日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

手を動かす(「書く」・「自分で調べる」)ということ

2008-08-30 11:53:36 | 日本語の授業
 あの大雨の中を、どこかで生き抜いていたのですね。今日も朝、ミンミンゼミの声がしていました。しかし、どことなく、力なく、最後の「ミーン」とのばすところなど、まるでため息のようでした。

 猫たちも、今日は顔を見せてくれました、茶の猫は、大きく伸びをしながら「あくびの顔」で。黒と白の猫は(私は、彼?を秘かに、“ゴンダ”と呼んでいるのです。鼻のところに、ちょっとかかった黒が、どうも「こそ泥」さんの風貌に見えて仕方がないのです)いつもの家の前に、ちょこなんと座って。

 ここ数日、おかしな天気が続いています。中国語で言うなら、「鬼天気」というところでしょうか。

 昨日も、午後のクラスが終わって、学生達がみんな帰りほっと一息ついた頃。五時半ごろだったでしょうか。教材をコピーしていると、いきなりパラパラと窓を打つ音がしたかと思ったら、ザーザーッと降ってきました。午前・午後と、学生がいる間は、あんなにカンカン照りでしたのに。まあ、確かにムシムシして、耐えきれないほどでしたが。

 (この天気を、カンカン照りで、しかも、ムシムシするこの天気を、ムンバイから来たインド人の学生は「いいお天気ですね」と言うのです。思わず「いいですか」と聞くと、「はい、気持ちがいいです」。私たちの共通理解では、慣れない下手な「冗談を言っている」のか、それとも、「彼は日本語を知らないかであろう」でしたが、そうとも断定できない部分があるのです、彼の表情に。「本当にこういう天気を喜んでいるのではなかろうか」と思える部分もあるのです。まあ、文化も違いますし、人それぞれですから、何ともいえないのですが、これを聞くと、カーッとまた暑くなってきました。ハア-…)。

 というわけで、こういう時間(帰宅時間)に、降ったり止んだりは嫌ですね。いっそ降り続いてくれたら、あきらめがつきますものを。

 今朝もそうです。早朝は降っていました。それから、一時止んで、また降り出し、また止んでと、何回か繰り返したので、降り止んだ時に、傘を抱えて大急ぎでやって来たのです。ところが、今はお日様まで顔を覗かせています。授業が終わる頃にはどうなっていますことやら。

 さて、学校では、毎日のように、新たな問題が起こってきます。新しく日本語を始めようという人に、「せっかく、勉強しようとしているのだから、条件をつけてはまずい」とか、「そう言う言葉のニュアンスもわからない相手にどうやって、それを伝えるのか」といった、向きもないわけではないのですが、どうしても、条件をつけたい国の人がいるのです。

 「授業中に、『既習の単語の意味』を、他の人に、大声で聞くのはやめてもらいたい。自分で出来ることは、してきてもらいたい。他の人が授業を受けるのを妨害しないでもらいたい。教師がそれを注意すると、プライドを傷つけられたとプイッとして、来なくなるのをやめてもらいたい。そんなことで来なくなるくらいなら、始めから来ないでくれ。(来始めてしまうと、こちらも上手にさせようと努力してしまうのです。こんな相手でも)」。

 前の課や、随分前の課の単語を覚えていないので、隣の人に聞いたり、前の人に聞いたり、時には二列か三列も離れている人に聞いたりする国の人がいるのです。完全に授業妨害です。何度も中止を受けているらしいのですが、なぜそれがいけないことなのかが、理解できないらしいのです。言葉の問題でなく、文化的に理解できないようなのです。

 「私はお金を払っている」。他の人もお金を払い、ここで勉強しているのだということが、わからないのです。そうとしか、こちらには思えないのです。先生が説明をしている時や、みんなで口頭練習をしている時に、他の人に聞いたりすることは、「みんなに迷惑をかけることになる」ということが、理解できないのです。

 もう、こうなったら、「搦め手」から行くしかないと、帰りに、同じ国から来た男子学生を捕まえました(これは「初級Ⅰ」のクラスの出来事です)。

 「あなたと同じ国から来た人がいますね。授業中、単語が分からないとすぐ聞きますね」と水を向けると、ニコニコしながら
「はい。○○さんですね。私は教えます。」
と屈託のない様子。これは、いいことをしたと褒めてもらえると思っているなと直感したので、思わず、
「いけません。あなたは、来年大学を受験します。大学へ行きたいです。あなたは、まだ漢字ができません。カタカナもすぐ忘れてしまいます(7月生です)。あなたは、自分で勉強します。○○さんも自分で勉強します」。
「はい」
「ここ(教科書を指して)は、学校で勉強します。みんな一緒に勉強します。単語(対訳の本を指して)は、家に帰ります。家で勉強します。一人で、勉強します。わかりますか」
「はい」

 どうも、かれは、「先生は私のことを大切に思ってくれている。うれしい」くらいにしか、理解は出来なかったようなのですが、これからは、「教えない」と約束してくれました。彼自身、まだまだ一緒に練習していかなければならないレベルなのです。他の人に教えてやる余裕など全くないはずです。

 勉強の面では、どんなに利己的になれるかで、勝負が決まるというところがあります。親切で、人の面倒ばかりみてやっている人は、だいたい勉強する時間がなくなってしまいます。みんな、学校で勉強しながら、アルバイトもしているわけですから、勉強する時間が豊富にあるわけではありません。

 短いその時間を、「いかに有効に使わせることができるか、授業時間しか勉強できない人に、いかに計画的に、合理的に教えていけるか」が、教師の仕事の重要な一部分を占めています。

 特に就学生においては、そうです。時間が限られているのです。その上、非漢字圏の学生は、漢字も覚えていかなければなりません。覚えるという前に、「書かねば覚えられない」という、漢字圏の人間から看れば当たり前のことを、納得させ、それを習慣にさせていかなければなりません。しかも、ただ「書けばいい」のではなく、「覚えるという『意志』をもって書かねば、なんにもならない」ということを理解させておかなければならないのです。

 この学生にしてからが、「七月生」ですから、まだ「道半ば」なのです。「やっと、書くようにはなった」のですが、「意志をもって」書いてはいないのです。塗り絵のレベル(私はそう思います)の書き方で、「『覚えよう』という意志」をもっては書いていません。これでは覚えられるはずがありません。

 それなのに、「自分のことだけ、していればいい。自分で出来ることをしていない人にかまう必要はない」と、私が罵声を浴びせたくなるような、自己認識の仕方なのです。

 「自分で調べられる」というのも、「自分では調べない。常に人に聞き、耳で覚える」というのも、文化の一種なのかもしれません。そうだとするなら、東アジアではなく、西南アジアの人にとっては、日本語を学ぶ上で、まず「書く」ということも、「忘れたら、自分で対訳の本を見て調べる」ということも、一つの越えねばならぬ、大きな関門なのかもしれません。

 こう書いているうちに、バケツをひっくり返したように、雨が降ってきました。どうやって帰りましょう。止むまで待つしかないのでしょうか。この雨の中を、強行突破など、したくはありません。帰るタイミングを狂わせて仕舞いました。失敗、失敗です。

日々是好日
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