台風10号は
やや東寄りに逸れて
直撃こそなかったものの
風雨はかなり激しかった。
*
金曜の晩に、
コケて倒れた…
とばかり思っていた老母が、
四日経っても
ベッドから起き上がれず、
食欲も回復しなかったので
近所の病院に相談してみたら
「うちでは診れないので、
どこ何処で・・・」
というので、あちこちに電話で
訊ねてみたら、結局、救急隊に
判断してもらった方がいい、というので
救急車の要請をした。
まだ、
台風の風雨が激しい時だったが、
連絡後、5分ほどで到着し、
手馴れた様子で3名の隊員が
シーツごと持ち上げて
小型担架で車に乗せてくれた。
救急車内で病態を聴取され、
移送先の受け入れを訊ねてくれて、
結局は、父親が末期癌で長期入院していた
大原総合病院に搬送された。
自分も大学時代に熱中症と
教員時代に尿管結石で
患者として救急車に
乗ったことがあるが、
介添え席に座ったのは
初めてだった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/af/b9bf5462bebf51b2f1ef8c12be4177a2.png)
19年前に、
父親の最期を看取るのに、
兄と母親と三人で狭い病室に
寝泊りしたことがあるので
馴染みの病院でもある。
父の一周忌の『偲び草』が
今、手元にある。
+++++
『夜の病室』
父は最期の入院から、およそ2週間後に息を引き取った。
その間、兄が前半の1週間、私がその後の1週間を病室に泊まりこんで付き添った。
二人とも、もちろん仕事はキャンセルである。
何とか父の最期を看取りたいという気持ちは二人とも同じだが、如何せん仕事をそれ以上休めない状況ではあった。
兄は後ろ髪を引かれるようにして千葉へ帰ったが、その前日に
「ここにいると、変な気になっちまうな・・・」
と言った。
彼が言わんとする意味が、私にはよく解った。
私も心のどこかで同じ気持ちが過ぎったからである。
それは、父には一分一秒でも長く生きていてほしい・・・。
しかし、意識がなく危篤の状態がずっと続いている。
まるで、出口の見えないトンネルに入ったように・・・。
兄も私も、自分の「疑心暗鬼」に苦悶したのである。
我われ以上に高齢で、ずっと看病しっぱなしの母には、もっと色濃い疲労が現れていた。
「こっちが先に参っちゃうかもしれない・・・」
と冗談を言いながら、自らも点滴を打ってもらいながら頑張っていたのだ。
母も最期を看取る、という気持ちの張りだけで持っていたようだった。
それでも、この“死を待つ部屋”にも平安がないでもなかった。
それは、我われが子どもの時以来、何十年かぶりでの「親子水入らず」の一晩があったからである。
深夜の狭い個室の病室に、父の弱々しい吐息と、母と兄たちの鼾(いびき)が唱和していた。
(ああ・・・。むかし、こんなふうにして、四人でひとつ部屋に寝た日々があったなぁ・・・)
と思った。
私はそっと病室を出ると、ひとり深夜の病棟を徘徊しながら、
(父はまだ生きてる。父はまだ、この世に生きてる・・・)
と何度も独り言ちた。
++++++
辛うじて医師の問いかけに
応答は出来る老母は
レントゲンやCT検査に廻された。
そして、青服の救急救命医が
廊下に出てきて、
「小脳に微細でない出血がありました」
と告げ、
「ここでは脳外科がありませんので、
センターの方に移送します」
とのことだった。
小脳の脳溢血と聴いて
驚いてしまったが、
大脳の言語野を侵さなかったから
応答はできても歩けなかったのだ、
と了解できた。
そして、再び救急車が呼ばれ、
病院間の搬送になった。
画像資料とカルテを持参した
若いドクターが一人付き添ってくれて、
大原医療センターの専門医に
引き継いでくれた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/d2/6f30af206a0b9abecf0dba352b03a51f.png)
見た目の若い中年女医が
CT画像を見せながら
手術は出来ないこと、
老年性の動脈硬化と高血圧性なので
さらに拡大出血によっては危険性があること、
などを丁寧に説明してくれた。
およそ2週間目途の入院で
経過観察し、その後、
リハビリ病院に
転院してもらうことになるという。
その後、
事務方の入院手続きや
看護師との医療措置の承諾書など
さまざまな書類を書かされた。
自分は重症の小児喘息で
小学時代に十数度も入院歴があり、
それ以外にも、赤痢、盲腸手術、尿管結石などで
何度入院したか分からないほどだが、
老母はこれが初めての入院である。
これまで、もっぱら看病専門だったが
とうとう老いて病んで倒れて
自らが入院ということになった。
*
四日前には、
エアコンのコンセントを抜こうとして
踏み台から転倒したので
体が痛くって起き上がれないのだろう…
とばかり思っていたが、
ドクターの説明では
「脳出血による転倒でしょう…」
ということだったので、
老母の愚行を責めて
業腹に感じていたのが氷解した。
倒れて三日目には
ベッドから起き上がって
自分でトイレに行こうとして
また転倒した時には、
帰省している大学生のナツホと二人で
ベッドに運んだが・・・。
その時でも、まだ、
何やってんだ…と、
いつもの“いらんことしぃが…”の延長で
「しっかり歩かんかいッ」と思ったが、
脳溢血だったのに歩いたり、
歩けないのを憤ったり・・・って、
考えたら、
ムチャクチャなことしてんなぁ・・・と、
笑えてしまった。
脳溢血患者に
しっかり歩け!
