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『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

チョンガー(独身)の誕生日

2025-05-18 08:13:17 | 家族

きのうは、
アキの誕生日だったが、
チョンガー(独身)なので、
だーれも祝ってくれないのかと思うと
いささか、不憫にもなる。

早、32歳にもなったので、
いいパートナーと邂逅できるよう、
亡母の御霊様の霊徳を期待している。



家族ラインでも
みんなが祝福してくれてた…。
😍💕



あと、佐々木一家には、
リク坊とヲト君がいる。

 





名人戦の第四局が
始まった。

ここまで、ソーちゃんの
三連勝なので、
勝率9割の先手番だから、
防衛を期待してたが……。

毎回、二百万もの
視聴者がいるから、
国民の2%が観戦している。

初日のきのうは、
なーんと!
61手目で千日手となり、
先手のソーちゃんは、
それを打開てきずに
何度も首をガックリさせた。

きょうは、
後手番となり
指し直しである。



夏炉冬扇で、
連日、夏日になってきたので、
寝室とトイレのヒーターは、
そろそろ、しまい時である。

扇風機も冷房も
すでに、稼働始めている。





gooブログが
11月で閉鎖されるというので、
データ移し替えの依頼をしているが、
要望多数なのか
とんと返事が返ってこない。

友人限定のフェイスブックにも
データは残っているから、
消える懸念はないが、
出来れば、アメブロにスムーズに
移転したいものである。

こんな暇爺(ひまじい)の
身辺雑記を読んで下さる方々が、
二百近くおられるのは、
有り難いことである。

…であればこそ、
令和の『徒然草』か
『土佐日記』のように、
いささかでも、文学的なエッセイを
心がけたくも思う。

また、
プシコポンプ(魂の導師)としての
箴言めいた一節や、
トリックスター(道化)としての
洒落た小咄を残したい
とも思っている。



本格的な
クレームブリュレを作るのに
Amazonにバニラビーンズを
注文した。

三國シェフのレシピでは
中の細かな粒状の種を
丁寧に甜菜糖と包丁で
混じり合わせる
という作業をする。

これにより、
ただアパレイユに入れるよりも
何倍も香りが立つという。



インプットとアウトプットを
クルマの両輪の如く
バランスを取りながらやろうと
意識化して
每日心がけている。

外食はインプット、
料理はアウトプット。

漫画読みはインプット、
ブログ書きはアウトプット。

音楽鑑賞はインプット、
演奏はアウトプット。

勉強はインプット、
研究発表はアウトプット。

落語鑑賞はインプット、
冗談・洒落・笑い話はアウトプット。

将棋観戦はインプット、
将棋実戦はアウトプット。

吸気はインプット、
呼気はアウトプット。

摂食はインプット、
排泄はアウトプット。

休養・睡眠はインプット、
仕事・活動はアウトプット。

……

 

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母の身代わり

2025-04-10 05:49:03 | 家族


きのうは、朝から、
市役所、年金事務所に
亡母関連の書類手続きの連絡やら、
予約やらして、介護ホームからは
保険証やら手帳やらを
引き取ってきた。



その後、イツメンの叔母ちゃんと
びっき沼に水芭蕉を見に行って、
ついでに、フキノトウも沢山採ってきた。



さすがに山は肌寒く、
道端には残雪が点在していた。


お昼は
土湯峠の道の駅で
天玉そばをやってきた。



昔の駅そばみたいな
懐かしい味であった。



午後からは
デュオの最終練習をした。

K君が、わざわざ
亡母の御霊前に…と、
果物を持ってきて下すったので、
お返しに、採りたてのフキノトウと
道の駅で買った
地産物の椎茸を持っていってもらった。

もう、直前だが、
試しに、『パスピエ』を
破綻覚悟で、これまでの
1,5倍の速度でやってみたら、
2度とも、案外に上手くいった。

そして、曲本来の緊張感や
疾駆感が表現出来て
弾いていても面白かった。

なので、本番でも
アップテンポでやることにした。

ゆっくりやっても、
間違う時は、間違うもんねぇ…。🤣

果敢なチャレンジも必要だ。🥹🌟

...

