『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

美蛾を救う・・・

2024-05-11 07:13:15 | ノンジャンル

 

 

きのうは
トンネルを3つも潜って、
山の学校へ赴いた。

自宅とは
500mの標高差があるので、
《0.6×5=3℃》の気温差がある。

勤務して1、2年目は、
春、秋でも
学校に着くと鼻水が出て、
寒冷地順化ができなかったが、
さすがに5年目だと、
脳のサーモスタットが学習して
適応できるようになった(笑)。

きのうは
前日に北海道で
桜が咲いたのに雪が降った
という寒気団が来ていたので、
学校も15℃という涼しさだった。

なので、
エアコンを23℃に設定した。

*

駐車場前の路上に
なにやら生き物らしい
緑色の物体を認めて、
車で轢かないように回避した。

降りてから近寄ってみると、
淡いエメラルドグリーンの
「モス《蛾》」だった。

おそらく、
日光で温まったアスファルトで
カラダを温めていたのかもしれない。

昭和中期の野生児で
元・生物教員だから、
大概の生き物は
手づかみできるので、
羽をつかんで空中に放すと
羽ばたいて舞い上がっていった。

画像検索してみたら、
《オオミズアオ(大水青)》
学名「Actias aliena」
(アクティアス・アリエーナ)
と解かった。

英語では「Luna moth(ルナ・モス)」
と呼ばれ、『月の女神』という
美名がつけられている。

その可愛さと美しさで、
ポケモンの『モスノウ』という
キャラにもなっているそうな。



*

連絡ボックスには
いつものように
お菓子が沢山入っていた。

始業前に
二、三つまんで、
執務記録の準備をした。

前日から
おなかがゴロゴロいってたので、
朝から胃腸薬を服用していた。

家に持ち帰った
薄味給食用の醤油スプレーと
胡椒瓶は
詰め直して持参した。

***

給食は
いつもながらの(笑)
袋麺で、
汁共々、レンチンして
熱々にしてから頂いた。

やっぱり、
薄味なので、
麺ツユを足して
ちょうどよくなった。

*

きのうは
ブラックコーヒーを持参するのを忘れ、
仕方なく、給湯室にあった
インスタントコーヒーを
牛乳に入れて飲んだ。

牛乳だけ飲むというのは
どうも苦手で、
いつも甘味のある
ブラックコーヒーを持参して
それで割って飲んでいる(笑)。

***

三日前に
ヤフオクに出品した
古楽器二品に
早くも十数名の
ウォッチリストがついてくれた。

どちらも落札されそうだが、
そうなれば、
また、副収入が入ってきて、
材料費や設備費を賄える。


《 Siciliana 》 Baroque Guitar 2024 「シチリアーナ」バロックギター2024 (youtube.com)


《 Siciliana 》Renaissance Guitar 2024 「シチリアーナ」ルネッサンスギター2024 (youtube.com)

 

 

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耳かきスコープ「初使用」

2024-05-09 08:16:13 | ノンジャンル

ヤフオクで
安価で落札した
フットマッサージャーが届いたので、
将棋を観ながら試してみた。

そしたら、
単純な機能で
しかもソフト過ぎて、
これじゃ、物足りないなぁ・・・
という代物だった。

20年以上も前にも
家電店で
振動タイプのフットマッサージャーを
買ったことがあり、
これはしばらく使って、
今は押し入れん中である(笑)。

それでも、
今回のやつは
フクラハギや腕にも使えそうなので、
しばらくは使えそうである。

**

むかしは
数千円以上した
ファイバースコープ・カメラの
耳かきセットが、
ヤフオクで送料込みで750円だったので
落札してみた。

パソコンで起動ソフトを
ダウンロードして用いるが、
けっこうな解像度で、
指であてずっぽうに
グリグリやるよりも
確実に掻き出すことができた。

ただ、自分では
耳の奥まで細い先端を入れる
というのには抵抗があって、
鼓膜のかなり前までしか
怖くて挿入できない。

ついでに、
鼻ん中や喉ん中も
見てみたが(笑)、
けっこうなもんだった・・・(笑)。

それと、
楽器製作でも
非破壊的に音孔から
内部の力木の剥がれなどの
視認にも使えそうである。

**

コンサートが終わったばかりなので、
しばらく指休めをしていたが、
また、仕事の合間に、
勉強している曲を
アナリーゼしたり
運指をつけたり・・・と、
ギター音楽への関わりを再開した。