だって。
ギャハハ _(_ _)ノ彡☆バンバン!
入院書類の連帯保証人の
承諾をもらいに
叔母宅に寄った時も、
その話で大笑いになってしまった。
渦中のユーモアというか、
ブラック過ぎるかもしれないが…
心理的緊張の躁的防衛なのかもしれない
と思った。
老母は点滴療法で
補液・栄養・血圧降下剤で
まだ拡大出血の危惧もあるので
家族としては緊張下にはある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/24/949765f3310b3ceb4e2b7e860c3d354d.png)
台風休校といえど、
カミさんは出勤していたので、
1時間早退して
搬送先まで飛んできた。
5時過ぎて正面玄関が閉ざされ
人っ子一人いなくなった
玄関ロビーでくたびれ果てて
呆然としてたら、
救急入り口から入ってきた
カミさんの姿を見て
すごくホッとした。
気丈にしていたつもりでも
やはりどこか一人で
心細かったのだろう。
今日から
毎日、数ヶ月は
病母との付き合いが始まる。
退院後も介護・介助がいるだろう。
頼りになる
「連れ合い・パートナー」の
カミさんがいてくれて、
ほんとうに心丈夫で
有り難いと思っている。
まずは
命をつないで頂いたことを
神様にお礼申し上げ、
後遺症なく、回復させて頂けます様にと
ご神前でご祈念させて頂いた。
やや東寄りに逸れて
直撃こそなかったものの
風雨はかなり激しかった。
*
金曜の晩に、
コケて倒れた…
とばかり思っていた老母が、
四日経っても
ベッドから起き上がれず、
食欲も回復しなかったので
近所の病院に相談してみたら
「うちでは診れないので、
どこ何処で・・・」
というので、あちこちに電話で
訊ねてみたら、結局、救急隊に
判断してもらった方がいい、というので
救急車の要請をした。
まだ、
台風の風雨が激しい時だったが、
連絡後、5分ほどで到着し、
手馴れた様子で3名の隊員が
シーツごと持ち上げて
小型担架で車に乗せてくれた。
救急車内で病態を聴取され、
移送先の受け入れを訊ねてくれて、
結局は、父親が末期癌で長期入院していた
大原総合病院に搬送された。
自分も大学時代に熱中症と
教員時代に尿管結石で
患者として救急車に
乗ったことがあるが、
介添え席に座ったのは
初めてだった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/af/b9bf5462bebf51b2f1ef8c12be4177a2.png)
19年前に、
父親の最期を看取るのに、
兄と母親と三人で狭い病室に
寝泊りしたことがあるので
馴染みの病院でもある。
父の一周忌の『偲び草』が
今、手元にある。
+++++
『夜の病室』
父は最期の入院から、およそ2週間後に息を引き取った。
その間、兄が前半の1週間、私がその後の1週間を病室に泊まりこんで付き添った。
二人とも、もちろん仕事はキャンセルである。
何とか父の最期を看取りたいという気持ちは二人とも同じだが、如何せん仕事をそれ以上休めない状況ではあった。
兄は後ろ髪を引かれるようにして千葉へ帰ったが、その前日に
「ここにいると、変な気になっちまうな・・・」
と言った。
彼が言わんとする意味が、私にはよく解った。
私も心のどこかで同じ気持ちが過ぎったからである。
それは、父には一分一秒でも長く生きていてほしい・・・。
しかし、意識がなく危篤の状態がずっと続いている。
まるで、出口の見えないトンネルに入ったように・・・。
兄も私も、自分の「疑心暗鬼」に苦悶したのである。
我われ以上に高齢で、ずっと看病しっぱなしの母には、もっと色濃い疲労が現れていた。
「こっちが先に参っちゃうかもしれない・・・」
と冗談を言いながら、自らも点滴を打ってもらいながら頑張っていたのだ。
母も最期を看取る、という気持ちの張りだけで持っていたようだった。
それでも、この“死を待つ部屋”にも平安がないでもなかった。
それは、我われが子どもの時以来、何十年かぶりでの「親子水入らず」の一晩があったからである。
深夜の狭い個室の病室に、父の弱々しい吐息と、母と兄たちの鼾(いびき)が唱和していた。