きのうは、合わせに2時間、
ひとりで2時間やったので、
今朝は、体中が痛く、
指なぞは曲がらないほどに
ギシギシいって激痛である。

まさに、
ヘロヘロのズタボロ状態だ。

67歳の老体を酷使してまで
やる意味があるのか・・・と、
愚問がしょっちゅう脳裏に浮かぶ。

そのたびに・・・
【奏でられる者は 
 奏でなければならない
 世の為 人の為・・・】
という、箴言が
反論を突きつけてくる。

してみれば、
ギタリストっちゃぁ・・・
難儀なものである・・・。

先日、一泊した兄が
二階の練習場にやってきて、
コンサート直前の散乱する
手描きの楽譜やら
頒布会のCDの山を見て、
何やら感じたらしく・・・
「お前の息子たちは
 親父をリスペクトしてんだろうな・・・」
と、ボソリと漏らしていた。

ある意味、
音楽という神々のおわします最高峰へ
アタックしているようなもので、
いつ滑落するやもしれぬ
危険性と隣り合わせなのに、
いまだに、果敢に
挑戦し続けているからだろうか・・・。

・・・とすれば、
ヘロヘロ、ボロボロの
ジジイ・アルピニストでもあり、
ジジイ・アスリートでもある(笑)。



普段は疎遠な母方従弟のH君が
おとついの夕方、突然、弔問に来られ、
しばし、茶飲み歓談をさせて頂いた。

そして、
挙式時に亡母が養母の役目を果たした
その時の義妹関係になるMからも
お花が贈られてくるという。

ご霊舎が段々と華々しく
賑やかになってきた。



月曜の朝に、
母が亡くなったばっかなので、
なにかと、非日常的タイムゾーンに在り、
ソーちゃんの名人戦の初日を
コロッと忘れていた。

無理もない・・・(笑)。

昼過ぎに気づいて
Abemaを視てみた。

勝負は二日目なので、
今日の夕刻あたりが
クライマックスの見ものである。

後手番ながら、
先勝を期待したい。



Tちゃん先生からメールがきて、
旅行の最終日に、
京都駅の雑踏の下り階段で転倒して、
圧死事故を免れて肉離れで済んだのは、
神様によるお奉り替えで、
亡母が自分の命を削って
守ってくれたのでは……
という信仰的解釈を聞かされ
腑に落ちるものがあった。

なので、それに
こう返信した・・・。

***

此度は、介護施設の中で、
来客者がコロナのキャリアで、
そこから、介護士に感染し、
母だけがホーム内で
感染してしまいました。

この事について、ずっと、
腑に落ちないものがありました。

何故、母だけが
感染しなくてはならなかったのか・・・。

それと、施設側からは、事実説明のみで、
「申し訳ございませんでした・・・」
という言葉は
一度もありませんでした・・・。

長らく、お世話になったので、
あえてその事は不問にしてきました。

先生のお考えのように、
母がコロナを引き受けて、
私の事故死の運命を
身代わりになってくれた・・・と、
神様がそう奉り替えくださった・・・と、
考えれば、腑に落ちるものがあります。

そうだとすれば、神様の奇しきお働き、
母親の愛を感じずにはいられません。

今日現在、肉離れの痛みは消退し、
通常どおり、歩けるまでに回復致しました。

きのうの納骨までの一連の流れで、
皆が口を揃えて、
「何もかも、うまくいってるね・・・」
と言っておりました。

自分も、これが、お繰り合わせを頂く、
というものか・・・と、驚嘆している処です。

母自身が信心で得た
神徳・人徳というのも
大御蔭に繋がっているのだとも感じました。

命日となった4月7日が
先生の御尊父のお誕生日というのも、
偶然の一致すぎる感がありますね。

 

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七日の忌引き

2025-04-09 04:58:50 | 家族

老いわれの
 生身の今のこのからだ
  生ましたる母
   をろがみまつる


きのうは、朝8時に、
カミさんと兄共々、家を出発し
叔母ちゃんを拾って
斎場に赴いた。

 



卯月晴れの空は
抜けるように蒼く、
残雪を抱く吾妻の峰々は
陽光を受けて純白に輝いていた。

眼下の阿武隈の流れは
たおやかにして、
清らかであった。

 



