多分今はC(カタストロフィー)の時代に入っているようである。
Cとはカタストロフィー、すなわち急激な変化あるいは旧態の崩壊の時代のことである。
昔ルネ・トムという数学者がトポロジーなる数学分野において、急激な相変化、あるいは破局の現象をカタストロフィー理論として発表したことがあると記憶している。
カタストロフィーとは一般に破局とも翻訳されているが、破局と言えば何かネガティブな破滅、破壊の印象があるかもしれないが、そういう感情論的な現象理解ではなく、急激な形態変化あるいは相転換に類する現象と考えるべきである。
例えて言えば、ゴムひもをゆっくり伸ばし続ければ、次第に歪みが増大し、ある時点を境にゴムが切れてしまうような一瞬の形態変化であり、
また風船を膨らまし続ければ、ある一定の限度を超えた途端に破裂してしまうことであり、
また、コップの中に水を入れ続ければ、ある時点で溢れだしてしまうような特異点のようなものである。
また机の上にある重り物体にひもをつけ、ゆっくりと引っ張り続ければ、ある時点で摩擦と引っ張りの均衡点を超えてしまい、物体が静止から急に動き始めるような動作変化点を通過するようなものである。
また地震や火山の爆発なども、たまりにたまった地殻やマグマの歪みが一気に急激に解放されるために、それもカタストロフィー現象と言って良いだろう。
総体的に言えば、歪みが一定の段階になった時に、ある飽和点、均衡点を越えてしまった時点で、その歪みの解消が一気に現象化・表面化するようなものでもある。
要は、変化が終始ジワリジワリと緩やかに推移して安定点に至ることではなく、その変化によってそのシステムのエネルギーがある「一定の水準」になった途端に、一気に急激なエネルギーの解放とその結果である形態転換を起こすようなものである。
カタストロフィー現象とはそういうものであるといって良いだろう。
しかしながら、このような物理的な形態の急激なパルス状の変化は膨大なエネルギーの短時間の解放が伴うために、物理的世界の住人にとっては決して歓迎されるものではないことになる。
ある意味で原子核爆弾も、その原子核崩壊プロセスを低レベルで持続させる中性子の衝突を利用した原子力発電も、同じく原子レベルでのカタストロフィーのエネルギーを利用しているである。
人々が恐れる地震も、雷も、そして親父の怒りも(笑)・・・・堰を切った時点で気付かぬ間に急激に起きる現象である。
カタストロフィーが破局と解釈され、どこかネガティブな感じを持つ理由もそこにある。
また急激な変化に関しては何も物理的な現象だけにとどまらす、「こころ」に関しても存在することは理解可能であろう。
誰にも経験があるはずだが、
例えば、人間関係において表面は取り繕いつつも、裏で重ねていた我慢に限界が生じて、急に激しく怒りだしたりすることもあるし、
誰かの何かのふとした小さな言葉によって、人間関係が破局を迎えたりすることもある。
要は、限界近くになった何らかの「歪み」が、ほんのひと押しで一気に解放に向かうことでなのである。
昨今の世相は、そのような精神的、あるいは物理的なエネルギーの歪みがあちらこちらで急に解放されているような様相を呈していないだろうか。
ここ日本においては地震の発生と原発の一大事故があり、その物的・心的影響が地球大に拡散してしまったことは記憶に新しいし、
それにまつわる様々な利権の構造やお粗末な体制、あるいは国民の生活や権利を無視したような政治主導、あるいは外の勢力の狡猾で陰にこもった支配や搾取等がいよいよ明らかになってしまったわけである。
それによって今まで知らなかった多くの人々が「知って」しまったのだ。
美しく装ったところの・・・実は醜悪なエゴが、政治や国家システム、経済システムにおいて顕著に露呈されてしまったのだ。
このことについても、正義と信義で装丁された日本人のこころの内部に積み重なった無知や依存、あるいはそれをだましだまし利用してきた咎、あるいは歪みが解放されつつあることを意味している。
混乱や苦しみはそのカルマが故のことである。
実のところ、歪みは苦しくともその『エネルギー』は『現象』として開放されるべきであり、それはいわゆるカルマの解消に繋がるのである。
知るという行為は、意識レベルの要因であり、エネルギーや現象に先立つことであるからには、知るという行為を通して現象を変えることが可能になるわけである。
多くの人々は、本当に知ったということであれば、考え方や行為を変えざるを得ないはずだし、そこで流され自分自身の有りようを変えなければ、更なる歪みが加わることになる・・・今はそんな重大な分岐点にあるということだ。
・・・気付いているだろうか。
天候は今までよりも荒々しくなっていないだろうか。
地震は明らかに頻発してきていないだろうか。
政治や経済がめまぐるしく変化してきていないだろうか。
経済的な負債が現実レベルを超えていないだろうか。
指導者と称する者達の欺瞞が赤裸々になってきてはいないだろうか。
国際関係は国益と称するエゴがむき出しになって来てはいないだろうか。
人々の叫びや集団行動が過激になって来てはいないだろうか。
地球規模の気象異変が急増してはいないだろうか。
古くからいた多くの生物種が消えて行っていないだろうか。