(ああ・・・。むかし、こんなふうにして、四人でひとつ部屋に寝た日々があったなぁ・・・)
と思った。
私はそっと病室を出ると、ひとり深夜の病棟を徘徊しながら、
(父はまだ生きてる。父はまだ、この世に生きてる・・・)
と何度も独り言ちた。
++++++
辛うじて医師の問いかけに
応答は出来る老母は
レントゲンやCT検査に廻された。
そして、青服の救急救命医が
廊下に出てきて、
「小脳に微細でない出血がありました」
と告げ、
「ここでは脳外科がありませんので、
センターの方に移送します」
とのことだった。
小脳の脳溢血と聴いて
驚いてしまったが、
大脳の言語野を侵さなかったから
応答はできても歩けなかったのだ、
と了解できた。
そして、再び救急車が呼ばれ、
病院間の搬送になった。
画像資料とカルテを持参した
若いドクターが一人付き添ってくれて、
大原医療センターの専門医に
引き継いでくれた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/d2/6f30af206a0b9abecf0dba352b03a51f.png)
見た目の若い中年女医が
CT画像を見せながら
手術は出来ないこと、
老年性の動脈硬化と高血圧性なので
さらに拡大出血によっては危険性があること、
などを丁寧に説明してくれた。
およそ2週間目途の入院で
経過観察し、その後、
リハビリ病院に
転院してもらうことになるという。
その後、
事務方の入院手続きや
看護師との医療措置の承諾書など
さまざまな書類を書かされた。
自分は重症の小児喘息で
小学時代に十数度も入院歴があり、
それ以外にも、赤痢、盲腸手術、尿管結石などで
何度入院したか分からないほどだが、
老母はこれが初めての入院である。
これまで、もっぱら看病専門だったが
とうとう老いて病んで倒れて
自らが入院ということになった。
*
四日前には、
エアコンのコンセントを抜こうとして
踏み台から転倒したので
体が痛くって起き上がれないのだろう…
とばかり思っていたが、
ドクターの説明では
「脳出血による転倒でしょう…」
ということだったので、
老母の愚行を責めて
業腹に感じていたのが氷解した。
倒れて三日目には
ベッドから起き上がって
自分でトイレに行こうとして
また転倒した時には、
帰省している大学生のナツホと二人で
ベッドに運んだが・・・。
その時でも、まだ、
何やってんだ…と、
いつもの“いらんことしぃが…”の延長で
「しっかり歩かんかいッ」と思ったが、
脳溢血だったのに歩いたり、
歩けないのを憤ったり・・・って、
考えたら、
ムチャクチャなことしてんなぁ・・・と、
笑えてしまった。
脳溢血患者に
しっかり歩け!
だって。
ギャハハ _(_ _)ノ彡☆バンバン!
入院書類の連帯保証人の
承諾をもらいに
叔母宅に寄った時も、
その話で大笑いになってしまった。
渦中のユーモアというか、
ブラック過ぎるかもしれないが…
心理的緊張の躁的防衛なのかもしれない
と思った。
老母は点滴療法で
補液・栄養・血圧降下剤で
まだ拡大出血の危惧もあるので
家族としては緊張下にはある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/24/949765f3310b3ceb4e2b7e860c3d354d.png)
台風休校といえど、
カミさんは出勤していたので、
1時間早退して
搬送先まで飛んできた。
5時過ぎて正面玄関が閉ざされ
人っ子一人いなくなった
玄関ロビーでくたびれ果てて
呆然としてたら、
救急入り口から入ってきた
カミさんの姿を見て
すごくホッとした。
気丈にしていたつもりでも
やはりどこか一人で
心細かったのだろう。
今日から
毎日、数ヶ月は
病母との付き合いが始まる。
退院後も介護・介助がいるだろう。
頼りになる
「連れ合い・パートナー」の
カミさんがいてくれて、
ほんとうに心丈夫で
有り難いと思っている。
まずは
命をつないで頂いたことを
神様にお礼申し上げ、
後遺症なく、回復させて頂けます様にと
ご神前でご祈念させて頂いた。