殊に、バッハの研究は
50年来やっているが、
その深遠さ、精緻さは、
【汲めども尽きぬ泉】
の如しである。

*

今日は
リク坊の4歳の誕生日なので、
オバーブ(カミさん)は
可愛いお洋服と好物のお菓子を
送ったみたいだが、
ジイジは去年に続いて
ギターによるビデオレターにした。

去年は
『ハピバスデ』だったので、
今年は
『ミッキーマウス・マーチ』を
編曲して録画した。

ギターイズムに則り
編曲したら、
上級レベル並みの
難しさになった・・・(笑)。





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お祭り日

2023-10-09 08:27:55 | ノンジャンル

 

おとついから
市内いちばんの
「お祭り」が始まった。

市内の生まれ育ちなので
子どもの頃から
年に一度の「祭り日」で
街全体が活気づき、
子ども心にもウキウキするのを
禁じ得なかった。

なので、
前期高齢者となった今も
この時季は
どこかソワソワ感があって、
いちどは露店の並ぶ
稲荷神社に出かけたくなる。



マネチとソワレのように
昼と夜では
露店や人の輝きも異なるが、
きのうは、正午前に出てみたが、
もうすでに近隣の駐車場は
どこも「満車」状態で、
やや離れた処から歩くようになった。

もともと、病み上がりの
散歩のつもりで出かけたので、
それでもよしだったが、
後々、歩き疲れて
帰宅後にすこし具合が
わるくなってしまった。

**



夜には
数十基の連山車(れんだし)が出て、
その賑わいも最高潮になるが、
今年は、気管支炎の病み上がりと
20針も縫ったばかりの術後なので
人込みにもまれるのは
避けることにした。

今年は、
コロナ禍の規制明けとあって、
3年ぶりに「お化け屋敷」が
掛けられた。

そして、年季の入った
呼び込み婆さんの
しわがれ声を久しぶりに耳にし、
(あぁ。お祭りだなぁ・・・)
という幼少期の時めき感が
喚起された。

かつては、
この両サイドに
「見世物小屋」や
オートバイ・サーカスや
像使いなぞも来て
賑わっていたものである。

*



いつもは
あまり関心のない
御神楽だが、
稚児たちが
練習したとみえ、
真剣に舞っているのを観て、
これもいいものだなぁ・・・と、
思えるようになった。

*



「お祭り」になくてはならないのが、
「金魚すくい」と「射的」である。

ダンゴ三兄弟が
幼い頃は、
ひとり二千円の「小遣い」で
好きなものをやらせていた。

フミとナッちゃんは
射的好きで、
よく景品をせしめていた。

きのうも
子ども達の輝くような顔をながめ、
ほのぼのとした気持ちになった。

これは、
ディズニーランドやUSJのような
テーマパークでは見られない、
フォークロア的な
土着の日本的な
「祝祭空間」と「ハレの時間」への
快楽的な通過儀礼なのだろう
と思われる。

**



トルコ人のケバブや
ロシア人のピロシキの
露店も出ていて、
国際色豊かになってきたのは
昔の露店風景とは変わってきた。

*



毎年、新たな露店の登場を
楽しみにしているが、
今年は、「10円パン」
「ちいかわ」「ハギーワギー」
「ビンゴ・スマートボール」
などが目新しかった。

どこぞに、
露店を網羅したサイトがあるか、
いちどググッてみようとも
思っている。

きのうは
100店ちかく出店されていたが、
さすがに「ハンドスピナー」や
「ライトセーバー」はなくなった(笑)。

**

帰路、生まれた柳町を通ったら
かつて「小若」のハッピを着て
曳いた山車が見れた。

南町の山車も
フル装備で
夜の出番を控えていた。

♪ やーれ、やれ、やれ ♪
という
子どもたちの曳き手囃子と
♪ ドンカ、ドンカ・・・ ♪
という太鼓のリズムが
三つ子の魂に
確かに入っており、
目を閉じるとその風景が蘇る。

末期がんで亡くなった
父の最後の
走り書きのような落書きが、
この稲荷神社だったので、
彼にとっても
心の原風景だったのだろう。



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偉人・小野田 寛郎

2023-09-24 10:06:43 | ノンジャンル

 

 

 

