日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『雪』のイメージ」。「『白一色』の、薄明の世界で、『色彩』に恋する」。

2010-02-17 07:59:03 | 日本語の授業
 今年の2月は、例年に比して「雪」が多いそうですが、学生達が心待ちにしていた「共に見て、喜び、楽しめる雪」ではありませんでした。

 一番望ましい「雪の日」というのは、まず、みんながいる授業中に降り始めること。それも、牡丹雪のように少々大きめで、フンワリと降るのがいい。それから、更に欲を言えば、少しでもいいから路上に積もってもらいたいのです。

 もしかして、この2月に降った雪を見て、南国から来た学生達は「雪とは斯くなるものか」と誤解してしまったのかもしれません。「雪が見られる国、ニッポン」と、それを期待して来た学生もいるようですから。

 ところが、今年は「雪」が降ったとはいえ、第一回目は、横殴りの雨と「雪」が混じり合ったような、かなり強烈な「霙」でしたもの。傘を、風の吹く方向へ傾けてさしていると、バシッバシッと、当たるのです。だいたい、「雪」というイメージから、あんな「氷」をぶち当てたような音は出てきません。北国の「地吹雪」なら、おそらくは、囂々と地鳴りを立てて迫ってくるでしょうし(これは想像です)。

 しかも、少し経つと、傘が重くなるのです。それで、傘を上下させて払うのですが、落ちてくるのは、「氷」、「氷」、「氷」…、「かき氷」のような「氷」です。軽やかな「雪」のイメージからは、想像できないような世界です。

 勿論、シャーベット状ではあれ、翌朝は、白い色も見えましたし、積もりもしました。ただ、その上を歩いても、シャリシャリと軋むような音がするだけなのです。見渡しても、白一色の、心が洗われるような清々しい光景は広がってはいませんでした。。

 それからも、降ったのは、雨か雪か判らないような、あるいは、もうすぐ雪になるかもしれないといったようなものばかりでしたから、北国から来た学生なら判断はつくでしょうが(これは、「いわゆる『雪』ではない、『霙』である」と)、南国の学生達には、何が何やら、さっぱりわからなかったでしょう。時々、判断がつきかねるように、「先生、あれが『雪』ですか」と聞きに来るのです。

 「雨」ではないということがわかっても、「霙」「霰」「雹」と、なかなか「雪」とは見えぬものもありますし。また同じ雪でも、「牡丹雪」「淡雪」「粉雪」「べた雪」など、その降り方や大きさ、また時期が違えば名前も違ってきますし。ただ、白くて、ふわふわ感がある、優しいものを、「雪のイメージ」として、学生達には留めておいて欲しかったのです。北国の出身ではない私にとっての「雪」が、そうでしたから。

 私も日本では南方の出身です。ただし、子供の時には「氷柱」も見たことがありますし、「霜柱」を踏んで学校へ行ったこともあります。早朝、水たまりが「氷」に覆われ、それを片端から潰し回ったこともあります。

 「白銀の世界」とまでは言えずとも、それに近い光景を見た覚えはあります。「霜」が降った翌朝の大地は、陽を浴びて、銀色に輝き、幻想的なものでした。

 今から思えば、何十年か前まで、九州でも「雪」は積もり、小型ではあれ、「雪だるま」も作れました。「雪合戦」をしたこともあります。それが、今では、東京近辺でも出来ないのです。「霙」程度のものでは、「雪」のイメージは膨らんでいきません。試験の時に「雪」が出題されても、イメージがなければ、解きようがないのです。

 学生の時、「雪は青いのです」とか、「雪は上から降るのではなく、下から吹雪くのです」などと、私たちから見れば、コペルニクス的な発想に思われるような話をする北国出身の先生がいらっしゃいました。先生の話の意味は、知識には「教えられるもの」と「教えられないもの」があるということでしたが(少なくとも、私は「雪」を知っています)。

 北極圏に住む人達の「色の感覚」は、それほど優れていないだろうと思っていたのに、それが違っていたということも、驚きの一つでした。「白」を表現する言葉が非常に多いというのです。私たちにとっては、「赤」「黄」「黒」「青」とか、大ざっぱに色を分けるのが普通であるのに、彼らはそうではないというのです。私たちから見れば同じ「白」でも、彼らにとっては、違うというのです。

 これは、ある国や地方から来た学生が「ナ行」と「ラ行」の区別がつきにくいというのと同じです。私から見れば「同じ白」にしか見えぬのに、彼らから見れば「違う白」なのです。しかも、それを表現できるのです。これを聞いた時には、なんという豊かな文化が北の大地に拡がっているのだろうと眼も眩むような思いがしました。「不毛の大地」だと思っていた処が、実は、「豊饒な広がりを持つ大地」だったのです。

 日本の童話作家、小川未明も北国の出身。豪雪で有名な新潟で生まれたと聞きました。彼の童話「赤い蝋燭と人魚」ほど、想いのこもった鮮やかな「赤」はないでしょう。北国の作家は「『色』に飢えている。『色』に恋している」と言われるのも、むべなるかな。

 暖かいところでは、冬でも、様々な色に溢れています。それが北国では、白一色になるのですから。彼らは私たちが気づけないような、わずかな、しかも、微妙な色の違いに心を留め、それを表現していける術をもっているのでしょう。そして、その無彩色の世界に、わずかな一色を、強烈なイメージで灯すのです。それが、あるときは「哀しみ」を表し、あるときは「憤り」を表し、またある時には「喜び」に転じるのも、「春を待つ切なる心」と思えば、当然のことなのかもしれません。

日々是好日
コメント
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