電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

藤沢周平の転機~蒲生芳郎氏の追憶より

2007年07月23日 05時53分32秒 | -藤沢周平
藤沢周平の没後10年を記念した長期特集が、毎週木曜日の山形新聞夕刊に掲載されています。この記事はどれも興味深いもので、特に山形師範学校(現・山形大学)時代の同級生の蒲生芳郎氏による「藤沢周平~生涯の追憶」と題した連載記事は、毎回新鮮な視点をもたらしてくれるものです。

藤沢周平が、やがて乳飲み子を遺して死去することになる妻の病床で初期短編集を書き綴り、雑誌に掲載されていた事情は、作家魂などというものではなく、病妻の治療費や生活のためであったのだろう、ということは、先の記事にご紹介しました(*)。作家の師範学校時代の同級生であり、親しい交友が続いていた蒲生芳郎氏は、平成19年5月24日付け山形新聞夕刊に、全集に収録されている、作家の文壇登場前の転機を示す書簡等を紹介しつつ、そのように判断する事情を説明しています。

(1) 昭和38年10月の悦子夫人の死からほぼ半年後に書かれた友人宛の手紙の中で、「芸術のためでも、文学のためでもなく、それが暮らしの上にもたらす、ささやかなゆとりとしあわせの感情のためで、動機は極く卑俗で、深刻ならざるもの」としていること。
(2) 娯楽雑誌向けの小説執筆が打ち切られ、空白の期間を経て、昭和39年に「オール読物」新人賞への応募が始まったこと。

などです。

藤沢周平は、昭和46年4月、応募を始めてから8年目で「オール読物」新人賞を受賞します。生活のために雑誌の編集者の注文に応じて書くのではなく、時代小説という形式を借りて作者自身の「人の世の不公平に対する憤怒、妻の命を救えなかった無念」等をぶつけるように書く。したがって、この時期の作品はおのずと暗いものにならざるを得なかったのでしょう。

さらに蒲生氏は、7月19日付けの同紙夕刊に「転機の『用心棒日月抄』」「読む愉しみを提供する」と題した一文を寄せています。作家自身が「転機の作物」として挙げている『用心棒日月抄』は、ユーモアの要素を自覚的に採り入れたという、作家本人のコメントもあり、「明るさと救いのある」「読者に(読む愉しみを)提供する最も上質のエンターテインメント」であるとしています。この考え方には全く同感。また一方で、『橋ものがたり』でも「男女の愛は別離で終わ」り、武士は「死んで物語が終わる」のではなく、優しさによって救済されたり、非運に耐えしなやかに勁く生き抜く物語がすでに始まっていることにも注目しています。

暗い情念に染め上げられた初期作品群から、それとは「明らかに趣の違う、より多様な、より伸びやかな文学世界」への転機が、この昭和51年頃であるとするのです。この連載記事自体がたいへん興味深く、県外の読者にも読んでいただけるよう、時期を見て単行本としてまとめられることを期待したいと思います。

(*):「藤沢周平未刊行初期短編」執筆時期の秘密
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