吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2017年11月29日/〈宗像・町歩き〉007・織幡宮

2017-11-29 13:11:28 | 宗像・町歩き

 

写真①:「織幡宮」参道入り口の石鳥居

      =宗像鐘崎で、2017年11月27日午前10時40分撮影

 〈宗像・町歩きスポット〉 7 

 :織幡宮

 宗像市鐘崎にある「織幡宮(おりはたぐう)」を11月27日、訪れました。参道入り口の石鳥居=写真①=から石段を上がった境内に「織幡宮」の案内掲示板(平成8年設置)があり、祭神は武内宿弥と住吉大神、志賀大神とし、武人、武内宿弥を鎮護国家の備えとして、鐘崎に祀ったといわれていますと書かれています。

  平安時代初期、朝廷の年中儀式や制度を記した『延喜式』に、「織幡宮」は筑前19社の二番目に記載。古文書に、江戸初期の元禄8年(1695年)社殿造立、同16年(1703年)拝殿=写真②=成就と記され、古い歴史がしのばれるとしています。一説によると、神功皇后が三韓出征の際に赤白二旗の旗を織って、宗像大菩薩の竹竿につけられたので、織旗と名付けられたのが「織幡宮」の名の由来という。

  

写真②:鐘崎の氏神・「織幡宮」拝殿

 古代の人たちは、山の神のほか、海に突き出た岬にも「ちはやぶる神の岬」として霊力を感じて航海の安全を祈ったとみられます。「織幡宮」の案内掲示板と参道を隔てた反対側の境内に歩を進めると、万葉集に収録された〈ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも 吾は忘れじ志珂の皇神〉(巻7 1230番=作者不詳)の短歌を刻んだ石碑=写真③=が建てられていました。

 この歌意を口語に訳すと、波が荒く恐ろしい金の岬(鐘崎)を船に乗って過ぎてしまっても、私は志賀の皇神(志賀島の「志賀海神社」に祀られている海神)のご加護を忘れはすまい。

  

写真③:〈ちはやぶる金の岬〉という詠み人知らずの短歌を刻んだ「万葉歌碑」

  「織幡宮」の案内掲示板の近くには、「沈鐘と巨石」の展示があります=写真④=。昭和49年10月に建てられた石碑「沈鐘と巨石」に書かれた筑紫豊・福岡県文化財専門委員の碑文によると、〈昔の人は、ここには海の向こうの国から来た釣鐘が沈んでいると信じてきた。大正八年に山本菊次郎なる人が万金を投じてこれを引揚げる成功した。しかし、釣鐘ではなくして、このような巨石であった〉と説明。私が尊敬する郷土史家でもあった筑紫豊氏(故人)は、著書『九州万葉散歩』の中で、鐘崎と約800㍍離れた「地島」との迫門(せと。狭い海峡)は海中の曽根(岩礁)が牙をならべたようなところで、潮流・風向きしだいでは、玄界灘第一の難所で、古来、船乗りは通行の安全を志賀の神(海神・志賀島鎮座)に祈った、と記述。引揚げられた巨石は10数㌧もあろうという一岩塊にすぎなかった、としています。

 

写真④:「沈鐘と巨石」の碑文と展示されている巨石

  〈ちはやぶる金の岬〉の短歌を刻んだ「万葉歌碑」の近くでは、境内に立つ石像・「筑前鐘崎海女の像」=写真⑤=が目に入りました。平成7年4月に「筑前鐘崎海女保存会」が建てた「海女発祥の地鐘崎」の石碑には、〈ここ鐘崎は、海路の要衝として万葉の古歌に詠われ、沈鐘の伝説で名高い。先祖は鐘崎海人と呼ばれ、潜水の技術に優れた鐘崎海女は「西日本の海女発祥の地」として有名である〉と記述。

  さらに〈海女の出稼ぎ地であった能登・長門・壱岐・対馬には、枝村(分村)ができた。海女の使用した道具は、県の文化財に指定され保存されている〉とし、〈ここに海女の石像を建立し功績をたたえ、航海の安全と豊漁を祈る〉と結ばれています。

 

写真⑤:「筑前鐘崎海女保存会」が建てた石像・「筑前鐘崎海女の像」

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