日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『春遠からじ』といへど」。「『節分』のあした」。

2010-02-04 08:52:43 | 日本語の授業
 今朝も寒さが続いています。ひと頃消えていた窓ガラスの水滴が、目覚めてみると、まべったりとつくようになっていました。冬は、寒いのが当たり前であり、またそうでなければならないとはいうもの、校までさむいと、思わず「おおさむ、こさむ、山から小僧が泣いてきた なんといって泣いてきた さむいといって泣いてきた」とでも呟きたくなってしまいます。なんと言っても、ちょっと暖かくなったので、身体が「春だ、春だ」と勘違いしてしまったのです。

 学校の沈丁花のつぼみも、まだあのままです。近くの小学校の柳の芽吹きも、止まってしまったかのようです。とは言いながら、あの沈丁花のつぼみが膨らみ、柳の芽吹きがまた進み始める頃、きっと杉花粉が飛んでくるのでしょうね。今年は千葉県内では半分ほど、他の地域でも例年より少なめという予報が出ていたと聞いたのですが、それでどうにかなるというわけでもなく、そろそろまた病院に通うことになるのです。

さて、昨日は「豆撒き」をしました。今日からは「春」ということで、昨日、「厄落とし」をしたという次第です。

 昨日はちょうど、「日本語能力試験」の成績が届きました。開けてみて、がっかりしている人、また合格している人も、がっかりしている人がいると、大喜びをしてみせることができないとみえて、遠慮がちに喜んでいる人など、まあ、悲喜こもごもと行った様子でありました。が、「良いことも悪いことも、この一年の出来事で思い煩うのは、これで終わり。悪いことは、今日の「豆撒き」で出ていってもらおう。追いだしてしまおう」とばかりに、皆「鬼は外。福は内」と合唱しながら、豆を蒔いたのです。…のはずだったのですが、特に「午後のクラス」、彼らの声を聞いていると、「鬼は外、鬼は外」で、「鬼は外」ばかり、「福」は一体どこへ行ったのだ。「福は…」がないのです。

 皆、「鬼さん」役の学生目指して、豆をぶっつけてやろうと、そのことのみに集中して、「福」さんのことは、どっかへ追いやられてしまったのでしょう。終わった後、「皆さん、家では、『福は内』を忘れないように」と言っておきましたが、ちゃんとやってくれたでしょうか。

 「午後のクラス」にひきかえ、「午前のクラス」は、また違います。午後は「二クラス」とも中級でしたから、説明もDVDも同じものを見せることが出来ましたけれども、午前は「初級」と「一級後クラス」の二つでしたから、DVD係の私は大わらわです。上のクラスは、最初の40分ほどを、日本人並みの「説明」と上級のDVDとに費やし、それが終わると直ぐに、「巻き寿司」作りの講習会が始まります。

 材料も何もかも、一昨日、学生達が買いに行ってきました。それに揃えたり、並べたりも教師の指示のもとで、学生達が皆してくれます。私はカメラマン役でしたので、「作っている様子」やら、「できあがってにっこり笑っている作者と作品を写す」やらと、慣れないこともあり、右往左往していました。最初の作品は、写す前に、早速ほおばってしまう輩までいて、シッチャカメッチャカ。それでもとにかく、皆ができあがってから、一緒に試食会です。お皿にきれいに並べ、お茶を入れて、その前にニコニコと座り、はいポーズで、「食べ方はじめ」です。

 最初は指導している先生の「あ~あ」というため息やら半分叫びやらが聞こえていましたが、二度目、三度目ともなると、技術もどんどん向上していったと見えて、もうこれなら「初級クラス」でも、「中級クラス」の学生でも、食べてくれるであろうと言うところまで、進化したようです。指導した先生によると、「巻き寿司」よりも、その後の余技のはずであった「三角形のおにぎり」の方に歓声が上がったとか。やってみるまでは何に喜ぶのやら、全く判りません。「初級」、「中級」の学生達は、「おいしい、おいしい」と食べてくれたようでしたが。

 この「巻き寿司作り」の時のことです。皆で食べていると、一人がスリランカの学生に聞きました。「お寿司、大丈夫?」。彼女は答えました「この黒い紙は、最初はだめだったけれど、今は大丈夫」。一瞬の沈黙の後に、みんな大爆笑です。「『黒い紙』たぁ、なんのこったぁ。そいつぁ、「海苔」のこったよ」。なるほど、言われてみれば、紙に…見えないこともない。けれども、いくら何でも、紙は、普通食材とはしませんよ。

