10月下旬から洗濯物をベランダ干しにしても乾ききらなくなったので、脱衣場の突っ張り棒に干して除湿乾燥機で乾かしている。干せる量に限りがあるから洗濯物は土日で分けてやることになる。もうちょっと寒くなったら、発熱素材の長袖、長パンツのアンダーを着るようになるから、洗濯にも手間がかかる。この週末はまだ発熱素材は着ていないが、来週はどうだろう。
ランチは南行徳マルエツ並びのLaniへ行く。
前回、来たときは、カレーは牛すじとジャガイモのカレーだけになっていたが、今日、表のメニューを見るとグリーンカレーが復活していた。タイ料理のカレーだと、やはりグリーンカレーを食べたい。
そして、グリーンカレーのランチを注文。
カレーとライス以外にサラダとスープ、デザートも付く。さらに、食後にはホットコーヒーも出る。この店ではいつもは日本米だが、今日はタイ米が入ったということで、タイ米のライス。やはり、タイカレーはタイ米とのほうが相性がいいようだ。
午後は映画を見に行く。妙典でもよいが、気分を変えて今日は木場の深川ギャザリアにある109シネマズへ。
建物の前のクリスマスツリー。
見た作品は「かぐや姫の物語」。
アニメとしても描写が斬新であることが話題になっているが、これまでいろいろな宣伝で見てきたので、特別なものは感じなかった。
むしろ、いく通りの解釈もできるであろう内容に難しさを感じた。それは作り手が原作の竹取物語をどう解釈したのかというのと違うことかもしれない。
かぐや姫が竹の中から生まれ、そして育った山里は生命があふれる世界として描かれ、都へ移り住んでからのかぐや姫が山里を生きている実感が得られる場所と懐かしむ描写が出てくる。ここだけ見ると、文明(=都)否定・自然礼賛をしているだけの薄っぺらな作品に思えてくる。そういう危うさをもはらんでいる。
でも、これまで高い評価を得た作品をいくつも手がけた高畑勲という監督が、そんな薄っぺらな作品を作るだろうかという疑問も当然湧いてくる。
原作が山里の自然礼賛をする物語なら、月から地上にかぐや姫を遣わしたものたちが竹取の翁に、都に大きな屋敷を構えることができるほどの黄金や、かぐや姫を美しく装わせるための大量の反物を与えたのはなぜかということもまた、疑問に思えてくる。
映画のキャッチコピーが「姫の犯した罪と罰。」だが、その罪とは悩みも何もない月の世界に住みながら、地上の世界へのあこがれを押さえきれなかったことで、罰がその地上へ送られそこで生きることだと語られた。
かぐや姫が地上にあこがれをもったのは、彼女以前に地上に行って戻ってきた月の世界の人物が、地上での記憶を消されながら、生命あふれる世界を歌った歌だけを忘れずに歌い続け、それを聞いたため。生命あふれる世界とは、動物的な感覚で生きていく世界で、そこでは肉体で感じる生きがいが最も強くある世界。そして、月の世界では禁断の地と呼ばれている。
月の世界の住人たちが、かぐや姫が都という文明世界へ住むように誘導し、生命にあふれ、動物的な生きがいを感じる世界だけが、人間たちの住む世界でないことを分からせようとしたとも解釈ができる。その文明世界は、人間たちの醜悪な部分が次々と現れ、そこにうんざりしたかぐや姫が生まれ育った山里こそが生きている実感を得られる世界だと強い郷愁を感じるようになる。だが、そこへ戻ることは許されず、月の世界に引き戻される。
月の世界からかぐや姫を迎えに、雲に乗ってきた一団は、中に仏像のような人物がいたりして、
「これは西遊記の天竺か!?」
と思わせた。天竺というなら、そこは一種、理想の世界だ。
月の世界は、一切の悩みも苦しみもない世界だと描かれているが、竹取物語の原作ができた時代の人間たちはどんなイメージを描いていたのかと思えてくる。文明が発達しつくした理想の世界なのかもしれない。そうなると、都という人間の文明もなんと中途半端なものか。
この映画を見終わったあと、内容を振り返っていると、これまで自分が見てきた、主にSFものだが、いろいろな作品との共通項が頭に浮かぶ。
