写真①:緑の木々に包まれた「楯崎神社」
=福津市渡御園で、2007年5月7日午前9時52分撮影
〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 21
:楯崎神社
福津市渡御園の「楯崎神社」=写真①=は、渡の産土神です。大楯崎権現とも呼ばれます。祭神は、国土を造った大己貴神=おおなむちのかみ。大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名=と海をつかさどる綿津見神(わたつみのかみ)、医薬の神の少彦名神(すくなひこなのかみ)。江戸時代後期の福岡藩の国学者・青柳種信が編纂した地誌、『筑前国続風土記附録』によると、相殿に神功皇后を祀るとあります。
文化14年(1817年)、青柳種信が書いたとされる楯崎神社縁起によると、異賊が攻めてきたため、大己貴神と宗像姫大神が神軍を率いて楯を立て、鼓を鳴らして防ぎました。こうして戦いに勝利して鼓を打った島を鼓島、また楯を立てた地を楯崎と呼ぶようになったという。
古老の言い伝えでは、神功皇后が朝鮮遠征に先立ち、楯崎神社近くの薬師岳(標高108㍍)で神のご加護を祈り、凱旋して朝鮮から帰られた時、これからは平和で弓矢の用がないように願って、楯と弦を切った弓を神社に納めました。それで、「弦がないので矢を引きつけられない」として、幼児のひきつけ病除けに霊験あらたかとされ、昔から信仰が篤い。今でも4月15、16日、子供のひきつけ病除け祈願に弦のない弓を供えに持って参拝する信者が訪れるという。
神功皇后の船が停泊した所を京泊(きょうどまり)といい、その近くにある大きな船形の岩を加羅船(唐船)と称するようになったといわれています。
以前の楯崎神社は、南西の薬師岳の北西山麓にある薬師神社のすぐ手前の平地にありましたが、昭和28年(1953年)の大雨で神社が傾いたため、現在地に再建されました。
=福津市渡御園で、2007年5月7日午前9時52分撮影
〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 21
:楯崎神社
福津市渡御園の「楯崎神社」=写真①=は、渡の産土神です。大楯崎権現とも呼ばれます。祭神は、国土を造った大己貴神=おおなむちのかみ。大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名=と海をつかさどる綿津見神(わたつみのかみ)、医薬の神の少彦名神(すくなひこなのかみ)。江戸時代後期の福岡藩の国学者・青柳種信が編纂した地誌、『筑前国続風土記附録』によると、相殿に神功皇后を祀るとあります。
文化14年(1817年)、青柳種信が書いたとされる楯崎神社縁起によると、異賊が攻めてきたため、大己貴神と宗像姫大神が神軍を率いて楯を立て、鼓を鳴らして防ぎました。こうして戦いに勝利して鼓を打った島を鼓島、また楯を立てた地を楯崎と呼ぶようになったという。
古老の言い伝えでは、神功皇后が朝鮮遠征に先立ち、楯崎神社近くの薬師岳(標高108㍍)で神のご加護を祈り、凱旋して朝鮮から帰られた時、これからは平和で弓矢の用がないように願って、楯と弦を切った弓を神社に納めました。それで、「弦がないので矢を引きつけられない」として、幼児のひきつけ病除けに霊験あらたかとされ、昔から信仰が篤い。今でも4月15、16日、子供のひきつけ病除け祈願に弦のない弓を供えに持って参拝する信者が訪れるという。
神功皇后の船が停泊した所を京泊(きょうどまり)といい、その近くにある大きな船形の岩を加羅船(唐船)と称するようになったといわれています。
以前の楯崎神社は、南西の薬師岳の北西山麓にある薬師神社のすぐ手前の平地にありましたが、昭和28年(1953年)の大雨で神社が傾いたため、現在地に再建されました。