・・・
自然界の微妙な変化や人心の微妙な変化を観察出来る人々にとっては、現象界も何かが確かに変わって来ていると感じられるはずである。
地震の巨大化、地殻の変動、火山の活発化、民衆の暴動、政治体制の短時間の転覆、気象の急激な変化等を見てとれば、前世期に比べて急速に発生頻度が増大していることがわかるだろうし、
またそれらも次第に身近になって来ていることも感じとることが出来るはずである。
しかしながらそれらの急変の全てを陰の謀事や扇動、あるいは人為的な気象操作やマインド制御等に帰結するという解釈は誤りであろう。
地球の物理次元においての急激な変化は、大きな枠での地球という生命圏の、
いわゆる多次元に渡るエネルギーの増大や質的変化によって生起していると考えられ、
そのフィールド中に存在する人間の「こころ」にも大きな変化が起きているということなのだ。
人間は意図によって意識的・無意識的に動くものであり、ガイアと言われる地球も意識体であるからにはある種の意図によって変化しつつあると考えられるはずである。
意識~(こころ)~エネルギー~現象(物質)という顕現はどこにおいても、惑星、恒星においても、そして人においてもフラクタルに適応されるのだ。
現在の物理的な観測手法では、エネルギー~現象(物質)のリンクしか定量化出来ないわけであるが、その元にあるものは大自然・宇宙の「意識」であり、また人間界にあっては人の「こころ」が様々な現象を生起させることは理解出来るはずである。
言葉を変えれば、
意識に生じる特定の意図は潜在的なエネルギーとなり、その青写真あるいは鋳型を通じて形態化・現象化するということである。
今様々な変化が現象界にも現われてきたということは、とりもなおさず何らかのエネルギーの増大と、その因たる次元の「意識」に質的な変化が起きているということを意味するのである。
それらの大きなフィールドでの重大な変化に明確に気付くためには、どうしても人的世界の雛型であるところの自分というもの、そしてそのこころ模様、またそこから展開するところの自分の周囲での現象化について十分な気付きを得る必要があるはずである。
単なる外の世界の刺激に満ちたイレギュラー情報の収集の段階を越え、
それぞれの人間の意識・こころ・身体、現象生活の有り方の・・・首尾一貫した因果関係を心底で理解し会得しなければならないはずなのだ。
そうでなければ、今訪れているカタストロフィーの時代、それは別の意味で大いなる変容の時代にあって、怖れと不安で右往左往するか、あるいはそれに気付くことで内面のカルマを解放することをしないならば、その理由も何も解らずに、あっという間に外面の時空の濁流に流されることになるかもしれない。
今はもう意識の眼(まなこ)を覚ましていなければならない時ではなかろうか。
全ての魂存在達は、そのために自らで選んでここにいるのではなかったか。
輝かしき夜明けの為の生みの苦しみから決して逃げてはいけないはずであろう。
・・・そう、今から、ここが肝心かなめの、胸突き八町である。
それは外の世界だけとは言わず、実に、あなたやわたし達自身の魂レベルの変容と拡大の為の必要なプロセスのことなのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
あー、そうなんですか。でも、それは違います。
ーーーーー
気付かなければならないことがあります。
誰かに、あなたの何かを・・・決めてもらうのを...やめることです。
・・・
「わたしはわたしである」こと、これが事実でしょう?
人は皆、歩くのも、食べるのも、トイレに行くのも、何もかも全て自分で決めています。
寝るのも、起きるのも・・・全てそれぞれの<わたし>が決めているでしょう。
何を考え、何を想像するのかも、つまりは自分です。
・・・
アセンションするとかしないとか、出来るとかできないとか、
そういう言葉を出す他者は、事の本質を分っていません。
・・
さらに人に恐怖を感じさせる言葉にも、何の影響力もないのです。
ただ、単に、
それぞれの<私>がつい、そう感じている・・・それを、受け取ってしまっている・・・
ーーーそのことーーーを、こころを「鎮めて」・「しっかりと観ることです」
・・・
外からの余計な観念を、内に取り込んで、恐れる「くせ」は無いだろうか・と。
・・
「自分は何が怖いのか?
誰かに精神的に依存していないか?
依存している為にそれをもてあそばれてはいないか?
それで傷つく…真剣な?嫌な遊び方を相変わらず行っていないか?」
しっかりと自分のこころを「観る」ことです。
・・
もし、自分のこころに「怖れ」があることが観えれば、
余計なそれが浮き上がってきたということであり、
あなたの中の怖れが、元あった外側に消えていくわけです。
・・
毎朝太陽が昇ります。
すがすがしい空気も取り巻いています。
道には草花が咲いています。
動物たちは穏やかな表情をしています。
・・・・
どこに怖れがあるというのでしょうか?
怖れは、単なる迷妄観念です。
・・
それが、どうしたというのか、勝手に決めるんじゃねえ・・・と、
笑ってしまいましょう。
・・
「さて、それがなんだというんだ?」・・・と、
笑いとばしてしまいましょう!