『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

魔法が使えたら・・・

2020-12-31 08:02:00 | TV・ドラマ
昨晩は
偶然にも
カミさんが視たいと言って
テレビをつけたら
『アーヤと魔女』という
ジブリものだった。

巨匠・宮崎 駿監督の
息子の吾朗氏による作品で、
『ゲド戦記』や
『山賊の娘 ローニャ』も
視ているので
確かなものだろうという
期待を抱きながら視聴した。

アニメでなく
ピクサーのようなCGで
少しばかり違和感があったが、
主人公の少女の表情変化が
段々とチコちゃんに見えてきた(笑)。





原作は、
『ハウルの動く城』と同じ
英国のダイアナ・ウィン・ジョーンズ
というので、
なるほどの魔法ファンタジーである。

作者は2011年に
76歳で没している。

児童文学ではお馴染みの
「孤児院の少女」が
かつて母親とバンドを組んでいた
魔女と魔法使いに引き取られ、
ちょっとした試練を体験した後に
望みの生活を手に入れ、
結末では母親が会いに来る、
というプロットである。

お決まりの
話す「黒猫」という
サブキャラも登場する
"鉄板"魔法少女物である(笑)。

ファンタジーにお決まりのアイテム
「魔法」とは
現代人にとって何を意味するのか。

このコロナ禍で、
誰もが「魔法」が使えたら、
立ち処に世界中の感染拡大を
収束させたいと思うに違いない。

空を飛んだり、
月面に降りたり、
小惑星から岩石を採集したり・・・と、
不可能を可能にしてきた
現代の魔法が
「科学・技術」である。

それは、
公衆衛生の領域では
天然痘を絶滅させたりもした。

しかし、
新たな敵「COVID-19」には
苦戦を強いられている。

敵もゲームの進化キャラの如く
次々と変異し、強力化し、
あたかも人類を
絶滅させんとばかり、
燎原の火のごと拡大している。

これまで、
人類によって絶滅させられてきた
幾万もの「種」があるが、
今尚、絶滅危惧種は
動植物で100万種もある
と言われている。

あたかも、それらの
高等生物の怨念を汲んでのように、
下等生物以前の原始生命体のウイルスが
「万物の霊長」なぞと嘯いている
"人間様"を死の淵に追いやってるのは
なんと皮肉めいたハナシだろうか。

生物学科の学部生時代に、
自主ゼミで「生命」の定義を
「Active maintenance of
normal and specific structure」
と知り、爾来、
生物教員時代も高校生たちに
そう教えてきた。

これは
「正常で特異的構造の積極的維持」
と訳されるが、
正常に特異的に代謝し、
自己増殖できるもの、
を意味している。

さらに、詳しく、
例を上げたら
一時間の生物授業になってしまう(笑)。

ウイルスは、
この定義に従えば、
「非生物」的存在となる。

ただし、
細胞を構成単位とせず、
自己増殖はできないが、
遺伝子を有するという、
非生物・生物両方の
ハイブリット特性を持っている。

現在、発見されてるのは
3万種にすぎないが、
未発見のものもまだまだ
あるはずである。

あえて、擬人化すれば、
彼らは、地球上に
最古のDNA生物が出現した
38億年前より以前の
RNAのみを有する原始生命体の
プロト・タイプという説がある。

現在では、
有核細胞が完成後に
遺伝要素の一部が
細胞外に飛び出した
「さまよえる遺伝子」が
ウイルスの正体だ、
という説が有力であるが…。

いずれにせよ、
ウイルスは「非細胞性生物」で、
ヒトや他の動植物とは
全く異なる「生物学的存在」なのである。

感染することで
宿主の恒常性に影響を及ぼし、
病原体としてふるまうことがある。

人類が異常増殖して、
地球中に拡大分布して、
自然を破壊する様を
80年代頃は、癌に例えられたが、
これを、ウイルスと置き換えても
今ならば、腑に落ちることだろう。