「私的五連休」も
今日でおわりだが、
風邪が悪化して
二日も熱が出て
起きられなかった。

ブログを二日も
書けなかったのは、
ここ10年では初めてかもしれない。

37.7℃ほどの熱だったが、
体中がバラバラになるほどの
関節痛で、それこそ、
【欲も得もなくなる】
というほどの
病み具合だった。

まるまる三日間寝込んでいたが、
それでも、まだ、完治したとは
言い難い。

今朝は
網戸で開け放していた書斎は
なんと17℃まで下がっており、
梅雨寒む以来、はじめて
ストーヴを炊くほどだった。

おとついの深夜は
よほど具合がわるく、
寝ていて寒気がするので、
夏用の夜具をすべて
毛足の長い冬用に替え、
薄地のタオルケットから
厚地の毛布にして寝直した。

それでも、室温は
エアコンで23℃で
一定にして、常に温度計も
チェックしているのだが、
風邪による自律神経失調のせいか
快適なはずの23℃でも
悪寒がやまなかった。

37.7℃くらいの発熱でも
悪寒がすることを
初めて体験した。

きっと、酷暑の間に
暑熱順化していた神経系・内分泌系が
平温順化にシフトダウンするのに
一時的なシステム改変の負荷が
かかって、体調不良として
反映されるのかもしれない。

まして、今朝などは、
いっきに17℃まで低下して、
一日の寒暖差は7℃以上にもなる。

*

土曜の朝一で
行きつけの近所の耳鼻科に
上気道炎を診てもらおうと
出向いたのだが、
開院時の9時になっても
開いてなかったので
怪訝に思いながらも引き返した。

同じく、当てが外れた
同輩と思しき御仁がおられ、
互いに
「貼り紙もなくて、
変ですねぇ・・・」
と、首がかしげながら
駐車場を後にした。

帰宅して、
暫くしてから、
カレンダーが「秋分の日」で
祝日になってるのに気が付き、
やっと合点がいった。

変ですねぇ・・・と、
訝しさを抱いて帰った
曜日の観念のない
ジサマのほうが
まさしく
変ですねぇ・・・
だったのである(笑)。

***

そんなんで、
発熱と体痛には
市販のイブプロフェンで、
喉の腫れにはトローチで、
喘鳴にはシムビコートで、
なんとかやり過ごしてきた。

今朝は、
8時からカミさんに
信夫山まで墓参に連れられ、
痛み止めを呑んで
やっとこさ行ってきた。

ブログを書かんと
書斎に入り、
ストーヴを付け直すも
なかなか20℃にもあがらず、
セーターと厚手のジャージズボンを
重ね着して、尚且つ、ひざ掛けで
肌寒さを凌いでいる。

これでは、
暑熱順化から平温順化どころか、
一挙に亜寒冷順化しないと
カラダが悲鳴をあげてしまう。

***

たいして食欲もなかったので、
カミさんが買ってきてくれた、
好物のオハギやブドウ、
イチジク、ゼリー、
慣熟バナナで
栄養を補給していた。

三日のあいだ寝たきりで、
YouTube三昧していたが、
内科医のサイトで、
蜂蜜の抗菌作用と鎮咳作用が
処方薬をも凌ぐという医学論文が
多くあると摂取を奨めていたので、
朝・昼・晩と
備前焼のミニ・ミルクピッチャーに
一杯を服用していた。

それでも、
今週は三日の出勤日があるので、
明日は、出勤前に
耳鼻科に寄って
上気道炎のクスリを
処方してもらおうと思っている。

***

きのうは、
YouTubeで、
小野田さんに関する
ほとんどすべての動画を視聴し、
かつ、2021年の映画
『ONODA 一万夜を越えて』も
アップされていたので観てみた。

小野田さんが
ルバング島で発見され、
日本に29年ぶりに帰国したのが
1974年だったので、
自分が高3の頃で、
その様子はリアルタイムで見ている。

ジャングルから
タイムスリップしてきたような
旧日本兵の軍服姿で、
衆人に囲まれたなかで
キリリとした鋭い眼光で
スパリと敬礼した時には、
『眼下の敵』でクルト・ユルゲンスが
敵艦長に敬礼した時と同じくらい
感動的だった。

 



世界も軌跡の救出劇の
そのシーンに感銘を受け
リアル「ラスト侍」
と喧伝された。

当時は、その後の事情を
詳しく知らなかったが、
今般、病床の暇に飽かせて
逐一見てみたら、
その後の半生もまた
激動の生涯であられたことが
わかった。

51歳の
現役将校(少尉)として
世界にその姿を現した時の
猛禽のような眼光は、
2014年〈平成26年〉に
91歳で亡くなる晩年には
穏やかな好々爺のそれに
変じていた。

