『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

十九番勝負

2021-08-31 07:32:00 | 藤井 聡太
ソーちゃんが
昨日の竜王戦の
挑戦者決定戦を勝ち抜き、
初めてのビッグタイトルへの
挑戦権を得た。

相手は、またトヨピーである(笑)。

なので、
王位戦、叡王戦と続いて、
ウソみたいな
十九番勝負となった。

既に王位戦は
4-1で防衛し、
来週の13日は
2-2で迎えた叡王戦の
決着がつく。

タイトル奪取できれば
「三冠」達成である。

そして、その勢いで、
同じ竜王タイトル保持者の
トヨピーからも
「四冠」目を奪える可能性大である。





今朝の朝刊には
「令和最強」という
コピーを初めてみた。

そして、
全タイトル制覇をしそうである、
という森下九段のコメントや、
「現在の最強」という
渡辺名人のコメントもあった。

トヨピーは
「特別の才能」と表現して
畏怖している様子である。





こんなパンデミックに
憂える世の中だから、
ソーちゃんの活躍は
国民に「こころの抗体」を
与えてくれているような気もする。






夏休み明けで
ひと月ぶりに
K中に出勤した。

この間に
地震が何度もあったので、
絵が傾いていたり
落下しているのもあった。

3.11来、
数千回もの余震が
日常的にあるので、
「ウィズ・コロナ」
と共に
「ウィズ・アースクェイク」
でもあり、
「ウィズ・ラディエーション」
(放射線)である。








相変わらずのボンビーなので、
ガタがきたタッパーの弁当箱を
ダイソーで買い替えた。

そんでも、
110円で3年近くも
持ってくれたので、
ボンビー・ライフには
「100均」様様である(笑)。

きのうは、
マメに朝っぱらから
イカ飯を作った。

いつもは
野菜と玉子焼きオンリーなので、
さすがにご飯物は
弁当らしいガッツリ感があった。







玄関前に一輪咲いた
野生の百合ちゃんが、
帰宅を出迎えてくれるので、
すこぶる気分がいい。

今朝も夜明け前の
4時頃にゴミ出しに行くのに、
「おはよー。
 ユリちゃん」
と声かけした。

あと数日で
はかなく朽ち果てるまで
愛でてあげようと
擬人化して観ている。




*********


『魂理学試論』1

「はじめに」

 夏休みに『名人を超える』という「ファンタジック・リアリティ」小説を48日間で書き上げたので、次の創作テーマとして、ブログ内でさんざん書き散らしてきた事だが、学際的アプローチによる「意識論」を総括してみたいと考えた。
 ここ十年くらい、年に二冊の本を創る、というのを自分に課しているので、今年度は、『夢十夜の深層分析』『名人を超える』に続き三冊目である。
 量産出来る時は、やれるに越した事はない(笑)。
 誰にも頼まれもせず、読まれもせず、買われもしなくとも、自分の為の「自学的創作活動
」なので、「楽しい」という事と「満足する」ということが主眼である。
 自主的にする勉強と研究ほど、安上がりで一生楽しめるものは他にはない。

「たましいは生き通し」

『魂理学』というのは、「心理学」が「こころ」の「ことわり」を学ぶものであれば、「たましい」についての「ことわり」を意味する造語である。
「たましい」とは、およそ、科学的思考の俎上には上がらない概念だが、「愛」と同様に、これほど多く人口に膾炙される語もない。

【多くの者が愛について語るが
 まだ誰もそれを見たものはいない】

という箴言があるが、それを【たましい】と代えてもいいだろう。

 さて、何の前振りもなしに、いきなり「断言」あるいは「定理」とするが、とりあえず「霊魂不滅」説を魂理学的立場では採用している。
 それは、古今東西の宗教が説く処である。
 
 金光教祖は、自らが神様に連れられて神界・霊界を三日間つぶさに見るという神秘体験をしておられ、そして
「たましいは生き通しである」
 と仰った。
『教典』にある教祖の事跡には、シンクロニシティック(共時的)な奇跡がいくつも出てくる。
 当時は、それを「霊験あらたか」と表現された。
 
 今回、「霊験」を初めて英語で調べてみた。
 そしたら、「miraculous efficacy」とか「miraculous virtue」というようだ。
「霊験あらたかな」は「wonder‐working」
「霊験あらたかな人」は「a person who performs miracles」
「その神様は霊験あらたかであるというので評判だ」は「The god is renowned for his ability to fulfill the wishes of worshippers」