ウイルスの語源は、
「毒液」「粘液」を意味する
ラテン語の「virus」で、
古代ギリシアのヒポクラテスが
「病気を引き起こす毒」
として用いたようである。

***

『アーヤ』から
またまたコロナに脱線したが(笑)、
【現象から真実を引き出す】
というトレーニングを
サイコセラピスト(心理療法家)の
基礎訓練として若い頃から
さんざんやってきたので、
ついつい現象学的接近法で
物事を観て記述してしまう癖がある。

でも、それが、
サイコアナリスト
(心理分析家)の
使命だとも言える。

ゲシュタルト心理学に
「プレグナンツの法則」というのがあって、
人間は、あるランダムな布置をも
パターン化したものとして
知覚する傾向があるという。

ユング心理学では、
「コンステレーション」(布置)
というが、元々は
「星座」の意味であり、
星のような点がいくつか集まると
そこに「ひしゃく」や「サソリ」のような
形を見出すのである。

これに、
シンクロニシティ(共時性)
の原理を重ね合わせて、
現在の「現象」「症状」には
どんな意味があるのか…
という事を探っていくのが、
分析心理学の向社会的な
存在価値でもある。

それは、
答えのついてない問題集の
正解を探し当てて、
確信を得る、得心を得る、
という心的作業でもある。

***

またまた
『アーヤ』の話から
脱線した(笑)。

こういう脱線手法は、
ユンギャン(ユング派)では、
周回(circumambulation)や
拡充法(amplification)、
自由連想(free asotiation)
ともいう。

あたかも、
京都にあるような
池泉回遊式庭園を
グルグル周回しながら、
いろいろと思いを致し、
「考察点(思考素材/アイディア)」を
一つずつ増やしていって、
そのマッピングから
何がしかの「星座」のような
形が浮かび上がってこないか・・・
というのを待っているのである(笑)。

***

『アーヤと魔法』ねぇ・・・(笑)。

なんだか、
オシリ痛がジワジワきたので、
もう、どーでも、いーや(笑)。

大晦日なんで、
今日は、一年の締めくくりに、
じっくり、取り組もうっと・・・(笑)。

まずは、
飯、めし・・・っと(笑)。


+++++++++


(昼食休憩)れす!

 (˙◊˙)ゞ





こんなフレンチを食べた・・・

(漱石の『夢十夜』風に・・・笑)

毎年、大晦日は
朝一の開店時に、
カミさんと年越しと正月の
買い出し隊に出かけるのを
恒例行事としている。

今年は、
だーれも帰省しないので、
二人っきりの
寂しい正月である。

なので、
買い物量も
例年の半分くらいだった。

ランチ用素材には、
170円のタイ産合鴨を
買ってきた。

カミさんのも
作ってあげようとしたら、
要らないという(笑)。

お肉も、フレンチも
あまり好きでないので(笑)、
振舞われるのも
メーワクのようである(笑)。

ひとりで、
もくもくスコーンを食べていた。

一度も使ったことのない
花柄の大皿を引っ張り出したら、
カミさんの大学卒業記念で
もらったものだという。

こういった絵柄のプレートは
フレンチでは
実に使いにくい。

なので、
絵を殺さないように、
塩胡椒ソテーしたカナール(鴨)と
甘酢煮サルシフィ(ごぼう)を
シンプルにセルクル(丸型)で
ドレッセし、
レモンオリーヴ油をかけ回した。

