電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

藤沢周平『よろずや平四郎活人剣』(下)を読む

2007年02月01日 07時03分48秒 | -藤沢周平
文春文庫で、藤沢周平の『よろずや平四郎活人剣』の下巻を一気に読みました。

下巻の最初は、商家の若旦那のあほさ加減が際立つ「消えた娘」から始まりますが、平四郎の周囲の人間の中でも、とくに北見十蔵が苦労人で、いい男ですねぇ。詐欺漢・明石半太夫のデタラメさと好対照ですが、明石の細君のほうは明るくなかなか世話女房のようです。捨て子の赤ん坊を背負わされた平四郎も、まさか昔の許婚の早苗さんに見られるとは思わなかったでしょう。

この物語では、様々なタイプの夫婦の姿が描かれます。ユーモラスに描かれる逆転夫婦や破滅へと転落する夫婦の物語を笑い・見つめながら、嫉妬や疑いや倦怠に躓きつつ、日常生活の中で少しの憐憫や多くの信頼・愛情を大切にすることを、あらためて「そうだよなぁ」と頷かされます。

特に印象深いのは、何と言っても北見十蔵の秘密が明かされる「暁の決闘」の章。仙台藩の金蔵から借入金を盗んだ上司の野瀬金十郎による、故郷に残してきた美しい妻と幼い息子への迫害。無口で静かな北見の怒りが、悪辣ではあるが三徳流の使い手である野瀬を圧倒します。けれども、これで帰藩することも家族が一緒に生活することもかなわなくなったのですね。平四郎は手を握りしめて夫を見つめている北見十蔵の妻女に話しかけます。

「これから、どうなされます?」
「十年・・・・・・」
と妻女はつぶやいた。眼はまたたきもせず夫を見ている。
「あと十年経てば、保之助は元服を終わって嫁をもらいます。そうしたら、私はおひまをもらって北見のそばに参ります」
妻女は平四郎を見て笑おうとした。だが、その眼に不意におびただしい涙が溢れた。
北見が気合を発したとき、一度黙り込んだ鳥が、またにぎやかにさえずりはじめた。東の空に赤いいろがさして来たが、霧はまだ動いていた。

こんな幕切れは、映画監督ならずとも、実に名場面だと感じます。

子どもを育てる夫婦の十年。それは、平板な年月ではありません。子育てを終えて振り返るとき、北見十蔵の妻女の決心が、どれほど深い夫への愛情に基づいているか、よくわかります。それだけに、こういう場面を描いた作者の心情を思うと、普通の夫婦の日常の価値を、どれほど大切に思っていたかがよくわかります。

そして最終章「燃える落日」、金貸しの菱沼惣兵衛からようやく去り状を取り、早苗さんと結ばれることができた平四郎、悲しい曲折をものともせずに、ハッピーエンドとすることができました。未婚の女性をヒロインに想定することが多い時代小説の中で、不幸な既婚女性を主人公の相手役としたあたりも、藤沢周平の世界の特徴かもしれません。
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