「たましいは生き通しである」というのを三十代頃に認識してから、不惑の四十代以降、本質的な事に注目していると、些末な事に心が乱されるという事が少なくなった。
 現下のコロナ禍でも、過去・現在・未来と無限に「生き通している魂」が個性化して、意識して、体験している「現象」に過ぎない、と考えれば、「実存するものは脅かすことが出来ない」という金言が至当なものに思えてくる。
 これは、現象に対してフェーズ(相)やディメンション(次元)を変えて観察し認識する事でもあるのである。
 













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海行き

2021-08-30 06:34:00 | 風景
きのうは
夏休みに心残りだった
海に行ってきた。

年寄りの常で、
早朝の5時頃には
目が覚めたので、
コーヒー/朝刊タイムを
済ませると、
さっさとブログを書いて
気が変わらぬうちに
家を出ようと思った。




お中元アイスの入ってた
保冷ボックスに
飲み物や果物を詰め込んだり、
車中を移動書斎にしようと
後部座席の床を掃除機かけたり…と、
朝っぱらからワラワラしてた。

カミさんが
まだ起き出す前に家を出たが、
なんやかやで
9時近くになってしまった。

車中では
朝食がわりのネクタリンと
プルーンを齧りながら、
パコ・デ・ルシアの
フラメンコギターを聴きながら
高速を走った。









海に着くと、
気持ちいいほどに
カラリと晴れていて、
青い海原が
ほんとにキレイだった。






海沿いは
当たり前だが、
アルティメーター(高度計)が
海抜0mを示し、
なかなか陸地では見れない値だな、
と感心したりした(笑)。












原釜海水浴場に行くと、
かならず、
津波被害に遭われた方の
慰霊碑にお参りをさせて頂く。

お盆後とあってか、
碑面の裏側まで
ピカピカに磨き上げられていて、
まるで鏡のように
海岸風景を映し出していた。

その穏やかな景色に
「四百五十八名の犠牲」という
碑文が重なっていたのに
心痛む思いがした。

去年だったか、
そばの藤棚下のベンチで、
『影を慕いて』の
慰霊演奏をさせて頂いたことがあるが、
家族連れが笑って見ていた。









松川大橋の
手摺部分が津波で
曲がるほどの
15m以上もの高さだったことを
想い返すと震えがきそうである。

眼下を眺めると
おだやかな港湾で、
ここでナッちゃんが
小学生の頃、
『親子釣り大会』に来て、
ハゼ一匹しか
釣れなかったことを
思い出した。










津波被害に遭った
港湾施設のあった処に、
『浜の駅』ができ、
開店時間から賑わっていた。

かつて、
海から離れた所にあった
『シシド』スーパーというのが
地魚が浜値で卸されており、
家族で来るたびに寄っていたが、
そこも津波で全壊し、
再建されてからは
ただの既製品店になり
ガッカリした。

なので、
まるで昔の『シシド』が
蘇ったかのような
品揃えにワクワクした。

朝ご飯として、
『ホッキ 味噌チャーハン』
『がぜうに』
『スズキ刺身』
で1.060円だった。

『孤独のグルメ』流なら
なかなかの
「五郎さんセレクション」である(笑)。








わずか数時間して
お昼ご飯には、
同じ施設内の食堂で、
『あさりご飯』
『あおさご飯』
のWご飯500円にした。



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三人称の死

2021-08-29 05:20:00 | ノンジャンル
きのう今日と
完全オフなので
「何をしてもいい」が
「何をしなくてもいい」
日でもあった。

30℃を越す晴天だったので、
海に行こうか
さんざん迷ったが、
「行きたい」
という意欲が
「休んでたい」
を凌駕できずに、
けっきょくはダラダラと
無為徒食の一日となった。

もっとも、
そんな日でも、
早朝からブログは書き、
小説も書き、臨書、
ピアノ練習、昼食夕食作り
というルーティンは
欠かさなかった。

その合間を
チンタラと横になったり
マッサージ機をやったり、
YouTubeを観たり
朝寝・昼寝をしたり…と、
真面目にステイ・ホームを守った(笑)。

きょうも
30℃超えの晴れ日になる。

さあて、
海山に行く気が
自分を行動化させるか…
楽してゴロゴロ・ライフになるのか…(笑)。




ステイ・ホームで
ルーティンばっかりでは、
さすがにブログネタもなく、
反則ワザの「新聞ネタ」しかない。

アメリカ・カナダの
「先住民同化政策」が
かくも非人道的だったことを
初めて知った。

映画『ソルジャー・ブルー』では
インディアン虐殺事件を
衝撃的に視て知っていたが、
子どもを親から引き離して
かくばかりの非道が
行われていては、
中国のウイグル弾圧を
「人権国家」として
どうこう言える立場でもなかろう。

