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『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

2時46分に黙禱

2025-03-12 08:26:44 | 大震災/コロナ禍

 

きのうは、
3.11のオフ日だったので
在宅中に、TV中継に合わせ、
2時46分に黙禱を捧げた。

14年を経て、
さすがに記念日反応のような
フラッシュバックは起こらなかったが、
黙禱の時には少しだけ
ウルッときた。😿

この14年で
数千回という大中小の余震が
常時頻発していたが、
去年、おととしは、
震度5、6クラスの大余震は
来なかった。

3年前の夜中の
震度6の余震なぞは
洒落にならんくて、
寝室で本棚の下敷きになるわ、
タンスは倒れるわ、
TVは壊れる、電子レンジ、
オーヴンレンジは壊れる……。

部屋ん中は
3.11並の本の散乱だった。

1000年に一度のM9.0では、
地殻の歪みが落ち着くのには
100年かかるとのこと…。

地震恐怖症の子は
真に気の毒で
日常的に起こる震度2程度でも
パニックを起こしてしまう。

数千回もの余震に慣れて
震度4までは平気でいられるが、
これが5ともなると、
さすがに恐怖心が起こる。

昨年の元日には
能登で巨大地震と津波が襲ったので、
蓋然性が高い西日本は
我が事として
防災の準備と適切な避難を
普段から心掛けておくべきである。



2011年来、毎年、
3月11日に、
支援物資を送り続けて下すっている
赤穂在住の元同僚にして
元ギターのお弟子さんだった
ガッちゃんから、
きのうも『心尽くし』を
頂戴した。

原発事故の直後、
放射線量が高いにも関わらず、
元自衛隊員のご主人が、
20kgもある迷彩バッグに
ありとあらゆる支援物資を詰め込んで
赤穂の地から遠路遥々、
東北新幹線も止まっている処を
バスを乗り継いで支援に
やって来て下すった。

ちょうど、吾妻体育館の避難所で
カウンセリング・ヴォランティアを
やっている最中に駅に到着されたので、
駅まで出向いて、パンパンに膨らんだ
超重量のバッグを受領した。

空には自衛隊ヘリがひっきりなしに
飛び交い、路上には
国防色・迷彩色の陸自車両が
幾十台となく走っている。

まさに、戦場そのもののような
非日常的な光景が
目からも耳からも入ってくる。

そんなんで、
個人的にではあるが、
元自衛官のご主人から
直接、支援物資を受け取ると、
感謝の言葉だけでは澄まず、
思わず、相対して直立不動で
敬礼してしまった。

さすが、元隊員だけあって、
それに、スパリと
凛々しい答礼を返して下すった。

それは、まるで、
映画のワンシーンのなかに
いるかのようでさえあった。

労いのおもてなしも
しようのない状況だったので、
その非礼を詫びると
「先生は、どうぞ、
はやく避難所にお戻り下さい…」
とのお心遣いに
甘えさせて頂いて、
自分のすべき事を為す場へと
踵を返した。

後日、この美談を聞いた
イツメンのミッちゃん叔母ちゃんは
「ほんとに、有り難いねぇ…」
と、涙をこぼしていた。



去年のスケジュールノートを見て、
今年初めてのフキノトウ採りに
出かけてみたが、まだ、
びっき沼一帯は
雪に覆われていて
地面が見えなかった。

あと、2週間後くらいで
雪解けが進むだろうか…。



ウクライナの軍事演習に
自衛隊員が参加していた、
という紛争当事国への介入があり
国会で防衛大臣が追及されたという。

これは、由々しき事で、
事実上、参戦してるも同意なので、
国連の敵国条項が行使されれば、
2兆円も援助して
敵国と見なされているので、
ロシアからミサイルを撃ち込まれても
文句が言えないのである。

こうまでして、
クサレ政府は
日本を危険に貶め、
防衛費のためにと
増税している亡国棄民の
政権なのである。

日本でも、
トランプ革命のような
大変革を起こさねば、
いつまでも、戦争屋や利権屋に
乗っ取られたままで、
民は重税と搾取に
苦しまねばならない。

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「これは、リアルなんだぞ… 映画じゃないんだ…」

2025-03-11 08:12:58 | 大震災/コロナ禍

 

