2021年1月刊の岩波新書で、小関悠一郎著『上杉鷹山〜「富国安民」の政治』を読みました。上杉鷹山の本は興味をもってあれこれ読んでいますが、近世史を専門とする歴史家の立場からはどのように見えるのかが興味深いところです。
本書の構成は、次のとおりです。
本書では、「ダメ地元に名君到来」という立場は取りません。むしろ、若い藩主を名君として育てたものは何か、という点を解明しようとするもので、竹俣当綱や莅戸善政ら執政たちと多くの人々の努力を具体的に描いていきます。
竹俣当綱は、若い鷹山と共に、荻生徂徠の高弟であった太宰春台の著書『産語』を精読し、「富国安民」「尽地力説」などを掴み取ります。経済的困窮の極にあった藩財政の転換のために、取引停止された状態だった三谷家手代を米沢に招聘し、この『産語』を贈って地の利を尽くす殖産計画を提示し、一定の成果を得ます。領内各地に駐在し、農村行政にあたっていた郷村出役たちと殖産計画について協議し、青苧から漆に変更しています。このあたりは、藤沢周平が『漆の実のみのる国』で描こうとしたところでしょう。
莅戸善政は竹俣の六歳下で、鷹山の言行録『翔楚編』を執筆編集しています。これを書き写す形で各地に広がりますが、人は徳を備えるだけでなく積極的に顕示することが大事だと考えていたのでしょう。同様に、政治は人々にわかる形が望ましく、人口増加策として出産給付を行い、他からの移住を奨励し、次三男の土着策を進めます。このあたりは、ふつうの農民の暮らしを重視し、民利を確保するという点で、富国は民の利のため、すなわち安民のためという鷹山の思想を強く打ち出していることが注目されます。
また、藤沢周平『蝉しぐれ』の中で、牧文四郎の役職が郷村出役だったわけですが、この郷村出役の活動が興味深いものがあります。例えば、郷村出役・北村孫四郎は、村々の立て直しのために手引書『冬細工之弁』を書き、写本を三冊作って示達します。これは仮名書きで村役人にも読めるものでしたので、問題に応じ自分たちで取捨選択して対応することができました。さらに『北条郷農家寒造之弁』に改稿、村役人たちに酒を振るまいつつ趣旨を説き、養蚕を通じて収益を確保すること=金銭収益の必要性を重視しています。いたるところに桑を栽培して村をたてなおし、官民ともに潤う「富国」を実現しようとしたものです。また、力田者の表彰や子どもへの教訓書とするなど、富国と安民を同時に追求した莅戸善政と北村孫四郎との意思疎通が指摘されます。
◯
私が特に印象的だったのは、自ら執筆編集した手書き「本」の影響力です。自分でやってみるとわかりますが、コピーするのさえ大変なのに手書きで写本をするというのは実に大変な労力です。相当の意気込みと根気がないと実行できるものではありません。印刷文化がまだ普遍的でなかった時代に、手書き本の写本が驚くべき広がりを見せていたこと。文字、文章、本がもたらすもの、すなわち思想や熱気や倫理・在り方などが、かなり広範囲にしかも深く伝播していたことに驚かされます。上杉鷹山の名君たるところが後世に伝えられたのは、実にこの「伝えたいことがあるならば本を書け」という手書き本の文化によるところが大きいのかもしれません。
実は、米沢市の上杉博物館では、開館20周年特別展(*1)を開催、テーマが「上杉鷹山の生涯〜藩政改革と家臣団」ということです。とくに鷹山の個人的偉業としてとらえるのではなく、実務を担う家臣団との関わりに着目して展示するもののようで、4月17日(土)〜6月20日(日)まで。サクランボ収穫作業が始まる前に、これはぜひ観たい。新型コロナウィルス禍の現状を考え、混み合わない平日だろうなあ。
(*1):米沢市上杉博物館開館20周年特別展「上杉鷹山の生涯」〜「米沢日報デジタル」より
本書の構成は、次のとおりです。
序 章 上杉鷹山は何を問いかけているか
第一章 江戸時代のなかの米沢藩
1 開発・成長の時代
2 一八世紀の経済変動
第二章 「富国安民」をめざして
1 江戸時代の「富国」論
2 竹俣当綱と上杉鷹山
3 「富国安民」の理論
4 三谷三九郎と馬場次郎兵衛
5 殖産政策の展開――郷村出役と村々
第三章 明君像の形成と『翹楚篇』
1 明君録とはなにか
2 莅戸善政と上杉鷹山
3 莅戸善政の思想と『翹楚篇』の鷹山像
4 『翹楚篇』と寛政改革