ことに、
カトリック教会が
中心的に運営していたとは、
宗教戦争だけでなく、
「宗教」集団の狂気性が
疑われても仕方あるまい。

数年前に脱北した
金光教の教会でも、
教祖のみ教えに反して
信者に高額寄進を求めて困らせる
というトンデモナイ事があった。

陰でそんな非道をして、
教祖のみ教えを説かれても、
聞く耳を持たないし
貴重な時間を無駄にするので
在籍教会を棄てた。

夏休み中にも、
得手勝手で自己中の
知人の幾人かを
相手するのをやめた。

こちらの言う事に
聞く耳をもたない人に
つきあう道理はないのである。

困った時にのみ、
利用しようとする人は、
いっさい相手せず
勝手にドロドロやって下さいである。



新聞記事の
「神父が女生徒を妊娠させ、
嬰児を火葬して葬った」
という非道さは
衝撃的である。

これを「聖職者」というのか。
「性色者」というべきだろう。

またしても、
福大教授様カウンセラーの
異常性欲事件を彷彿させられた。

64歳のジジイ教授が
10代の女生徒に
性的いたずらをする。

枯れない野郎の
鬼畜の所業だ。

事件を起こした4月から
発覚する7月まで、
のうのうと何喰わぬ顔で
中高3校に赴き、
インテリ面、聖人面で
カウンセリングをしたり、
大学や院で女子大生を指導しながら
色欲の目を彼女たちのカラダに
注いでいたのだろう。

その"たましい"の穢れは
まさしく非道の神父の如きである。

人が普遍的に有する
「偽悪醜邪」について、
いまいちど自己点検をするのに
いい機会なのかもしれない。

それが、
このコロナ禍の神学的意味、
魂理学的意味なのかもしれない。



ワクチン接種後の死亡が
1002人となったが、
厚労省の公式見解は
「因果関係不明」という。

笑えない冗談である。

統計的には
1002人/5530万人=
およそ5万人に一人の
確率だから、
集団免疫獲得のためには
最小限の犠牲者と見做すのだろう。

金属微粒子が混入していた
アストラゼネカ製は
すでに50万人に接種されたが
「二人しか死んでないから」
とは言わないが(笑)
問題はない…と、
コーノタローが断言している。

1人/25万人の死亡者は、
この場合、無視してよい、
切り捨ててよい
「誤差」なのである。

これは、
交番所前にある
「今日の交通事故者○○人」
と同じ、数値化による
「三人称の死」という。

アフガンの空港での
自爆テロで「180人死亡」
というのと同じである。

人は「二人称の死」
すなわち「あなた」と呼べる
縁者・知人が亡くなって、
ようやく我が事に近い「死」と
認知するのである。

統計的数値の
非実存性については、
推理統計学の最初で教わる。

体重60㎏と70㎏の
二人の平均は65㎏だが、
そんな人は実在しない(笑)。

母集団の規模が大きくなると、
釣り鐘型のベルカーブという
「正規分布」が出来るが、
そうすると今度は
「標準値」やら
「偏差値」が登場し、
「ズレ」が問題化される。

ワクチン接種後、
1004名の方々が亡くなられたが、
その一人びとりには
お名前があり、
数十年という人生があり、
幾多の家族、友人知人が、
それぞれに在られたのである。

その実在・実存について、
統計的マジックにより
軽視・無視を決め込み、
想像力を働かせることを怠ると、
いずれ自分が
「斬り棄て御免」側となり
「一人称の死」と
向き合うことになるだろう。











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百合のような君なりき

2021-08-28 08:22:00 | 食物・飲物
きのうは
夏休み明け初めての
山間部のY中へ
出勤した。

標高560mの高地だが
それでも、
日中は30℃を越す
真夏日で暑かった。




1ケ月ぶりの
給食だったが、
袋麺だったので
例によって給湯室で
スープ共々レンチンして
熱々で食した。

やはり、
薄味が過ぎて
持ち込みの「麺ツユ」を
適宜投入して
やっといい塩梅になった。

トマトスープだったが、
カップヌードルの方が
美味いなぁ…
という味だった。






給食後に
20分の休憩後に
昼休みのカウンセリングがあるので、
毎度、大急ぎで体育館ピアノで
ギリギリまで音出しをしているが、
きのうはさすがに館内が
29.7℃もあり、
10分弾いただけでも
瀧のような汗が噴き出した。