・・・思えば、
今年もようも
"ぼっちフレンチ"を創っては
撮影&アップしたもんである。

今年だけのファイル内の
画像をカウントしてみたら、
なんと78品もあった。

一年の1/4弱も
フレンチ創っていた計算である。

ちゃんと、
お勤めにも週4で出てるので、
オフ日には
ほとんどフレンチ創りしてる
ことになる。

病膏肓に入る…
だなぁ・・・(笑)。

ま、いっか。

老い先、短いことだし・・・(笑)。

楽しんで創れて、
美味しく食べれたら、
もんくないもんねぇ・・・。

カミさんなんか、
飽きあきして、
"ネコまたぎ"で
喜びもしやせんわい(笑)。

 ᕦ(ò_óˇ)/゛




買い物帰りに、
またまた、
ツタヤの外盤コーナーで
ワンコイン物を買ってきた。

今日は、
『フレスコバルディ・レガシー』
という珍品ピアノ曲で、
現代の作曲家たちによる
フレスコバルディへの
オマージュ作品集である。

ジローラモ・フレスコバルディ
(Girolamo Frescobaldi, 1583-1643)
は、イタリアの初期バロック音楽の作曲家。

声楽曲と鍵盤楽曲に
佳作が多い。

自分のレパートリーにも
『アリアと変奏』という
ギター独奏曲がある。

カミさんも、ついでに、
大バッハの長男・
ヴィルヘルム・フリーデマンの
トラベルソ・ソナタを
貯まってたTポイントを使って
160円で買ってきた(笑)。

帰りの車中で聴きながら
「いい曲だねぇ・・・」
と、感心していた。

CDなので
新品同様の劣化してない音源で、
160円というのは
いくらなんでも安すぎである(笑)。







全巻揃えている
美術漫画の傑作
『ギャラリーフェイク』の
最新刊が平積みになってたので
買ってきた。

これから、
午睡前にゴロ寝しながら
たのしく読むとしよう(笑)。




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女性的解決

2020-12-30 06:09:00 | 映画
先日、久しぶりに、
TV放映の『ナウシカ』を観た。

劇中に出てくる
腐海と瘴気とマスクが、
コロナ禍の今を
連想させるものがあった。

深層心理学的に解釈してみると、
「死と再生」がテーマである。

主人公は、
まだ少女の面影を残す
「姫様」と呼ばれる王女なので、
そのヒロインの
『貴種流離譚』でもあり、
「英雄神話」の類型でもある。

彼女には、初めから母がいなく、
病床の父は、突然の侵略者によって
亡きものにされる。
この時のナウシカの
「怒り」と『攻撃性』が
ハンパない(笑)。

アッ、という間に、
5、6人もの敵兵を
カギ棒のような武器で
打ち殺してしまう。

敵副将をして、
「あ~あ。
こんなに殺しちまって・・・」
と呆れもされる(笑)。

それでいて、
可愛い顔して
「自分の中の怒りが怖いの・・・」
と、メンター(導師)に
慄(おのの)いてみせる(笑)。

キツネリスに指を噛まれて
血を流しても、
やがて心を開かせて
相棒のようにしてしまう。

ビルのような巨大な虫・
王蟲(オーム)とも
金色の触手を介して
「心」を通じ合わせる。

ナウシカに対抗する
ヒール役の女性として
侵略者のクシャナもまた
王女である。

どうやら腐海のムシに
左腕を喰われ、
さらに、おぞましい傷跡も
カラダにはあるらしく、
それらを激しく憎み
絶滅させんと敵愾心を抱いている。

軍隊を率いて
ナウシカの父を殺し、
弱小集落の「風の谷」を
併合せんとするが、
ナウシカに命を救われたり、
彼女の「奇跡的な復活」を
目撃することで、撤兵することにし、
自身もまた、何がしかの
「死と再生」の通過儀礼を経験する。

物語は「勧善懲悪」的で
「自然礼賛」的で、
ともすれば、陳腐な
「予定調和」的でさえある、
といった批判もできそうだが、
<人の死>や<人類の絶滅>
といった負のイメージも包摂しており、
重層的で多義的な良質の
ファンタジーに仕上がっている。

劇画的アニメとしては、
久石 譲の劇伴が
見事にオペラ音楽のように
作品に重厚感を与えている。

「ナウシカとコロナ」を
対置させてみたら、
自然を蹂躙してきて、
尚且つ、紛争、格差、差別など
ちっとも真善美聖に目覚めない
人類社会の荒廃ぶりを正すには
ガラガラポンで、
一度すべてを無に帰すしかないのか…と、
ペシミスティックに考えてしまった。

そんな連想をしてたら、
コロナ・ヴァイルスたちが
圧倒的数で押し寄せて
都市や人間社会を
呑み込むように破壊し尽くす
暴走するオームの群れのようにも
感じられた。