『3.11』から
14年目の朝である。

忘れもしない…。
あの日。
お昼過ぎの2時46分。

大地は揺れ、海は荒れ狂った。

2万2千もの方々が犠牲になられた。

*

あの日。
自分は、たしか、馴染みのフレンチで
お昼を頂いた後、フミに借りた
中古の『シーマ』を駆って
意気揚々と家に引き上げた。

途中、近所の大型文具店に寄って
品定めをしていた時だった。

急に、カタカタ言い出して、
その後、突然にガタガタ鳴り出し、
これは、尋常ではないと他客もろ共
外に飛び出した。

まだ、ケータイを
所有してなかった頃なので、
それを開いていた青年に
「震度6くらい?」
と尋ねたら、コクンと頷いた。

そうしてる間にも
足元はぐらついている。
かなり長い…。

大きな波のような揺れが
またグワンとぶり返してくると、
恐怖感がジワリと湧いてきた。

目の前の国道4号線では
車が全部路上に停車し、
中には、車から降りて抱き合って
悲鳴をあげている女性たちもいた。

目の前の電柱が
まるで、メトロノームのように
左右にブンブン触れている。

まだ、収まらない…。
長いこと、揺れたまんまである。
そして、またまた、
グオーンと大きな揺れがきた。

「死」を予感した。
こうやって、人類が滅亡するのか…
とも、脳裏に浮かんだ。

思わず、合掌して
「天地金乃神様。
 どうぞ、この揺れを収めてください」
と、必死に、
金光教の主神に祈った。

み教えの中核にある、
【死んでもままよ】
なぞとはならなかった…。

3分ほどで、揺れは
小康状態になってくれた。

それでも、数分ごとに
震度4、5クラスの余震が
頻繁に襲ってくるから、
地球がぶっ壊れたのか…と、
思うほどだった。

事実、
地殻の三連動「崩落」だった。

どうにか、家に戻ると、
倒壊もせずに建っていたので
安心するも、施錠していなかった
二階の窓が全部開いていたのが
衝撃的だった。

書棚のある書斎は
壊滅的な有様だった。

机上のパソコン、モニターともに
数メートル先の床まで
吹っ飛ばされており、
小型テレビも落下していた。

床の上は一面の本で埋められ、
階段の踊り場の書棚からは
本が滝のように流れて
階下まで埋め尽くされていた。

部屋という部屋が
壊滅的な状態だった。

箪笥も倒れ、
家中で立っていたものは
すべてがひっくり返っていた。

家には、たまたま、
春休みで帰っていた大学生のフミと
やや認知症気味の老母が
二人とも無事で幸いだった。

からくも、地区的には
停電を免れたので、
すぐにテレビの中継を見た。

そしたら、真っ先に
眼に飛び込んできたのが、
ヘリからの津波映像だった。



そっか…。
中通り地方は内陸だから、
考えもしていなかったが、
浜通りの臨海部は
津波が直撃したんだ…と、
はじめて気づいた。

宮城上空から
ライヴ中継をしている映像には、
黒々としたビロードのような水の塊が
ありとあらゆるものを呑み込み、
諸々の粉砕物と共に
田地田畑を舐めていた。

思わず、テレビの前で
立ち尽くしていたフミに向かって
「これは、リアルなんだぞ…
映画じゃないんだ…」
と、呟いていた。

津波に追われて
逃げ惑う車もあり、
その運転者の恐怖が伝わってきて
こちらの動悸も激しくなった。

後日、津波は
海岸から2㎞ある国道6号まで
到達したという。

その巨大さは、
『松川浦』の海をまたいで陸と陸をつなぐ
松川大橋のおなかスレスレの高さがあり、
15m以上はゆうに超えていたろう。

三陸のリアス式海岸で
最高到達点を記録したのは、
山火事になった
岩手県大船渡市綾里(りょうり)地区
の最大遡上高 約40.1メートルである。

これは、ビルの13階に相当し、
電柱4本分の高さである。

波には、
干渉や合成という性質があるので、
波どうしが合わさる事により、
単一の波の倍の高さになることもある。

**

3月11日の外は、
まだ、風花が舞うような
寒さだったので、
室内には暖房が要ったが、
ファンヒーターは転倒の危険があるから
消していた。

すると、老母が寒がって
すぐさま、スイッチを入れるから、
余震の事を言い含めても
認知できてなさそうなので、
「入れる/切る」の攻防戦が
しばらくあった。

フミも自分も、
ジャンパーを着て、