斎場までの道々、
さくらは咲き、
鳥は歌い・・・と、
ほんとうに穏やかで
麗らかな春模様であった。

東京から
甥っ子の洋ちゃんが
早々と駐車場に到着していた。

 



やがて、母の柩も
黒塗りの霊柩車で
恭しく到着し、
周囲の合掌のお迎えで
斎場に運ばれた。

係員の先導で
「お別れ室」なる
炉前に誘導された。

 父の柩
  母と送りしこの廊を
   またも行くなり
    母の柩と

炉の前には
祭壇があり、
カミさんと叔母ちゃんが
選んできた籠花が二つ供えられ、
自分は、持参した
金光教の御神紋の入った木製盾と
ご神米を設置した。

家族葬なので、
「祝詞(のりと)」もなしで
静かに手を合わせて
炉入りのお見送りをした。

すれ違いに、
自宅のPCには
Tちゃん先生からの
「火葬の儀」唱詞が
届いていたが、帰宅後だったので
残念ながら、心中で御神号と
黙とうのみを捧げた。

「火葬の儀」唱詞

あはれ「佐々木ヒテ大刀自」之霊神はや
なごりは永久(とわ)に尽きねども。
今し神みはかりにゆだぬれば。
み心やすらに神の御許に立ち帰りませ。
み心やすらに、神の御許に、立ち帰りませぇ。

金光教徒としての
諡(おくりな)
「佐々木ヒテ大刀自」之霊神
をも賜ったので、これを墨書して
父の眠る自宅のお社に合祀しようと
思っている。

++

休憩室では、
久しぶりの洋ちゃんを囲み
歓談に花を咲かせ、
しばしば大笑して
家内に窘められるシーンもあった。

彼曰く
「佐々木家は変わってないなぁ・・・」
と嬉しそうにする彼も
佐々木姓である。

父である兄が
「佐々木は、清和天皇の子孫の
清和源氏が先祖なんだぞ・・・」
と、誇らしげに言うと
「へぇ・・・」
と感心していた。

葬儀社の担当おばちゃん相手にも
「こんがりウェルダンでお願いします」
だの
「霊安室からストレッチャーで搬送する時、
ストレッチャーの脚が固定されてなくて、
転がり落ちそうになって
遺体が「イタイ!」って言ったんですわ…」
なぞと
ブラックジョークで笑わせていたが、
うちの家族たちもノリがいいので
笑いの場にしてくれていた。

+

一時半も馬鹿ッ話に
花を咲かせていたら、
呼び出しフォンが鳴って、
いよいよ収骨となった。

カミさんは、
「クルマに居る・・・」
と言うので
「駄目なの?・・・」
と訊くと
黙ったまま頷いた・・・。

三年前には
叔父ちゃんの収骨に立ち会った時、
やっぱり、叔母ちゃんが
「いやだぁ・・・」
と、腰が引けていたが、
親族に背中を押されて
「旦那様なんだから・・・」
と促されて、頑張ったみたいだった。

今回は、どうかな・・・と、
横目で視ていたら、
世話になった義姉なので
果敢に端を受け取って
私と手渡しの儀をしてくれた。

対面は、
兄と陽ちゃんの
四人での収骨だった。

47年前の祖父に始まり、
恩人・親友・祖母・父・叔父・・・と、
数えるほどしかないが、
いずれも厳粛な趣きであった。

+

斎場を後にすると、
一路、墓所のある信夫山に向かった。

今まさに、花見祭りの最中で、
護国神社の参道には
色とりどりの露店が出店しての
祝祭空間が展開していた。

どの顔々も
さくら同様
満開の笑みを浮かべ
観桜に酔っていた。

そんな中、
まずは、山の斜面を墓所とする
広大な敷地内にある
管理人室を探索せねばならなかった。

埋葬許可証を提出する為である。

幸い、斎場で
その電話番号を聞いてきたので、
兄が管理人とスマホでやり取りしながら、
洋ちゃんと三人で墓所内を
探し回った。

そしたら、指示通りの道順で
今にも壊れそうなあばら家を見つけ、
管理人のおばちゃんに無事、
受理してもらえた。

それから、我が家の墓地に向かい、
納骨の儀を執り行った。

・・・といっても、
いつもの墓参りと同じ手順だが、
今回は、墓の中に納骨するという
自分には初めての儀式であった。

いっちゃん若い43歳で
ミドル・サッカーチームに
所属する洋ちゃんが、
重い礎石を動かしてくれ、
ぽっかり空いた空間に
骨壺ごと収めるのかと思いきや、
そんな隙間はなく、
遺骨のみを注ぐのだというから
原始的で驚いた。