もひとつ気付いたのが、
王女と王女の闘いの帰結が、
どちらも「怒り」と
「憎しみ」を超えての
「許し合い」という
女性的解決である。

ここに、
産業革命来、
男性社会が自然を破壊し、
政争、戦争を繰り返し
社会そのものをも
破壊しようとしている事への
処方箋が提示されている。

自ら子を産む女性は、
「自然的存在」なのであり、
それは「共存・共栄」という
生態系維持とあらゆる生き物にとっての
ユートピア形成には欠かせない
ガイア(母なる地球)なのであり、
真善美聖を体現させる性向なのである。

それに対して、
男性とは「社会的存在」に過ぎない。

『ナウシカ』に描かれていたのは
女性の中に潜む
「劣等機能」としての
粗野な男性性でもあり、
それは攻撃し、殺し、支配し、
蹂躙するもの・・・である。

男性の中にも
劣等機能としての女性性はあるが、
ユングはそれに「アニマ」と命名し、
それは「プシケ」すなわち、
「たましい・息・風」でもあり、
心的機能としては「創造性」や
「フレキシビリティ(柔和性)」を
もたらすものとされる。

ナウシカという
闘う戦士としてのヒロイン像には、
益荒男(ますらお)的な
「おとこまえ」ぶりが
感じられるだろう。

これは、闘う女神アテナイの
元型的イメージでもあり、
王族にして美的な少女が
困難に遭遇して
メンター(導師)に支えられ
「夜の航海」また「冥界」を
旅して、再び、現生に帰還する
という「英雄神話」の元型でもある。






『チェザーレ』の
12巻目がAmazonから届いたので、
これから、ゆっくりと
味わって読もうと思う。

ルネッサンス期の
イタリアの作曲家の音楽を
BGMとして聴きながら、
ビスコッティをおやつに
エスプレッソや
キャンティ・ワインを味わいながら
時空ワープ感覚をも
楽しんでいる。





散歩の目的として、
近所のツタヤまで出向いては、
ワンコインの古楽CDを一枚
買っている。

きのうは
イタリア・バロック期の
フランチェスコ・ジェミニアーニ
(Francesco Geminiani, 1687-1762)
のチェロ・ソナタを買ってきた。

使用楽器も1700年の
ガット弦の古楽器で
とても床しい音色がした。

ウィキに拠れば、
ジェミニアーニは、
作曲家・理論家と同時に
ヴァイオリンのヴィルトゥオーソでもあり、
英国の王侯貴族からの
庇護も受けている。

作曲家としては、
コレッリからヘンデルをつなぐ
存在であったようだ。

ドメニコ・スカルラッティの父
アレッサンドロや
アルカンジェロ・コレッリに
師事している。




古典絵画の雰囲気で描いた
油彩の静物画が
乾燥のあいだ放置してある。

この冬休み中に
すこし細部を描いて
完成に近づけたい。




ふだんは
お目にかからない
高級食材が
年末年始のスーパーには並ぶので、
フレンチ素材を物色しに出かけてみた。

合鴨のキュイソー(腿)があったので、
ソテーにしてみた。

料理には合わないので
あまり使う事のない
アズール系のドレッセに
挑戦してみた。

青系は本来、
食欲を減じさせる色だが、
食材を補色効果で
引き立てるには
有用なことに気が付いた。

眼には鮮やか過ぎる
コントラストだが、
これはこれで
有りかもしれない。

白地のプレートのように
余白を活かすよりも、
ゴテゴテとゴージャスに
盛り込むほうが
合ってそうだ。





枝付きレモンを
カットしたので、
その枝をも
ドレッセに利用してみた。

ジョーヌ(黄色)と
ヴェール(緑色)の
組み合わせが活きる
クレーム・ブリュレ
をデセールにしてみた。



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新年飾り

2020-12-29 07:24:00 | 健康
12月だけで、
市内のコロナ感染者が
300名弱となり、
ついに、近所にある
老人ホームでも
クラスターが発生した。

80~90代も
感染したというので、
その重症化が懸念される。

斯く言う自分も、
BMI=26の軽度肥満で、
CKD(慢性腎臓病)中等度、
A1C=5.9で糖尿病の境界値、
そして60歳以上という、
ハイリスクなので
感染したら、重症化と
致死の懸念がある。