第四章 「富国安民」の「風俗」改革
1 藩財政と民のくらし
2 莅戸政以の藩政構想
3 文化初年の民政の展開――北村孫四郎の奔走
第五章 「天下の富強の国」米沢
1 「富強」藩イメージの形成
2 高まる名声とその広がり
3 「富国強兵」を問い直す
本書では、「ダメ地元に名君到来」という立場は取りません。むしろ、若い藩主を名君として育てたものは何か、という点を解明しようとするもので、竹俣当綱や莅戸善政ら執政たちと多くの人々の努力を具体的に描いていきます。
竹俣当綱は、若い鷹山と共に、荻生徂徠の高弟であった太宰春台の著書『産語』を精読し、「富国安民」「尽地力説」などを掴み取ります。経済的困窮の極にあった藩財政の転換のために、取引停止された状態だった三谷家手代を米沢に招聘し、この『産語』を贈って地の利を尽くす殖産計画を提示し、一定の成果を得ます。領内各地に駐在し、農村行政にあたっていた郷村出役たちと殖産計画について協議し、青苧から漆に変更しています。このあたりは、藤沢周平が『漆の実のみのる国』で描こうとしたところでしょう。
莅戸善政は竹俣の六歳下で、鷹山の言行録『翔楚編』を執筆編集しています。これを書き写す形で各地に広がりますが、人は徳を備えるだけでなく積極的に顕示することが大事だと考えていたのでしょう。同様に、政治は人々にわかる形が望ましく、人口増加策として出産給付を行い、他からの移住を奨励し、次三男の土着策を進めます。このあたりは、ふつうの農民の暮らしを重視し、民利を確保するという点で、富国は民の利のため、すなわち安民のためという鷹山の思想を強く打ち出していることが注目されます。
また、藤沢周平『蝉しぐれ』の中で、牧文四郎の役職が郷村出役だったわけですが、この郷村出役の活動が興味深いものがあります。例えば、郷村出役・北村孫四郎は、村々の立て直しのために手引書『冬細工之弁』を書き、写本を三冊作って示達します。これは仮名書きで村役人にも読めるものでしたので、問題に応じ自分たちで取捨選択して対応することができました。さらに『北条郷農家寒造之弁』に改稿、村役人たちに酒を振るまいつつ趣旨を説き、養蚕を通じて収益を確保すること=金銭収益の必要性を重視しています。いたるところに桑を栽培して村をたてなおし、官民ともに潤う「富国」を実現しようとしたものです。また、力田者の表彰や子どもへの教訓書とするなど、富国と安民を同時に追求した莅戸善政と北村孫四郎との意思疎通が指摘されます。
◯
私が特に印象的だったのは、自ら執筆編集した手書き「本」の影響力です。自分でやってみるとわかりますが、コピーするのさえ大変なのに手書きで写本をするというのは実に大変な労力です。相当の意気込みと根気がないと実行できるものではありません。印刷文化がまだ普遍的でなかった時代に、手書き本の写本が驚くべき広がりを見せていたこと。文字、文章、本がもたらすもの、すなわち思想や熱気や倫理・在り方などが、かなり広範囲にしかも深く伝播していたことに驚かされます。上杉鷹山の名君たるところが後世に伝えられたのは、実にこの「伝えたいことがあるならば本を書け」という手書き本の文化によるところが大きいのかもしれません。
実は、米沢市の上杉博物館では、開館20周年特別展(*1)を開催、テーマが「上杉鷹山の生涯〜藩政改革と家臣団」ということです。とくに鷹山の個人的偉業としてとらえるのではなく、実務を担う家臣団との関わりに着目して展示するもののようで、4月17日(土)〜6月20日(日)まで。サクランボ収穫作業が始まる前に、これはぜひ観たい。新型コロナウィルス禍の現状を考え、混み合わない平日だろうなあ。
(*1):米沢市上杉博物館開館20周年特別展「上杉鷹山の生涯」〜「米沢日報デジタル」より
同時に、国宝『上杉本洛中洛外図屏風』原本が展示されています。織田信長が上杉謙信に贈ったとされ非常に状態のよいものとして評価されています。国宝展示は年60日までとの決め事があり、よって一年の6分の5はお蔵に仕舞って置くのですね。私、このお蔵を見たことありますが、二重扉で虫1匹入れられない、気温湿度など空調の管理も大変なものでした。屏風、一見の価値ありです。
どうぞご覧あれ!
>国宝『上杉本洛中洛外図屏風』原本が展示
それもまたグッドタイミング! ぜひ見てみたいものです。