写真①:〝太閤山〟と呼ばれていた昔を偲ばせる松山(左奥に走るのは国道495号線)
=福津市津屋崎天神町で、2008年4月6日午前8時26分撮影
〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 24
:太閤山
福津市津屋崎天神町から東町にかけて、かつては松山が続いていました。通称「太閤山(でいこやま)」とも呼ばれています。天神町の津屋崎交番前にある国道495号線交差点東側のクロマツの松林(新浜山国有林)=写真①=は、その一部です。
私が小学生のころは、国道495号線が走っているところまで松山でした。大きな松の老木が何本もそびえ、枝に止まっているフクロウに小石を投げかける悪さをしたこともあります。父に連れられて松葉かきに行き、松露を見つけた記憶も残っています。松の巨木は切り倒され、国道が松山の中を縦断し、昼間も薄暗かった昔の松山の面影はありません。
「太閤山」と呼ばれる謂われは、この付近の田んぼでは玄界灘からの潮風が塩分を内陸に運ぶため、稲のできが悪く、天正15年(1587年)、九州平定に訪れた太閤秀吉が防風林として海岸に松を植林させたことからという。「太閤(たいこう)山」が、なまって「でいこやま」になったようです。
近くの「新川」の河口付近から東の「津屋崎海水浴場」を見ると、砂浜の内陸側に並ぶ海の家の背後に、「太閤山」の松林が「宮地浜海水浴場」まで続いているのが分かります。=写真②=。この〝白砂青松〟が、津屋崎海岸の美景の一つです。
写真②:海の家の背後に続いて見える「太閤山」の松林
=福津市津屋崎天神町で、4月6日午前8時21分撮影
「太閤山」の位置図
(ピンが立っている所)
=福津市津屋崎天神町で、2008年4月6日午前8時26分撮影
〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 24
:太閤山
福津市津屋崎天神町から東町にかけて、かつては松山が続いていました。通称「太閤山(でいこやま)」とも呼ばれています。天神町の津屋崎交番前にある国道495号線交差点東側のクロマツの松林(新浜山国有林)=写真①=は、その一部です。
私が小学生のころは、国道495号線が走っているところまで松山でした。大きな松の老木が何本もそびえ、枝に止まっているフクロウに小石を投げかける悪さをしたこともあります。父に連れられて松葉かきに行き、松露を見つけた記憶も残っています。松の巨木は切り倒され、国道が松山の中を縦断し、昼間も薄暗かった昔の松山の面影はありません。
「太閤山」と呼ばれる謂われは、この付近の田んぼでは玄界灘からの潮風が塩分を内陸に運ぶため、稲のできが悪く、天正15年(1587年)、九州平定に訪れた太閤秀吉が防風林として海岸に松を植林させたことからという。「太閤(たいこう)山」が、なまって「でいこやま」になったようです。
近くの「新川」の河口付近から東の「津屋崎海水浴場」を見ると、砂浜の内陸側に並ぶ海の家の背後に、「太閤山」の松林が「宮地浜海水浴場」まで続いているのが分かります。=写真②=。この〝白砂青松〟が、津屋崎海岸の美景の一つです。
写真②:海の家の背後に続いて見える「太閤山」の松林
=福津市津屋崎天神町で、4月6日午前8時21分撮影
「太閤山」の位置図
(ピンが立っている所)