コロナに感染すると、
ハイリスク者では、
サイトカイン・ストームという
免疫暴走が起こり易くなり、
それにより炎症が悪化したり
血栓ができやすくなって、
重症化して致死率が高まる。

サイトカインは、
細胞から分泌されるタンパク質で、
体がダメージを受けると
細胞に信号を送って
細胞を増殖させたり
分化させたりして
生体防御をはかる。

肺がウイルス感染すると、
サイトカインが体内の細胞に
炎症が起こったことを知らせ、
体内防衛軍である免疫細胞たちに
体を守るよう指令を出す。

炎症が進むほど、
サイトカインも大量に分泌されるが、
ところが、基礎疾患を有すると、
細胞が暴走して
サイトカイン分泌が
制御不能になることがあり、
その結果、過剰防衛反応で
戦地を拡大して
正常細胞までも傷つけてしまい、
さらに過剰な炎症が起こるという
悪循環に陥る。

その結果、最後には、
多臓器不全となって
死に至るわけである。





玄関室礼を
クリスマス飾りから
やっと新年飾りに改めた。

どの掛け軸にするか
迷ったが、
コロナ禍の今、
この『一期一会』が
もっとも相応しく思われた。

そう。

今、この時を、
真剣に、大切に
生きることである。

そして、
今こそ『無事』ということや、
当たり前の日常が
どれほど大切で
有り難かったかに
思いを致すべき時なのである。

3.11来、
『人生 深生き』
をライフ・モットーとしてきた。

コロナ禍の今、
もっと真剣に一分一秒を
生きなければ…と、
『人生 マジ生き』
という心掛けでいる(笑)。

もっとも、
己のが人生を
ふざけて生きてる御仁も
少なかろうが…(笑)。





来年の干支は
「牛」なので、
小学生の頃、ナッちゃんが
校外学習の絵付け体験で作った
「垂れ眉」で「眼テン」の
ユーモラスな赤ベコを
飾った。

福をもたらす
縁起物なので、
コロナ禍を寄せつけず、
家族を護ってもらいたい
という祈りと願いを込めて
玄関番とした。







ついでに、
茶室の置き床も
『雪月花』の軸と
「正月飾り」に改めた。





除夜の越年茶事と、
元旦の初釜のための
道具組も「赤」を基調に
揃えた。







日曜に
新潟から遊びに来られた
大学ギター部の先輩
ヒロミさんから
銘酒の一升瓶と
オシャレな「カヌレ」を
手土産に頂戴した。

きのうはさっそく、
粉糖をパウダー・スノーに見立てて
デセールの一皿に
仕立ててみた。

「anelé」は
フランスはボルドー発祥の
菓子である。



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お役に立たせて頂く

2020-12-28 07:12:00 | 趣味
日曜のきのう、
大学ギター部先輩の
ヒロミさんが拙宅に
遊びにきてくだすった。

ご子息が
ギターをやってみたい、
と仰ったのを聞いて、
まずは、ヘッポコ・プロの
私の処へと
お連れ下さったのである。

昨年、
メンテして差し上げた
「kOHNO 1982」は
ピカピカのまんま
久しぶりにご対面したが、
さほど弾き込まれてなかった様で、
音の立ち上がりや
純度がいま一つだった。

それでも、
元々、名器ではあるので、
弾き込まれれば、
すぐさま、その真価を
発揮するだろう。




遠路はるばる
新潟から来られたので、
まずは、茶室で、
手製の黄粉餅と
薄茶点前でおもてなし
させて頂いた。

ついでに、
茶室床の間の
「結界」として見立てて
置かれてある琴で、
『さくらさくら』を
お聴き頂いた。

最近、たびたび、
オハギや善哉用の餅を
作っている。

手慣れてきて、
炊き上がったばかりの
熱々の餅米をラップに包むと
麺棒でポンコポンコ叩いて
"半殺し"の五部搗きにしたり、
餅化するまで搗ききったりしている。

それでも、
ひと手間かけて、
砂糖黄粉をかけただけでも
質素な主菓子になってくれる。





ランチ時の軽食には
三段プレートに
即席サンドイッチを
ドレッセして、
アールグレイのティーと
共に供した。







焼いただけでは硬くって
ステーキ用には出来ない牛スネも、
土鍋・オーヴン調理で
ほったらかしのまんま
2時間も火入れしてやると
柔らかく味の浸み込んだ
佳品になる。