巨大余震には
すぐさま家から出れるような
臨戦態勢が続いた。

その日だけでも、
余震が二百回以上あったと
後で知ることになる。

幸いにして、電気は来ていたが、
水はパッタリ出なくなった。

すると、水洗トイレは
困ってしまう。

風呂の残り湯をバケツに汲んでは
一々、流すようにしたが、
それも、限度があり、
数日後には、近所の用水路から
自家製手押し車を作って運搬した。

飲料水は、すぐに、
近所の公民館に給水車が来てくれたが、
並んで配給を受けるのも楽ではない。

その晩、何を食べたか、
定かではないが、
スーパーもコンビニも
店内が壊滅状態で
クローズしているので
冷蔵庫の残り物とツナ缶くらいを
食したように思う。

ただし、水が出ないので、
カミさんが、全ての皿に
ラップを被せていた。

幸いにも、停電がなかったから、
テレビも見れ、エアコンも使え、
パソコンのネットも見る事ができた。

メールやブログのコメント欄には
教え子たちからの心配と
お見舞いが沢山寄せられ、
勇気づけられた。

*

その晩は、何十回もの大きな余震で
朝方までまんじりともせず過ごした。

翌朝は、揺れる中でも
いくらか冷静さを取り戻しつつ、
何かしらの朝食を摂り
遅配の朝刊に目をやると
一面に「M9.0の巨大地震」とあった。

赤々と火の手のあがる街、
津波で壊滅した街…
この世の地獄のような風景が
戦時下でもない平時下に起こった事を
痛感せしめた。

上空には自衛隊機のヘリが
バラバラと飛び交い、
道路にも国防色や
迷彩色の自衛隊車が
続々と入ってきた。

まるで、戒厳令でも
発せられたような…
まるで、ゴジラが
上陸でもしてきたような…。

それは、非日常的な
光景であった。

*

3月12日15時36分、
テレビ画面で、原発1号機が
水素爆発を起こして
煙をあげたのを視た。

その光景は、
まるで、原爆が落ちたのを
目撃したような衝撃で、
背筋がゾッとした。

浜から離れているとはいえ、
直線距離で60㎞ほどである。

放射能が拡散される…。

建設時の想定では、
海側に向かって風が吹くだろう
という楽観視があったと聞いた。

本来、高台に作るはずだったのが、
何処かの誰かの横槍で
15m以上の津波なぞ来ないだろうから…
と臨海の平地に建設された。

どちらも、その想定が外れて、
陸側に向かって風は吹き、
放射性物質は浜通り、仲通りを
縦断して東京の貯水所を汚染し、
それは静岡の茶畑まで汚染した。

13日には、
戸外の放射線量が
25μ㏜/h
(マイクロシーベルト毎時)
になった。

レントゲン撮影の1回が
50μ㏜なので、二時間外にいると
同量を被爆することになる。

というので、
政府からの屋内退避「命令」が出た。

外に出るに出られない
状態なのである。

もし、それが続けば、
餓死に陥る危惧もあった。

その後…立て続けに…
14日11時1分、3号機爆発。
15日6時14分頃、4号機爆発。

当時、中3だったナッちゃんは
「あぁ…。もう、終わった…」
と、嘆息し、なかば、
狂ったように笑い出した…。

さも、ありなん。
笑いたくもなるし…。
狂ったほうがマシだった…。

その時の
リアルタイムのブログは、
『goo』の過去ログに未だある。

https://blog.goo.ne.jp/liqbeau2020/e/e2b8be5c08e3870f09af86343c6578b3

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南海トラフの一端でM7

2024-08-09 05:55:55 | 大震災/コロナ禍

きのうは
南海トラフの一端で
震度6弱が起こった。

端っこのプレートから変動して
これから中央に波及し、
「半割れ」「全割れ」に
至る可能性は少なくない。

検討委員会では、
過去の事例から
0.5%の確率と見積もっている。

前回の発生が、
1946年なので、
それから77年経つが、
発生周期は90-150年というので、
理論上の蓋然性は低い。

ただ、関東大震災から
100年目の周期に入っているので、
首都直下型が先行して、
それに刺激されて
今回の九州沖との間の領域が
連鎖的変動をする可能性もあるかもしれない。