考えてみたら、
給食の麺を
熱々にして平らげたばかりで
カラダも火照っていたからだった。

10分以上やったら
熱中症になる危惧があったので、
残念に思いながらも
早々に切り上げた。







帰宅したら、
玄関わきの自転車小屋に
何処からか舞い込んできた
タネが発芽したのか、
ユリが蕾をつけていた。

今日あたり
開花しそうな気配である。

なんだか、
漱石の『夢十夜』の
第一話を思い出してしまった。

死んだ女性が
ユリになって
男性の前に現れる、
という幻想的な噺である。






きのうも、
職場では福大教授の
『ハレンチ学園』事件が話題になり、
ネットでもさっそく
画像や非難コメントが
アップされていた。

福大のHPも見てみたら、
トップに学長の「謝罪文」が
アップされていた。

これから
調査委員会によって
処分が検討されて、
結果が出たら報告するとの事だった。

重ねて、
厳重な処分を
希望したい処である。





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残暑がキビシーざんしょ!

2021-08-27 05:08:00 | 仕事
きのうは
やや風邪気味で
重怠いような体調での
出勤だった。

炎天下の外は
34℃もの猛暑で、
クルマも室内も
エアコンなしでは
熱中症になりそうな
キビシイ残暑だった。





先日の
カウンセラー淫行事件が
全職員に新聞コピーで配られてたので、
なんだか、
カウンセラーなんて
こんなもんなんだ…と、
白眼視されていそうで
あまり職員室の居心地がよくなかった。

それほどに、
W教授の愚行は
多くの男性SCの肩身を
狭くさせた迷惑行為である。

その職への信頼性を毀損した
ということで、
彼はどうやって償う気なのだろうか。

もっとも、
曽野 綾子の言に拠れば、
神父だった牧師だって
殺人を犯すんだから、
人間なんて
ろくでもないものなんだ…
と思えば
いいのかもしれないが…。





職場につくと、
相変わらず予約が
ミッチリ入っており、
電子カルテじゃないので、
うず高く山んなっている。

それでも、
夏休み明けとあって、
ワクチン接種した子たちが
ことごとく発熱して
予約者が二人も欠席していた。

仕事が始まると
とたんに体調が
緊張で回復するのだが、
肩透かしを喰って
エアポケットみたいに
ポカリとキャンセル空きがでると、
逆にガクリと体調が悪くなるから
不思議である。

なーんだ…
と張っていた気が落ちて、
病勢的なものが
ワーッと出張るのかもしれない(笑)。

午後からは
パワフルなお母さんが来られたので、
どうにかそこで気力が充実して、
案の定、夕方には
すっかり体調が回復していた。

昼食時には
食欲まで失せていたが、
退勤時にはオナカが空いていたので、
途中のミニストップで
シャインマスカット・ソフトを
買い喰いしながら帰った(笑)。

やっぱ、
仕事は健康の元だよなぁ…(笑)。







カウンセリング室には
「音楽」コーナー
「癒し」コーナー
「作業」コーナー
と目先を変えて
いろんなアイテムを揃えてある。

もっとも
話好きのJCなぞは
わき目もふれずに
一心に話し込んでいく(笑)。






学会案内を見ていたら、
専門書広告欄に
『コロナ禍とユング心理学』
というのを見つけて、
Amazonのレヴューや
抜粋文を読んだら面白そうだったので
注文してみた。

今や、日本に
20人ちかくいる
ユング派分析家資格者が
中心になって創られている
『日本ユング心理学会』
のジャーナルのようである。

30代の頃は、
自分も修士号を取得したら
スイスに行って
資格を取ろうかとも
考えたことがあったが、
子育てやSC職が出来たばかりだったので
それを諦めた。

今は、
日本で研修を受けて
取れるシステムが出来たみたいだが、
もう人生の残り時間も少ないし、
ユング心理学についても
一通り勉強したから
いまさら資格を取りたい
という気は失せてしまった。






学会案内に
福大の青木先生らが
9/7の1~3時に
WEBシンポをやるようだが、
同僚が猥褻事件を起こしたばかりで、
さぞかし憤慨されている事だろう。

だから、
男性カウンセラーはダメなんだ、
と思われたら心外だが…。

「保母」が「保育士」に、
「看護婦」が「看護師」になって
逆の意味で「男女共生参画」に
なってきたことは
社会の趨勢なので
SCも本来なら教員なみに
男女比が5:5になるべきであろう。

