日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「黴が生える」。「エノコログサ」。「野良猫に餌をやらない」。「『思想』について」。

2010-07-06 07:27:10 | 日本語の授業
 相変わらず、水に浸されています。それでも、学校に着いた時には、(水の中にいるのにと考えてみればおかしいことなのですが)汗が噴き出してきます。このままの毎日があと一週間でも続くと、ふやけてふにゃふにゃになってしまいそうです。

 子供の頃、こういう時期に、家の中でゴロゴロしていますと、「黴が生える」と言われて、(家の中から)追い出されたものでしたが、最近の子供達はどうなのでしょう。

 「(ゲームやチャットに夢中になり、家から出ようとせず)黴を生やして」しまった子供が大勢いるのでしょうか。それとも、電化が進んだ昨今、(除湿器も普及していますから)黴などというものさえ、希少価値が出てき、「黴を生やす」という言葉自体、忌まわしいものではなくなっているのでしょうか。

 今朝、ふと気がつくと、空き地の駐車場の隅っこに、「エノコログサ」が盛んな生命力を見せていました。これを、もし、「雑草」というならば、「はびこっている」となるのでしょうが、「エノコログサ」には、猫と遊んだ特別な思い入れがあり、簡単に「雑草」と呼び捨てるわけにはいかないのです。

 子供の頃、(母の友人の元から)もらわれて来た子猫が育ち、その後、その五代目の子孫まで、私のよき遊び友達でした。そして、最後の猫が母の身代わりのように死んでから、我が家から、猫の秘やかな足音も柔らかな姿も鳴き声も絶えてしまいました。

 (私は)今は、他郷に住んでいますから、簡単に猫を飼うわけにはいきません。それに、(地域の申し合わせで)学校の近辺を徘徊している猫にえさをやることも、一緒に遊ぶことも、頭を撫でてやることも出来ません。

 というわけで、遠くから、見たり、微笑みかけたり、話しかけたりすることが出来るだけです。

 それでも、(学校の)課外活動で、遠出した時には、猫と触れ合うことができます。飼い主(猫に責任を持てる人)がそばにいれば、彼らの目の届く範囲で、触ることも自由ですし、それに、お寺や神社に住んでいる猫は、神様や仏様の足元で生を育んでいるわけで、殺傷を厭う神仏が、猫の命を尊ばないわけがありません。だから、この時も、精一杯かわいがります。

 道で出会う、各地の貓好き達は、猫をめかし込ませ、道行く人に、「かわいい」とか、「きれい」とか、褒めてもらいたいわけですから、褒め言葉をかけた後で、おおっぴらに撫でさせてもらったり、抱かせてもらったりしてもいいのです。

 他の国では、日本ほど「野良猫にえさをやること」について、様々な意見があるわけではなく、これが「ワニ(鰐)」とか、「カミツキガメ(噛みつき亀)」とか、「ピラニア」などであれば、話は別でしょうけれど、せいぜいが「ところ嫌わず、排泄物を出す」とか「鳴き声がうるさくて眠れない」くらいのものですから、猫にえさをやることがどうしてこのように、時には新聞紙上を賑わしたり、殺人事件にまで発展したりするのか判らないようです。

 特に、日本語学校に子供を留学させることが出来るほどの(途上国の)家庭は、(彼らの国では、中流階級ですから)、普通、大きな庭付きの家に住んでいます。そういうところに住んでいる学生達から見れば(そういうところに猫が一匹か二匹潜んでいたって、誰も気がつきません)、どうして「大きな害を及ぼすことのない猫に対して、このような仕打ちをするのか」と不思議に思うだけなのです。

 彼らの国は日本よりも小さくとも、人も少ないのです(だから、土地はあります。しかも、貧しい人は、とんでもない所に追いやられていますから、少々豊かであると言うだけで、日本から見れば億万長者しか住めないような大きなお屋敷に住めます)。一方、日本は狭い国土しかないくせに、大都会に人口が集中していますから、勢い、アパートとかマンションとかに住まざるを得ないのです(普通の収入の人でです)。

 そこで、懸命に「住環境」をよくしようとしても、お隣の「ニャン」や「ワン」という声は聞こえてきます。道も狭いので、犬を散歩させようにも、リールが少々長ければ、犬嫌いの人のところにまで届いてしまいます。

 小動物が住みにくい環境というのは、本来ならば人間にとっても住みにくいわけで、そういう環境を「思想」を以て、住みやすいものに変えていくことこそが、本来、政治家の仕事でありましょうに、どうも、政治家から「思想」が失われて久しく、今では「住みにくいこと」、即ち「都市生活者」のような具合に、住みにくいところに我慢して住むことこそが、「現代都市に生きることの証」ともなっています。

 思えば、様々な分野、職業、生活から、「思想」が失われて久しい、かなりの時が経っているような気がします。もしかしたら、私たちの世代は「思想」の無い所で育ってしまい、「思想」に対してある種の「憧れ」を持っているのではないかとも思ってしまいます。しかしながら、言葉を換えて言えば、「理想」あるいは「生活信条」とも言えるもので、これがなければ、何事も、どのような仕事も、やれないというのが本当の姿のはずなのですが。

 私にしても、一時期、中国にいましたから、その時、自分の頭の中に描いていた「思想」という概念と、中国人の頭の中にあったかにみえた「思想」とが、意味合いのみならず、概念の持つ意味からして、かなり隔たったものであるということに気がつきました。

 中国では何事にしても、重んじられるのは「現世」であり、ある意味では「処世」なのです。およそ「思想」や「哲学」とは縁の無いことが、「思想」という名の下に、行われている…ような気がして、しばらくは(彼の地で)「思想」とか「哲学」などという言葉を聞くことさえも嫌でした。嫌悪したと言った方がいいのかもしれません。

 私にとって、「思想」とは、「夢」であり、「(自分の損得から離れた)信条」であり、古代ギリシアの哲学者達が「人とは何か」と問い詰め、それぞれの立場からのそれなりの「答え」を導き出したり、果ては「答えはない」という結論を得たりした、あれだったのです。

 現世の利益とも、処世とも全く関係ないところから出ているが故に、様々な葛藤や矛盾が生じ、それでも「信条」や、各自の裡なる「夢」のために、妥協できぬという類のものであったのです。

 漢字が同じだけに、その語の「概念」を共有していると見てしまうことの恐ろしさや愚かさは、議論の末にいたる結末を見れば、虚しさへと変わっていきます。それは「不毛」の議論であり、「不毛」の主張でしかないものでした。同じ漢字の国の住人でありながら、文字の定義づけをしてから、話さねばならぬと、たとえ、それが友人との雑談であろうと、そうせねば、互いにしこりを残すと、それが判ったのも、こう言うことがきっかけでした。

まして、今は、同時に多くの国から来た人たちと遣り取りをしなければならないのですから、考えなければならないことは、尽きません。

日々是好日
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