ましてや、
1000年に一度の『3.11』の
M9の超規模地震による
東側のプレートのズレの影響も
受けいてる。

正月元旦に起こった
能登地震は
フォッサマグナの近辺である。

今や、日本列島が乗る地殻は
そうとうな歪みエネルギーが
蓄積されているので、
0.5%という理論値に
安心できるものではない。



*

3.11体験者としては、
実際に、津波の被災地を
幾箇所も訪れてみて、
その波高のすさまじさを
身をもって体験した。

かの震災では、
三陸のリアス海岸での
最高到達地点が37mだった。

福島の某所でも、
左右の15mの波が干渉・合成し、
局地的に30mにもなり、
高台に避難した100余名が亡くなった。

この規模の現象が起こるとしたら、
瀬戸内海に回折した波が
ちょうど中央地点で
瞬時、合成し、倍の高さになる可能性がある。

波の基本的性質としての
回折・干渉・合成・・・という事を
高校の物理で習っていない人たちも
少なくないだろう。

防災における、
科学的知識はもっと
公けに流布されて然るべきである。

かの3.11では、
1000年周期で、
その年に該当していた事を
被災後に地震学会や地質学会が
「後だしジャンケン」の如く
報告したので、
激しいバッシングを受け、
謝罪会見を開くに至った。

「象牙の塔」の知識が
学会内で閉じて
防災に活かされなかった前例である。

***

きょうは、
孫ワンコを連れて
ナッちゃん・アキちゃん夫婦と
お母様が初来福される。

自分はカウンセリング仕事があるので、
日中はカミさんが、
〈フクシマの宝石〉である
国立公園の裏磐梯にエスコートし、
イタリアン・レストランの予約もしたという。

夜は、
自分がエスコートして
常連の三ツ星懐石店で
会食をさせて頂く予定である。

***

リク坊家族も
帰省できそうだというので、
玄関室礼に「ドラエモン」のお迎えを
設えた(笑)。

ちょうど、おとついの大雨の日に、
山から採ってきたアジサイが
彩りもよく咲いているので、
格好のウェルカム・フラワーになってくれた。

***

きのうは、
用紙のストックがなくなるまで、
6冊分の本文(ほんもん)印刷を行った。

綴じ・表紙付けもしようと
一日中、エアコンを付けっ放しだったが、
けっきょく、夜まで気が乗らず、
趣味であり、仕事でもないので、
厭々やるのはストレスになるから、
翌日廻しにした。

カラオケ「好き」と
「嫌い」の両者に、
カラオケをさせた後に、
血中抗体値を測定した実験がある。

予想の通り、
前者は抗体値が上がり、
後者は下がった。

すなわち、
厭々なにかをすると
明らかにストレスになる
という事が定量的に実測された。

***

きのうも
国際政治学者の
イトカン先生のセミナーを
2時間ばかり拝聴した。

東大出の優秀頭脳の持ち主だが、
反骨精神がたくまし過ぎて、
アカデミアの中になぞ
収まっておられず、
在野の智者として
それを批判する側におられる。

尊敬・心酔した
インド哲学の泰斗・
故・中村 元先生も
学会の閉鎖主義については
苦笑されながら
「困ったものです・・・」
と溢されていた。

先の地震学会の例ではないが、
排他的・内部凝集的で
「知的遊戯」に堕して、
「世と人のお役」に立たないのは
死んだ学問と唾棄されても
仕方なかろう。

そんな空疎なアカデミズムを
天才・談志家元からは
「学問なんて
 貧乏人の暇潰し」
と、一筆、
色紙に揮毫して頂いたことがある。

*

すくなくも、
心理学の上に「臨床」が付く、
「臨床心理学」は
「こころの問題」に
悩み苦しむ人たちを
治療・支援する為の学問ではある。

「臨床」の語源である
「クリネー」には、
「死の床に接する」という意味だと、
院生の頃、習ったことがある。

古代ギリシャ語の「CLIN」は、
「横たわる」「傾ける」
という動作らしい。

そこから、
患らう者が「横たわる病床」を
クリニックとなったとも言う。

医学生が、
大学病院内で格科を
一定期間廻って、
指導、訓練を受けるのを
「ポリクリ」(臨床実習)と言う。

「CLIN」を含む単語には、
INCLINEは、物理的・心理的な
「傾斜や勾配」という意味があり、
DECLINEは、
「低下、衰退、減少」など、
マイナスイメージの傾きがある。