 「節分」行事は、予定通り。非常にスムーズに進みました。雑談もほとんど無く、こちらの指示通りにしてくれました。事後の掃除もそうです。撒いた後、「踏まないようにして豆を拾い、ゴミ箱に入れる」まで、非常にうまくできていたのです。大人なんですからね、「出来て当然と言えば当然」なのですが、それが、今まではそうでもなかったのです。「男はそんなことはしない」とか、「めんどうな」とか、そんなつまらないことで、最後に(双方とも)嫌な思いをしてしまうということになりがちでした。そうなると、こちらもわざわざそんな面倒なことをしてやるかという気にもなってしまいます。

 けれど、それでも、例年続けてきたかいがありました。実際にやり続けてくれた教職員の根気の良さには頭が下がります。今回は、あまりにスマートにできあがったので、少々気抜けしてしまったくらいでしたから。

 けれども、これが、いわゆる「レベル」というものなのでしょう。「日本語のレベルが高い」年度は、「モラルのレベルも高い」ものようです。相手がまじめで、熱心であると、それだけ、こちらもノッテ教えていますから、そうなるのでしょうが。

日々是好日
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「『節分』の準備」。「子供の心に戻った後で…少々うるさい…」。

2010-02-03 08:38:33 | 日本語の授業
 今朝は久しぶりに、「寒い!」。そう思いながら、学校へ来たのですが、職員室の中は11度…でありました。体感温度とは、随分違います。まあ、一応、温度計ですから、そっちの方が信頼性があるはずですけれど…とはいえ、やはり、寒いのです。雪の朝とは違います(昨日はそれほど寒くはなかった)。どうも、翌日の方が冷えるというのは本当のようです。

 さて、今日は「節分」です。例年の如く、「節分」の行事をします。クラスは四つありますが、レベルは大きく、「初級クラス」、「中級クラス」、「一級合格後半年クラス」というふうに、三つに分けられますので、そういう案を練っておきます。一番上のクラスは、DVDを見た後は「巻き寿司」作りに挑戦です。

 昨日は、上のクラスの学生が、買い物に行きました。のりやら、酢やら、きっとあれやこれやとおしゃべりしながら選んだのでしょう。自分たちが食べる分ですからね。頑張って下さい。

 例年、芸術的な海苔巻きができあがります。具は、自分の好きなのだけ入れてあるわけですから、失敗しても、自己責任ということになります。

 しかしながら、時々不埒な奴が出てくるのです。まずかったら「先生、プレゼント」とほざきながら持ってくるのです。そして、私は逃げ回るということになります。作った人間が食べられないのに、それを人様に食べさせようとするなんて…と言っても、このときには道理は通りません。まあ、例年、こうですから、慣れていますけど、教員全員が…。

 というわけで、「初級」、「中級」、両クラスとも、来年の卒業時まで在籍していれば、自分で巻き寿司を作ることが出来るわけですから、まだ日本語が下手なうちは我慢してもらいます。で、この両クラスには、それぞれ、レベルに合わせたDVDを見せて、説明をし、「豆まき」をしてもらいます。勿論、上のクラスもこれに加わります。

 しかし、今日がこんなに寒いと「オニ(鬼)さん」役の学生は可哀想ですね。窓を開けてそこから顔を外へ覗かせるくらいにしておきましょうか。それとも、心を鬼にして、「さあ、お外へ」とやってみましょうか。こちらの手加減一つで、「オニ」さん役になりそうな顔ぶれが変わってきます。そういえば、今日の天気予報の絵も、「オニサンが震えているの図」になっていましたっけ。

 昨日は、一人大学入試の発表がありました。1時に発表でしたので、お昼ご飯を食べにうちへ帰った時に調べてくるものだとばかり思っていました。ところが、学校に戻ってきた時に、わざわざ「先生、知りたい?」と近寄ってくるのです。「あれ?試験、どうだった?」と聞くと、「まだ見ていない」と言うのです。そして、「見て、見て」と、私に調べさせるのです。普段は「先生。何にも出来な~い先生」と、私の機械音痴を馬鹿にしているくせに。