のぞき見えたのは
平成9年に亡くなった
父の白々とした遺骨だった。

そこに母のものを
被せるのである。

ようやく、遺骨どうしの
28年ぶりのご対面である。

その儀は
喪主として兄を指名し
「喪主代行として
長男としてやって・・・」
と、お願いしたら、
躊躇なく、骨壺から
バラバラバラ・・・と、
景気よく注いだ・・・(笑)。

86歳になる
光っちゃん叔母ちゃんが
洋ちゃんに向かって、
「下は、土になってるから、
こうやって、土に還るんだよ・・・」
と、年長者らしく
埋葬の儀を説明していた。

彼は、図らずも六人の孫たちの
代表になってしまったので、
六人分の線香を分けて
冥福の祈りを捧げていた。

たった五人の家族葬だったが、
寂しさなぞ微塵もなく、
これ以上に、心豊かな
納得のゆく葬送の儀は
なかったように思う。

祝詞もギター演奏もないのに・・・
である。

+

兄と光っちゃんが
「ご飯食べに行こう!!」
と意気投合し、
正午数分前になっていた事に
気が付いた。

山の麓にある、
正月にはリク坊一家と
スキーの帰りに寄った
『竹林亭』に向かって
一行は下山した。

テーブルにつくや否や、
兄が、俺が出すから
何でも好きなもん頼め・・・
と、太っ腹な家長ぶりを見せた。

72歳になった彼からは、
葬儀費用と入院費用分を
手渡された。

次男ながら
本家の墓守りをし、
老母を看取った事への謝意が
そうさせたのだろう。

前日には、ミッちゃんからも
「感謝」と記された
白封筒を手渡され、
自分とカミさんに十万ずつ頂いた。

全部、新券だったので、
自分は、そっくりそのまま
Tちゃん先生のお教会に
母親の人生へのお礼として
献納させて頂いた。

(親父の時は、
30万だったなぁ・・・)
と、思い出した。

ま、昭和生まれの
夫婦では、違ってもいっか・・・
と、呑気に考えた。

図らずも、
五人の食事会もまた
愉しく大盛り上がりで、
なによりの「直会(なおらい)」の
供養になった。

兄と洋ちゃんは、
今が盛りの名所・花見山に寄ってから
帰京するとの事で、
店の外で、互いの半日を
労い合って別れた。

自分は疲れたので、
送られて帰宅したが、
元気なマダムふたりは
意気揚々と土湯温泉に
出向いて行った(笑)。

その後、二時間も爆睡し・・・
夜からは、追悼プログラムの練習を
入念に行った。

+

今日は、午後から
デュオの最終練習があるが、
午前中には役所まわりをして、
戸籍の除票やら年金停止やら
諸々の手続きをしてきようと思っている。

カミさん共々
七日の忌引きとなったので、
「こういう事後手続きも
 含んでるんだねぃ・・・」
と、納得し合っていた。

 
 今のいのちあらしめ給ふ
  産みのみ親逝きまして
   今日まだ二日目



+++++















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亡き母の燃え給ふ音のなかにまじる鳥の声あり頬白の声

2025-04-08 06:39:19 | 家族

 