リクライニング・シートの
「RECLINING」は
反復を意味する「RE」が付いて、
「背もたれを繰り返し
斜めや垂直に変えられる椅子」
という事である。


***

きのうは、
時折、子育て相談に乗っている
教え子のツーラから
御礼の菓子折りが届いた。

こういう礼節正しい教え子が
多くいるので、
まさに、教員冥利に尽きる。

 ギャンブラーは一瞬の楽しみ
  農夫は一年の楽しみ
   教師は一生の楽しみ

若き日に、
教員研修会で聴いた
箴言である。














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能登「11」東日本「22222」の天啓と瑞祥

2024-03-12 10:00:40 | 大震災/コロナ禍

震災から13年目の昨日。

幸いにして
体調もよく
いつもどおりの勤務に就けた。

数年前までは、
この日になると
やや心身の不調が起こり
軽いフラッシュバック性の
「記念日反応」になっていた。

きのうも
職場での「黙とう」を
忘れないようにと、
黒板に「2時46分」と
板書しておいた。



不思議な事に、
この時間帯だけ
予約生徒がキャンセルになり、
一緒にやろうと思っていたが、
ひとりだけでスマホのTV中継に
合わせて合掌した。

多くの人々が海に向かって
手を合わせる姿を見、
孫を亡くしたという老爺の言葉に
胸が詰まり思わず涙が浮かんだ。

きのう現在で、
関連死を含めて
2万2222人という
「2」並びの数字を見て、
どんな象意・ご神意があるのだろう・・・と、
怪訝に感じた。

それは、
能登の震災が元旦正月の
1月1日に起こった・・・
ということに
不穏な気分を抱いたことと
繋がりがあるのか・・・とも。

試しに「ゾロ目」で
ググッてみたら、
スピリチュアルな解釈として
「啓示的意味」と
「瑞祥的意味」があるという。

特に、「1・1」は
エンジェルナンバーとも言うそうで
強烈なメッセージ性があるようだ。

まして、
「22222」は
揃い過ぎている。

これらに気付いて
それを意識化できた個人は
スピリチュアルのレベルが高まっていて
魂理学的に言えば
「神性」に近づいているらしい。

世界情勢分析や
人類史的転換について言及している
アナリストや学識者たちは、
震災・戦火・パンデミック・腐敗政治・・・
と、目を覆いたくなるような現状だが、
これらは全て、ここから
オセロのように一転して
「黒」が「白」にひっくり返る布置だ
と一様に述べている。

とすれば、
その吉兆の天啓が
「ぞろ目」に現れている。

ご神慮を垣間見せてくだすっている
という事なのだろうか。



**

3.11当日、
家の中が散乱したが、
お気に入りの亡父愛用の姿見が
転倒して鏡が粉々に粉砕した。

木枠を大型ゴミに出そうと
片付けていたが、
見ようによっては
縦でも、横でも、
大枠の額縁に転用できるかな・・・と、
放擲を思いとどまった。

そして、
数年前にやっと
鏡の下の木板に方形枠を図り、
そこに王義之の書いたと言われる
『般若心経』を臨書してみた。



単に墨書となると
やや抹香臭くなるので、
松煙墨・油煙墨の古墨と
顔彩を交互に使って
色彩書に仕立ててみた。

無論、そこには
震災の多くの犠牲者たちが
幽世(かくりよ)で
御霊様(みたまさま)として
幸せに暮らせていますように・・・
という願いを込めた。



*

きのうも
勤務の昼休に
「手作りベント」を
有難くも勿体ない気持ちで
頂いた。

戦地のガザでは
無辜の民たちが
飢餓の状態に陥っているという。

それでも、戦争をやめない
ネタニヤフらシオニスト政権は
ヒトラーを批判する資格なぞない。

聖書にある
最終戦争「ハルマゲドン」とは
人類が滅びるか、
はたまた、それが最後の戦争となり
以後、恒久の平和が続くか・・・
というダブル・ミーニングが
あるのやもしれない。

 



*

3.11の時、
半年近く、
新幹線も止まり、
高速道路も閉鎖となった。

原発爆発で
放射能汚染死を覚悟したが、
5万もの県民は県外に脱出した。

ガソリンも、水も、電気も
ストップして、食糧危機さえ
懸念される、まさに
「命懸け」の毎日だった。

そんな中に、
遠く赤穂の地から
わざわざボストンバッグ満載の
20㎏近い食料を携えて、
不便な交通を乗り継いで
支援に来て下すった方がおられた。

元同僚で元ギター弟子Oさんの
元自衛官の御主人である。

避難中の
「福島」ナンバーの車が
各地で投石されたり、
入地を断られたりと、
まるで「現代の穢多」が
復活したような
差別的扱いを受ける中、
関西から支援に来て下さったのだから、
その使命感と高貴な精神には
尊崇以外のなにものもなかった。