 とはいえ、それなりに緊張していたようです。真剣な表情で「先生、○○大学のホームページを開いて…」と言います。思わず、(不謹慎であることは重々承知していましたが)からかいたくなってしまいました。番号は…で、調べていくと…、「合格」でした。本人もホッとしたのでしょう。自習室に行き、次の受験に備えます。東京近辺の国立大学には、中国の大卒者の希望が多いので、彼女たちのような高卒者には少々敷居が高いのです。けれども、受けたいという「その志やよし」ですからね。頑張ってもらいましょう。これからは「論文」の練習です。つまり、専門に関する「文献」を出来るだけ読んでもらうのです。

 前にも書いたことがありますが、中国ではまず大学へ入ることが大切というわけで、往々にして、何を学ぶがなおざりにされてしまっている…ような気がします。本当は大学の名称よりも、「何を学ぶか」が大切であるのでしょうに。だいたい、嫌いなことの勉強に、20歳前後の貴重な時間を、4年間も費やせるでしょうか。人は弱いものですから、そういうことを続けれられるような体力も気力も、本来備わっていないはず。そういう行為ができるのは、自己防衛で「心を鎖す」ことができるからです。つまり、嫌な現実を見るのをやめるのです。

 ただ、これは習慣になります。心を躍らせる「機能」を失うのです。よく「何をしても同じ」という人がいますが、これも、そういう習慣の一つの表れでしょう。表面的には非常に無気力に見えます。その皮を一枚一枚捲って、その心を現実と向き合わせていくのは至難の業です。そこにある自分と向き合わせ、「何が好きなのか、何をしたいのか、何をしている時が一番幸せなのか」という、本当に子供のような心にもどるのは。

 勿論、そういうことが全く必要ない人もいます。彼らは資質的にも優れているのでしょうが、まず、やりたいことがはっきりしているのです。そうして、そういうことに没頭できるのです。この差は大きい。夢中になれるというのも、能力です。どういうやり方をすれば、望みが叶うのかを見極められるのも能力です。運だけでどうのこうのというのは、弱者の遠吠えに過ぎないと思います。

 さて、「私はこれが好き」、「私は嫌い」と直ぐに騒ぎ出す人たちがそろそろ来る頃です。こうなってしまうと、なったらなったで、またうるさいものですが…。

日々是好日
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「『雨』、のち『みぞれ」、のち『雪』。そして今日は『晴れ』」。「『卒業』まで、あと一ヶ月あまり」。

2010-02-02 08:37:17 | 日本語の授業
 昨日のお昼過ぎから降り始めた「雨」は、いつの間にか「みぞれ」となり、「雪」となりして、降り積もっていました。「降り積もる」などと言いますと、北国の方から「なあんメートル?」と、からかわれてしまいそうですが、それでも、積もったのは何年ぶりでしょう。それがたとえ、一㌢に満たなくとも、雪は雪であり、積もったのは事実なのですから。

 ただ、朝にはもうシャーベット状で、その上を歩くとシャリシャリという音がします。おもしろがって、積もっているところを選びながら歩いてきたのですが、普通にへっぴり腰で歩いてもつまらないので、一人ペンギンサン歩きで歩いてみました。両手を三十度ほど開くのです。そして、歩くたびに両手をピョコピョッコさせてバランスを取るのです。脚は小股です。ヨチヨチ歩きと言った方がよろしいでしょう。ただ、交通機関の万一を思ってか、いつもに比して、人が多いのが気になりましたが。

 まあ、そんなわけで、大通りに出てからは、少々遠慮がちにし、ただ、赤信号の時には、周りの跡のついていない雪の上をグシャグシャと踏んで憂さ晴らしをしてやりましたけれど。

 月はしらじらと冴え返っています。昨日、泣くだけ泣いたから今日はもうスッキリしたのでしょう。月を見やっているうちに、そんな私の後ろからスタスタスタという足音が聞こえてくるではありませんか。ジャリジャリでもなく、シャキシャキでもないのです。私を追い越した時に見てみると、彼は歩道ならぬ車道を歩いていたのです。こういう時ですから、車もスピードを出してはいませんし、轍の跡は乾き切っていますから、普段通りの歩き方が出来たのでしょう。

 雪が降った明くる朝は、日が出ていなくとも明るいのです。まあ、猫がお外に出ていなくとも良しとしましょう。脚が濡れるのが嫌なのかもしれません。もうあちこちでシャーベット状から水状になっていましたから。

 とは言いましても、南から来た学生に、軽やかに降る雪を見せてやりたかったですね。もう今年はチャンスがないでしょう。昨日の雪は、みぞれで、しかも横殴りの風に吹かれて、バッシバッシと傘に当たっていましたもの。一言で言えば、「あれは雪ではありません」ですから。私だって帰る時に、三度ほど、傘を振って上に積もった雪ならぬ氷を落としましたもの。あれはもう氷状態でした。

