誕生日を前にして、
ふと、そういや、去年の今頃は、
フミの結婚式で
八ヶ岳に赴いて
家族全員集合したっけなぁ…
と思い出した。
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祝宴でギターを演奏し、
花嫁家とも楽しく
語り合い、
12月の高原での結婚式
という非日常的なイベントを
体験させてもらった。
そして、
お嫁さんになった
ミカちゃんは5月に
無事にリッ君を出産したが、
コロナ禍のせいで、
半年たった今も
まだ、その可愛い初孫に
会えていない。
ワクチンが接種できたら、
なんとか、一日も早く、
この手に初孫を
抱いてみたい。
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金曜日にY中で
クリスマス・コンサートに
筝曲合奏をする
『さくらさくら』の
合わせをやる。
なので、
毎日、茶室に設置してる
琴の練習に余念がない。
昨日も風呂上りに
汗ばむほど弾き込んだ。
そして、
また着替え直してから、
隣の書室に移って
臨書を半時ほど集中してやった。
最近、
「琴」→「書」→「ピアノ」
という立て続けにやっていると、
なんだか、めっきりと
老後っぽい感じがしないでもない(笑)。
これに、
「料理」と「茶」が加わる。
何をかやっていれば、
その間、しばし、
オシリ痛を忘れて
"一つ事"に没頭できるのだろう。
慢性痛が治ったら、
何をかせん…
ではなく、痛みを忘れるほど
何をかせん…
というのが、「ACT(没入療法)」と
言ってもいいのかもしれない。
「書」も独自の
顔彩によるカラー書道である(笑)。
「琴」も構えを
上下さかさまにして
ギター式に低音弦を手前にした
独自の「佐々木流」である。
そうすると、
左手が伴奏に使え、
原理的にはピアノやハープと
同じになる。
琴や大正琴は
単音演奏が多いので、
ギタリストには
なんだか楽器の機能を
生かし切れてないような
気がするのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/d6/6722d1807bc5617358bdea8b0e837eef.jpg)
お寺さんの
立派な山門の看板を見ると
ついつい写真にとって、
臨書の手本にしている。
『立石寺』の字体は、
「立石」が真っ直ぐで
「寺」が右肩上がりという
なんともアンバランスで、
書の骨法・理屈に合わないなぁ…
と怪訝に感じている。
『観音堂』の
「音」の字も
空間が潰れ過ぎて
判読できないようなものである。
これも、
なんだかなぁ…
という感じである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/f1/34dcfa41b416ab59f9be1688d2e33570.jpg)
階下のご神前には、
葬儀の折の遺影が、
田舎の旧家の仏間のように
ズラリと掲げてある。
祖父は、自分がハタチの時に、
祖母は25の頃に亡くなった。
父は40才頃だったので、
もう二十年以上経つ。
時折、頭上の三人に対しても
御霊様(みたまさま)として
拝礼して、家族の無事安寧を
願っている。
ちちははのいのちにつづくわがいのち
わがものにして
わがものならず
わがいのち天地とともにある
かしこみ師走満月
仰ぎをろがむ
わがいのち
今あらしめ給ふことかしこみ
冬の大空仰ぐ
碧 水
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