現在はまだ7:3くらいで
女性数の多い職域である。

女性カウンセラーは
セクハラ事件は起こさないだろうが、
自身の「父性性」を発揮して
クライエントに直面化することが苦手で、
「お母ちゃん」になりやすく
抱え込み過ぎてダラダラという
事例発表をよく見聞きする。

それと、時折、
「女教祖様」になってしまい、
クライエントや職場で
横暴を振舞まって
カウンセラー職の信用を
毀損してくれる事もある。

問題の起こるカウンセラーは
いずれも自身が
カウンセリングを受けて、
人間が普遍的に持つ
「偽悪醜邪」と対峙するという
『教育分析』の経験を
持っていないからである。

だから、
自らの内部の「悪」や「影」に
乗っ取られるのである。

政治家でも
「私の心は、富士の高嶺の
雪のように真っ白です!」
なぞと、
豪語してる輩(やから)に限って、
ハラんなかは
真っ黒なのである(笑)。


****

コロナ禍の第五波が
今なおピークアウトせず、
フクシマでも頭打ちの現状である。

毎日、渋谷のスクランブル光景が
映されているが、すこしも人流が
減少しているようには見えない。

「慣れ」の蔓延である。

それと、欧米で見られるのは、
ワクチン接種者が、
これで免罪符を得られたとばかり
ノーマスクで会食や観戦している様は、
正しい認識に欠けているようである。
(つまり、アホ!)

接種者でもブレイクスルー感染し、
その飛沫拡散により
エアゾル感染拡大を
助長しているのが、
欧米の増加傾向で判る。

日本では、
死亡率が2パーセント以下に
抑えられているので、
罹患率と重症化率を低い
と見做してか、未だに、
飲み屋クラスターが
後を絶たない。

フグ毒に当たって死ぬ噺の
落語の『らくだ』には、
【当たらぬがゆえの河豚の怖さかな】
という意味深な箴言が出てくる。

まだ「フグ免許」などのない頃の
むかしの古典落語であるが、
これは心理学的には
「正常バイアス
(normalcy bias)」
とか
「認知的不協和
(cognitive dissonance)」
と言われることである。

つまり、
「自分に限っては…大丈夫」
という、あまり合理的ではない
身贔屓が誰にもある。

 *

カンもコイケも
バイデンもキンペイも
プーチンも…と、
世界の指導者の誰もが
パンデミック未経験者である。

日本でも、いろんな学者が
いろんな事を言っているが、
医学分野や疫学分野でも
正反対の主張が見られ、
まさに、情報化の時代は
自分で「正解」を見抜いて
このクライシス状況を
生き抜いていかなくてならない。

3.11で起きた大川小の悲劇も
サバイバルのヒントになる。

あの折、地元の古老の提案に
教員たちが乗って
「その選択肢」を正しい
と判断したが為に、
自らも命を失い、
護るべき子どもたちの命をも
犠牲にした。

我われは危機的状況の時こそ、
自らの頭で考え、
よく観察し、情報を集め、
選択肢から正解を見抜き、
行動化せねばならないのである。

ソーちゃんが
なぜにああも強いか…。

彼は、どんな不利な局面からでも、
常に「最善手」という正解手を
何時間もかけて
探し出すからなのである。



養老先生の著書に
「両極端を観ると、中庸が判る」
という一句を見て、
なるほどと感心した。

釈尊は「中庸」を説くのに、
「音(ね)の鳴る弦(いと)」 
という喩えを用いた。

絃は緩すぎては音は鳴らず、
張りすぎると切れてしまう。

音の鳴る辺りが
ちょうど「いい加減」で
「適当」な処だというのだ。

ギタリスト的には
よく解かる喩えで
恐れ入る(笑)。

テンションが高すぎても
低すぎてもいけない…
というのは、
コロナ禍と向き合うのに
大切な事のように思える。

心配が過ぎると古代中国の
「杞(き)の国」の人たちのように
天が落ちてくるのではと不安に慄き
「憂える」ことになる。

人には、誰しも
「予期不安」というのがあって、
悪いことが続くと希望を失い、
【幽霊の正体見たり枯れ尾花】
という冷静さを失いかねない。

ワクチン未接種者として、
最大限の衛生管理はしつつ、
よく寝、よく食べ、よく仕事をし、
それでも感染したら、
軽症で治まることを願い、
もしも死んじゃったら、
諦めるっきゃない(笑)。

良寛禅師の如く…

 災難に遭うときは
  遭うがよろし

 死ぬる時は
  死ぬるがよろし

…と泰然自若としていたい。
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