 さて、そうしているうちに、今日大学の方へ願書を持っていく学生がやって来ました。雪でダイヤが乱れることを心配して早めに出てきたようです。ちょっと見て、直すべきところは直し、コピーして、袋に入れさせます。受け付けてもらえたら、また電話してと言って送り出します。

 今から行けば、後半の授業には間に合うでしょう。今時の授業は、たとえ一日であろうとも、そのまま直接大学入試や入学後に役に立つことが多いので、抜けるのは不利なのです。

 昨日も「歴史的仮名遣い」と「いろは歌」をチョチョッと導入いたしました。どうしても時間に制限がある(こういうのは「一級後」でも、直ぐは無理です。面白くないのです。興味を持ってくれないのに入れたってつまらない、こっちが面白くないのです)のと、入試のための文章を読んだり書いたりしなければならないのとで、こういう時間はなかなか取れないのです。で、

 いつも「チョチョッと」と「ササッと」でやってしまっています。それから、あとは休み時間を利用してのDVDです。知っておいて欲しいこと見ておいて欲しいことがありすぎて…教員達は大変です。

日々是好日
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「願書を書くには一度頭を空っぽにして」。「自分の国のルールと日本のルール」

2010-02-01 08:03:30 | 日本語の授業
 今日は夕方から雨が降り始めるそうですから、こんな月なのでしょう。雲の隙間から時折月の形は覗えるものの、和紙に光を滲ませたような具合です。寒くはありません。いつの間にかマフラーも厚手から薄手へと変わっていました。

 とはいえ、関東地方でも、遅くには雪に変わるところも出るそうで、明日の朝、もし、雪をチラとでも見ることが出来たら、南国から来た学生達は、どんなに喜ぶことでしょう。彼らが(秋には)よく口の端に上らせていた、「雪」の「ゆ」の字も、聞かなくなって久しいのです。

 さて、受験を控えている学生達の話です。もう、いい処に一つ受かっているのですから、それほど追い詰めなくても良さそうなものですが、職業病ですね、それが出来そうな相手には、つい、つい、やってしまいます。やってしまった後で、可哀想に思えることも「なきにしもあらず」ではあるのですが、ただ、その成果は確かに上がって来たようです。

 昨日持って来た文章は、一昨日までのものとは全く違っていました。実は、かなり手を貸さなければならないかと(昨日の朝の段階では)諦め半分だったのです。そんなわけで、午後、アルバイトから走ってやってきた彼女から受け取ったものも、直ぐには見る気になれませんでした。自分が整理して、それを彼女に見せて「まとめさせるか」くらいに考えていたのです。

 ところが、自分の方でまとめた後で、彼女の書いてきたものを読んでみると、いいのです。気持ちがよく表されているのです。勿論、まだ荒削りではありますが、一昨日までの何が何だか判らないという支離滅裂のものと比べるとまるで雲泥の差です。

 行きたい大学の案内書をよく読むこと。10回でも、20回でも読むこと。意味が判るようになるまで読むこと(判らなかったら聞けばいいのですから)。そして、オープンキャンパスに行った時のことをよく思い出すこと。それらをまとめて、また考えてみること。

 全く、当たり前の事なのですが、この一つ一つをきちんとしていないと、頭の中がこんがらがってしまっていて、いわゆる自分を失った状態になってしまうのです。

 大学の「面接」や「論文書き」に備えて、専門分野の新聞や雑誌の記事や本などを読ませているうちに、本来の自分の気持ちが捉えられなくなったのでしょう。この「どうしてこれを学びたいのか」というのはとても大切なことです。往々にして、専門的な文章を読んでいるうちに、(初心が消えて、知らず知らずのうちに)その口調や内容を借りて言い出してしまうのです。えらそうな言葉を使い、一知半解のくせに、主張し出すのです、まるで、己が考え出したかのように。これは聞けばすぐに判ることです。「あなたの言葉ではない」と。

 初めは、簡単なことにも驚くような、そんなレベルでいいのです。だからこそ、学びたいと思うようになったのですから。そして、ここでなら、自分はいろいろな事が学べそうだと思った理由を書けばいいのです。何か引っかかりがあるはずですから。単に大学の名前だけではなく、そこに惹き付けられた何かを見つめていけば、それでいいのです。