そして、
当時の自分の映像を振り返り、
「あれは人間の眼ではなく、
ケダモノの眼ですね」
と語ったという。

彼が、
帰国後、間もなくして、
ブラジルに移民したことは
当時、なぜだろう・・・と、
ろくろく追求もしなかったが、
その後日談も
多くのインタヴュー番組により
明かされていた。

それは、
当時の田中首相から渡された
慰労金100万と
全国から集まった1億相当を
すべて靖国神社に寄贈した事を
低脳なマスゴミに
「軍国主義の亡霊だ」
と叩かれて、
反論するのも嫌になり
辟易されられての
「国捨て」だったという。

90近い老母とも
今度こそ二度と
死に目に遭えない事をも覚悟して、
兄が移民していたブラジルへ
無一文で飛んで、
裸一貫で借金して
荒地を開梱して
30年後には立派な牧場主にまでなった。

その間には、
その侍の生き方に共感した
賢婦人と結婚もし
生涯の伴侶をも得た。

51歳からの40年間を
現代文明の時代に生き、
多くの著作を残し、
また、公演もし、
度々、帰国しては
『小野田自然塾』で
のべ2万人もの子どもたちに
キャンプを通してサバイバル術を授けた。

その切っ掛けとなった
衝撃的な事件は、
1980年の予備校生による
金属バット両親殺害事件だったという。

「なぜ、彼は、
ハタチにもなって、
家を飛び出さなかったのか・・・」
と、その自立性のなさ、
精神エネルギーの
はけ口の間違いを指摘しておられた。

教育者で地元政治家の父、
厳格な教育者で
「家名を穢すような事態になったら
これで自決せよ」
と短刀を出征前に渡した母に
育てられた小野田さんは、
そのシガラミを断ちたくて
17才にして家を飛び足して
満州で商社マンになっている。

長兄は東大医学部から
軍医の中佐に、
次兄は東大経済学部から
陸軍の大尉に・・・という、
エリート家族にあって、
自身は勉強ができなかったので、
おちこぼれて商社マンになって
ハタチで徴兵されるまでは
「前倒し」で遊びまくったという(笑)。

奥様の話では、
80歳を過ぎても
電話番号は一度聴いただけで
ぜったいに忘れなかったというから、
中野学校(諜報員養成所)で
諜報将校として鍛えられた訓練もあるが、
もともと、家系的に地頭も良かったのは
間違いないだろう。

こんな偉人、大人物である
小野田さんが、心底怒っていたのが、
小泉総理が
「命がけで解散する」
と言ってるなら、
「命がけで靖国を参拝しろ」
という事と、
戦没者慰霊祭で
「心ならずも戦地に赴いた」
という弔意に
「誰もが国のため命を捨てる覚悟だった。
心ならずも、ではない」
という事だった。


また、広島原爆記念碑の
「過ちは繰り返しません」
というのは、アメリカが言うべき
言葉だろう・・・というのである。

げに、ごもっともであった。

従軍慰安婦「問題」についても、
元将校として、貴重な証言をしておられ、
朝鮮の「置き屋」「売春業者」が
兵隊相手の商売としてやっていたもので、
軍の符牒で「朝鮮銀行に貯金してくる」
と言ったそうな。

慰安婦の存在は
戦地での強姦・暴行という
軍規に反する蛮行を防ぐために
「ガス抜き」として必要であり、
軍とは契約関係にあって、
その施設を使用するにあたっては
警備防護していたという。

当時の朝鮮の慰安婦は
現在の価値に換算すると
ひとり数億円にも相当する
荒稼ぎをしていたという。

なので、韓国の
元慰安婦やその援護団体たちが
少女の慰安婦像をデッチあげて、
世界中に「性奴隷」と喧伝しているのは、
まったく筋違いであると明言されていた。

**

クズみたいなマスゴミや
カスみたいな政治屋もいる日本だが、
それでも、小野田さんは
日本を愛しており、
この国を招来を憂いておられた。

****


豊穣の秋の実りを送ったら
リク坊から満面の笑みと
「ありがとう、おバーブ」
という動画が送られてきて、
病身のジイジもホッコリさせられた。

ほんに、孫は心のクスリである。

 

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