次は、明治維新の激動の経過は一切省略し、お雇い外国人教師が日本に残したものを見ていきたいと思います。

(*1):日英関係の始まりに見る、ある英国人の無償の愛~ニュース・ダイジェスト,2010年5月 ~いささか美化しすぎの感もありますが、山崎小三郎らの墓と、すぐそばにウィリアムソン教授の墓があることが紹介されています。
(*2):総領事館ほっとライン第6回:ロンドンの墓地で先人の足跡をしのぶ~時事通信「世界週報」より ~日英関係にはもう少し古い関わりがあることを紹介しつつ、山崎小三郎ら客死した密航留学生を紹介しています。
(*3):長州ファイブと薩摩スチューデント~英国ニュースダイジェスト
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