 自分の思いを書くと言うこと。それも、自分の口調で。自分の心の流れに沿って。

 「一級試験」にも合格しており、「留学生試験」でもかなりの点数が取れていれば、たとえ高校を卒業して直ぐに来ていた学生でも、日本語での話し方が彼らの母語での雰囲気に似てきます。日本人がいくら書いてやっても、彼らのその雰囲気を捉えていないと、それはもう借り物になってしまいます。それは直ぐにばれてしまいますから、面接の時に責められるということになります(ただ、これは学生を選抜しよう、良い学生がほしいという意気込みのある大学での面接のことです。学費があるかどうかだけが心配な大学とは違います)。

 自分の思いを自分の言葉で伝えるということ。単語や文法的なことなら、私たちが追加したり、添えたりすることはできますが、肝心要の部分は、本人にしか書けないことなのです。この「整理」が、「どえらい、難しい社会問題」ばかりを読んでいると見えなくなってしまうのです。その初心を取り戻すためにも、まずは一時期、「難しい文章」から遠ざからねばならないのです。

 そして、大学の案内書をよく読むということ。この大学は、どういう学生を求めているのか、自分でも頑張れそうか、そして、大切な専門に対する思いです。それらを、捨てるべきは捨て去り、思い出すべきものははっきりと形にし、書き綴っていくのです。

 これの「あらまし」が、おおよそ出来ていれば、あとは日本語としての体裁を整えるだけでいいのです。多分今日か明日には出来上がることでしょう。

 昨日、彼女の文章を読んでから(まだ、うまく書けていないところが一つあるにはあったのですが)、自分の顔が、「仁王」から「仏」になるのがわかりました。彼女が言われた通りに一生懸命(大学の案内書を)読んだということも判りましたし、自分(彼女自身)の考え方の流れというものも、ある程度書けていました。つまり、彼女が感じられる文章だったのです。

 やはり、こういう学生には、追い詰めるという手間を惜しんではならないのです。ただ、これも人を見てやらねばならぬ事で、追い詰めると、直ぐに他の人に書いてもらい(この学校でそれをやると、物凄い勢いで、「代わりに書いた人」まで叱られますから、実情を知らない他の学校の人か、知り合いの外国人留学生などに頼んだりするのです)、そういう学生には、こちらとしても、もうどうしょうもないのです。日本に来てからの問題ではないのです。母国での受けた教育の問題ですから。

 こういう人は、彼らの国で、いつもそうやって来ていたのでしょう。特に、高校を卒業して直ぐに来たのではなく、ある程度の年月が経っている人は、難しい。私たちが何といってもわからないという人が少なくはないのです。ただ、これは、ある特定の国の人だけがそうだというわけではありません。

 もう25,6才前後の人に、それは悪いことだといくら言っても、おいそれとは変えられないでしょうし。「盗作」は悪いことだといくら言っても、判らない人がいるように(善意に解釈して、判らないからやるのだと思いたい。判っていてやったのだとは、考えたくないのでこう言うのですが)。彼らの国の社会の風潮として、大半の人がそれをしていれば、日本でも、それをやる…のは、ある意味では当たり前のことなのかもしれません。

 ある大学の院生などでも、そんなことをした人がいるそうです。それが見つかって、物凄い勢いで叱責されても、口答えをしたり、無視して同じことを繰り返したりするそうですから、大学院の先生も大変ですね。しかも、そこでは運の悪いことに、外国人院生が、ほぼある一国出身者で占められているそうで、彼らの常識が、研究室の常識となりそうな勢いだとか。先生は怒り心頭だし、先輩にあたる他の日本人院生も、もう文句を言う気力もなくなり、秘かにこの研究室から出て行かないかとわずかな希望を繋いでいるそうですが、さて、どうなりますことやら。そう思われているということに気づかないから出て行きはしないでしょうし、大学院の方でも、事務局は「お金」の事を考えますから、よほどのことがない限り、そのままでしょう。こうなると、「面の皮の厚い方の勝ち」ということになってしまいます。

 しかしながら、どうして、もっと適当に扱ってくれる先生のところへ行かないのだろうかと、不思議に思ってしまいます(「学生を育ててやろう」と考えている学校や大学には、やはり、そういう学生が行った方がいいでしょうし、「適当にやろう」とか、お金のことだけ考えている学校や大学には、やはりそういう学生が入った方がいいのです。本当に、それがお互いのためだと思うのですが)。

日々是好日
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