電網郊外散歩道

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地元紙の連載「やまがた再発見」で3週連続「藤沢周平」を特集(1)

2019年09月11日 06時04分03秒 | -藤沢周平
地元紙「山形新聞」では、日曜日に「やまがた再発見」というシリーズを連載しています。いずれも山形県にゆかりの人を取り上げて、興味深いものですが、8月25日、9月1日、9月8日の三回は、藤沢周平の特集でした。執筆者は、鶴岡藤沢周平文学愛好会代表の萬年慶一氏。むしろ、教師・小菅留治の教え子の一人で、学級委員長のような立場だった人、という方がわかりやすいでしょうか。先の藤沢周平没後二十年特集「藤沢周平と教え子たち」でも取り上げられていましたが、むしろ紙幅を充分に与えられたときに、どんな思い出話が聞けるかに興味がわきます。


■令和元(2019)年8月25日付け、「充実した青年教師の日々」、「気配り、気遣いの人だった。教え子たち、古里をいつも思っていた。」
 記事は、小菅留治先生の生い立ち等に触れた後、山形師範学校を卒業後に湯田川中学校に赴任し、途中転任した担任の後釜として50人位の一年生の担任になった経緯を記します。1949(昭和24)年、由良の海浜学校で自信を付け、熱心に生徒の指導にあたります。英語の時間限定で一人ひとりに英語の名前をつけ、出席をとるあたりは、E.G.ヴァイニング『皇太子の窓』でも共通の、当時のやり方なのでしょう。週1〜2回のホームルームの時間、これも戦後教育の特徴でしょうが、この時間には読書に力を入れ、ヴィクトル・ユーゴーの『ああ無情』を読んでくれたことや、ヴェルレーヌの「落葉」、詩経より「凱風」など詩の朗読などが記憶に残るとのこと。また、戦後まもない時期、農繁期には就学前の弟や妹を学校に連れてくる生徒もおり、先生はよく面倒を見てくれたこと、学級図書を取り入れ、春はジャガイモをゆで、秋は芋煮会を開くなど、気配り、気遣いの人だった、とのこと。多感な中学生の、1951(昭和26)年までのわずか二年間の担任でした。

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