その「英雄的行為」に
会ってもいない叔母なぞは
「ありがたいねぇ・・・」
と涙を流して感謝していた。

あれから、
13年経っても、
毎年のように「3.11」には
支援物資の名のもとに、
様々なご当地の銘品を
送り続けて下さっているから、
感謝のしようがない。

なので、
蓋然性の高い
西日本大震災が発生の際には、
命懸けで「恩返し」をしなければ、
と老境になっても
その気概を保っている。









 

 

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哀しみの日から十三年

2024-03-11 08:48:55 | 大震災/コロナ禍

 


忘れもしない・・・。
13年前の今日。

午後2時46分。
それは起こった。

東日本大地震。

震度7の超巨大地震。
15mの超巨大津波。
原発三基がメルトダウンする
超規模原発事故。

1000年に一度の地震と津波。
広島・長崎に次ぐ
放射能汚染被害。

それは、
人類初の超規模「複合災害」であった。

あの折、避難所で
パンデミックがなかったのが
不幸中の幸いだったが、
それでも関連死は5000人を超える。

***

原発が三基爆発後の
当時のブログには、
こうある・・・。

***

今朝、近所の梅がほころびはじめ
それが青空に映えていた。

長崎の海を望む高台にある
遠藤周作文学館の《沈黙の碑》には
こう刻まれている。

 人間がこんなに哀しいのに
  主よ、海があまりに碧いのです

なんだか、抜けるような青空に
芳しき梅の香りを嗅いだとき

 神様
  なぜに
   こんなことが起こるのでしょうか
 
と、ふと、
やるせない哀しみに襲われた。 

https://blog.goo.ne.jp/liqbeau2020/m/201103/3


***

当時も毎日、書いていた
ブログを読み返すと、
明らかに「死」を覚悟していた。

それでも、
引きこもって怯えているよりも、
最後まで、利他を尽くそう、
人の為に役立とう・・・と、
自主的に避難所巡りを始めた。

「心理カウンセラー」のID章を首に掛け
サイコロジカル・ファースト・エイド
(こころのケア)に
18ケ所の避難所すべてを廻り、
太平洋岸から避難してきた方々の
クライス・インターベンション
(危機介入)に当たった。

中には、
首まで津波に浸かりながら助かったJKや、
目の前で津波に呑み込まれた人たちを見て
悪夢のフラッシュバックに
苦しむ人たちもいた。

家族を、家を、故郷を・・・
失った人たちは
一様に「対象喪失」反応により
物も言わず、かける言葉もなかった。

あまりにも悲惨すぎる
数々のエピソードを見聞きするに従い、
恐れていたバーナウト(燃え尽き症候群)と
エンパス(共感性抑うつ症)にもなった。

やがて、ガソリンは枯渇し、
避難所にも出向けなくなり、
ひたすら、引きこもって
自分や家族と向き合う
内省の時間が多くなり、
それも苦しかった。

加えて、日常では、
放射線量が通常の数十倍と高い
低線量被爆が続く毎日である。

5万人もが
エクソダス(大量脱出)したが、
公務を放棄して
県外に移転はできない。

子ども達だけは
京都の知人宅にひと月間
疎開させてもらった。



*

3.11当日は、
数度の震度5を含む余震が
200回ほどあり、
翌日の朝方まで
まんじりとも出来なかった。

家は潰れはしなかったが、
中は何処もここも
手の付けられない有様である。

水も出ない。
幸いにして、地域的に
停電だけは免れたので、
パソコンもヒーターも使えた。



*

上空には
まるで戒厳令下のように
自衛隊のヘリが往来し
その轟音が止むことがなかった。

街中にも
国防色の自衛隊車が
ひっきりなしに走っていた。

 



*

あれから
早、十三年が経つ。

その間に、
二人の息子が結婚し、
初孫も生まれた。

我が家の
「希望の星」である。

打ちひしがれた心を
その誕生は
どれほど勇気づけてくれたか・・・。

**

今日の2時46分。

勤務中ではあるが、
一時、中断して
祈りを捧げたいと思う。

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