文明の世界を嫌い、安易に自然礼賛に走ることを諫めるような部分は、「スタートレック・ディープスペースナイン」の"PARADISE"(邦題:自然回帰)というエピソード。文明に背を向け、未開の星の自然の中で生きている一群の人間が、実はカルト集団のようになっていたという話。
月の世界の住人たちが、究極の進化を遂げた生命体とすれば、SFに出てきた似たような生命体をいろいろと思い出す。
「2001年宇宙の旅」の映画版よりも、アーサー・C・クラークのノベライズ版で詳しく説明されている、ブラックモノリスを作り、猿の状態の人類を進化させ、最後にはディビット・ボウマンをスターチャイルドに変貌させたものたち。彼らは、肉体を離れ、エネルギーだけの生命体になったと書かれている。
同じく、アーサー・C・クラークの小説「幼年期の終わり」。これは学生の頃に読んだ。そこにも、人類をさらなる進化に導こうとする、はるかに進化を遂げた生命体の存在が描かれている。
「スタートレック」のシリーズだと、1960年代の最初のシリーズに登場する、メトロンやオルガニア人。1987年以降に作られた24世紀舞台のシリーズだと神のごとき全能の力を持つQ。
「スタートレック・ザ・ネクストジェネレーション」では、Qの一人がQの集団(Q連続体)の規範に反したため、罰として力を奪われ、人間と同じ状態でエンタープライズで生きることを強制されるというエピソードがあった。
「スタートレック・ボイジャー」では、Qの世界の実際まで踏み込んで描いたエピソードもあって、Qたちは全能の力を持ったが、そのため、やることがなくなって退屈しきっていると描かれた。「竹取物語」での月の世界の住人たちは、悩みの苦しみもない状態で、ふだん何をしているのかということが、頭に浮かんできた。
同じく、「ボイジャー」では退屈のあまり自殺願望を持ってしまったQが登場し、罰として水晶のような宇宙の牢獄に閉じ込められているという話もあった。
こういうふうに、いろんな作品が頭に浮かんでいくと、今の時代にはSFで、人間をはるかに超えた進化を遂げた生命体と人間を対比して、人間というものの存在をより強調して描くのと同じことを、過去の時代の人間たちは、「竹取物語」のおとぎ話的な世界で描いてきたのではないかと思えてくる。
今回の「かぐや姫の物語」は、作り手の原作に対する解釈だけでなく、実際に見たほうにも迷わせたり、いろんなことを考えされたりする作品だ。
映画を見終わって午後6時過ぎ。深川ギャザリア建物前のクリスマスツリーは明かりが点っていた。
電車で行徳まで乗って、今日はみなとやへ。
最初な生ビールのジョッキ。
居酒屋グルメでつまみを食べ過ぎないように注意して、お通しもゆっくりと食べる。鶏と青菜と揚げの煮物はけっこうボリュームがあって、時間をかけてゆっくりと食べる。
そして、最初のつまみはとりわさ。
ビールが終わったら、芋焼酎の三岳をロックで。みなとやのつまみはどれもボリュームがあるので、次はもう締めの食事にして、自家製トマトのスパゲティ。
焼酎はもう一杯、こちらも芋の富乃宝山をロックで。
ところが、飲むのもゆっくりペースでやっているつもりが、スパゲティよりも先に2杯目の焼酎がなくなってしまい、緑茶ハイを注文。
結局、つまみは減らしたものの、酒類はこれまでと同様、4杯になってしまった。今以上にゆっくりと飲むことをやらなくてはいけない。尿酸値が上昇しないように。
それで、今日、みなとやへ来たのは、先週のオール市川バルズのとき、どんなようすだったか興味があったから。みなとやは去年の12月開店だから、バルへは今年初めての参加。
今日はにぎわってマスターは調理にかかりっきりだったから、途中でバイトの女の子の手が空いたときに聞いてみる。木・金・土の3日間だったが、木曜はバルのお客さんは1人だけだったということ。だけど、金曜と土曜でチケット数にして50枚になったそうだ。金曜と土曜で単純に割って1日25枚。多すぎず、そこそこのお客さんが入ったということだろう。家族連れの人がけっこう多かったということだ。