にはかにも
 すこやかにして
  やすらかに
   逝きましし母をおろがみまつる


亡き母の燃え給ふ音のなかに
 まじる鳥の声あり
  頬白の声



きょうは、午前9時から、
きのう、お国替えをされた御霊様の
ご遺体の火葬の儀がある。

コロナ死ということもあり、
家族数名による直葬である。

自分は、次男ながら、
本家を継いだので、
千葉から駆け付けた兄を
差し於いて、
『喪主』にならせて頂いた。

甥っ子の洋ちゃんも
わざわざ車で
東京から来てくれるという。

帰りは父親を乗せて一緒に帰るというので、
有り難い孝行息子である。

ほんに、我が家も、兄貴ん処も、
子ども達はみな親孝行、親族思いの
良い子に育ってくれたものである。

いずれも
亡き母の愛しき孫たちである。

***



四日後のリサイタルの
ソロの6曲を
急遽、追悼曲に変更した。

当初は、初公演の4曲があり、
いずれも、譜面を見て
演奏する予定だったが、
6曲全部を暗譜している「十八番」を
思いを込めてやる事にした。



どの曲も親族・親友・恩人の
ご葬儀で弾かせて頂いた、
曲である。

中でも、『花祭り』は
母親が唯一、好きだ・・・
と言っていた曲なので、
プログラムのトリ曲とした。

 



Tちゃん先生からも
メールがきて、
「むかし、コンサートで
『花祭り』があるから、楽しみ…
と言っておられたので、
ぜひ枕元で聞かせて上げて下さい」
との事だった。

なので、
スマホに当人が聴きに来た
最初で最後の2013年の
リサイタル・ヴァージョンを
聴かせてみた。

カミさんが、
「花祭り、聴こえる〜ぅ!?」
と耳元で訊くと、
コクンと頷いたので驚いた。

カミさんは、
たまたまじゃないの〜…
と、いうが(笑)、
それにしてはタイミングが良すぎて
その前後に頷きなぞしていない。

**

 散るさくら
  残るさくらも
   散るさくら


 裏を見せ
  表を見せて
   散るもみじ

 

 

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母逝く

2025-04-07 10:46:48 | 家族

『家族ライン』より

 おばあちゃんが、今朝方、7時20分に、安らかに、穏やかに、眠るように、旅立ちました……。
 ちょうど、さくらの満開の頃に、おじいちゃんが迎えに来てくれたみたいです…。

 葬儀は行いませんので、帰省した時に、お墓参りをして下さい。

……………

『介護ホーム所長』様へ

 今朝方、7時20分に、安らかに、穏やかに、眠るように、私と家内に看取られて、旅立ちました。

 さくらが満開の頃に、父が迎えに来てくれたみたいです。
 
 退所関連の事務・遺物処理につきましては、本日中に、寄らせて戴きますので、宜しくお願い致します。

 これまで、永らく、お世話になりまして、誠にありがとうございました。
 心より、お礼申し上げます。

……………

朝の5時半頃、
枕元で『金平糖の踊り』が鳴り
目が覚めた。

病院からの危篤の知らせだった。

おとついも、一度あり、
夜中に駆け付けたが、
その時は、呼吸が乱れ始めて
終末期に起こる
チェーン・ストークス呼吸の兆候が
現れ始めた時だった。

無呼吸状態と深呼吸が間欠的に
リズミカルに繰り返していた。

頻脈ではあったが、
心拍は安定していた。

今朝方、6時に
病室に着くと、
そこから、カウントダウンするように
呼吸数が漸減し、半時のうちに、
0になった。

 

そこから、110あった心拍数が
90、80、70、60、50、40、30、20…
と見事に減衰し、
最期に0になった。

それは、
見事なソフト・ ランディングだった。

数値を視認しながら、
自分も無事に降りたような心持ちになり、
(グッド・ジョブ❗️)
と、心のなかでサムアップした。

父はもとより、
親族の誰もが
彼岸で出迎えてくれた事を
確信できた。

「ご苦労さん。
ずいぶん、長生きしたこと…」
という、父の戯れ言まで
聴こえるようだった。

初めての看取りだったが、
羨ましいような
人生の最期だった。

自分もこうありたいなぁ……
とも、思わされた。

枕元には、
金光教の御神米を置き、
耳元で御神号奉唱を
ずっとさせて頂いたので、
それを聴きながらの
大往生であった。

この為に、
家族では自分だけが
母親からの信仰を
受け継いだような気もした。 

今日からは
家族一同を、ご霊徳でもって
見守る御霊様になられた。





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