しかも、牛スネは
スジ肉なみに安いので、
"ぼっちランチ"素材には
ありがたい。

300円では
まともな外食もできないが、
おうちフレンチなら、
原価以上の付加価値を
乗せることが出来るので、
【男子 厨房に入るべし】
である。

『アニーよ銃をとれ』
じゃないが、
『ジジイよ包丁をとれ』
である(笑)。






長らく、
PCのデスクトップ画面を
オネーチャンたちのビキニ姿で
目の保養をしていたが、
初孫のリッ君が産まれてからは、
それに優るものはない。

このコロナ禍で
おいそれと対面できないもどかしさが、
『ロミオとジュリエット』効果となり
よけいに愛しさが募るのかもしれない。

***

ユンギャン
(ユング派心理学者)として、
深層心理学者として、
このコロナ禍と
自分の人生の意味について
シンクロニシティ(synchronicity)の
観点からの思考実験を
連日している。

冬病みのロンバケとなったので、
かねてより準備していた
思考素材ノートと共に
己れの腑に落ちる
帰結に辿り着きたく思っている。

3.11という
ディープ・インパクトに於いても、
何年もかけて
その意味を問うてきた。

そして、
自分で納得のゆく
多くの気付きを得られた。

それは、
日々の個々の臨床にも役立ち、
何より、自分の安心立命に
大いに役立った。

そして、
あれから10年も経たないうちに
この世界的なコロナ禍である。

ペスト、スペイン風邪来の
人類の感染症危機である。

COVIT-19の「変異種」以外にも、
また、中国発の
ヒトへ感染する「豚インフル」、
そして、かつてない規模の
国内の爆発的「鳥インフル」…と、
ウイルス包囲網が
じわじわと人類を
すくいとろうとしているようにも
見えないでもない。

原発事故の折、
職員が命懸けで現場に残って
対処したからこそ、
今の暮らしを取り戻せた。

もし、あの折に、
総員退避したら、
おそらく、東日本全域が
放射能汚染に見舞われて、
人の住めなくなった
チェルノブイリ周辺のような
廃墟になっただろう。

現実にも、
浪江、大熊地区の一部には
廃墟が拡がり、
人気のないゴーストタウンが
其処ここに在る。

もし、コロナ治療の現場でも、
医療関係者が疲弊し、
倒れ、離れ、病院を放棄したら、
原発爆発時に
患者を置き去りにした
あの忌まわしい状況が
起こってしまう。

世界各国の
医療従事者が
命懸けで感染症と闘っている。

原発爆発で
世界的にノトーリアス(悪名高き)
になった「フクシマ」は、
今度は、コロナ爆発で、
総合病院が3ケ所も
機能不全に陥った。

感染症の専門家の分析では、
指数関数的な
感染者数の増加率からは、
PCR非検査者の陽性者が
市井に多く拡散していることの
証しであるという。

当然、
ミュータント(変異種)も
追従的に漸増するだろう。

そして、日本固有の
ミュータントが発生しても
何の不思議もない。

それは、ウイルスという生物の
主体水準で考えれば、
バイオロジカル・コレクト
(生物学的に正しい事)
の生存戦略であるからである。

かつて、
星新一か誰やらSF作家が、
人類は「隕石」や「全面戦争」で
滅びるのではなく、
未知のウイルスにやられるのでは、
と描いていた。

医療崩壊が
「今そこにある危機」で、
感染爆発中の現在、
まったくの絵空事ではない、
という事に戦慄を禁じ得ない。

【泣き面に蜂】
【踏んだり蹴ったり】
という格言があるように、
3.11体験者としては、
超巨大地震・超巨大津波・
超規模原発事故が
いっぺんに起こった
「複合災害」というキーワードを
忘れていない。

コロナ禍の上に、
年末年始の「大寒波」が
到来する。

そこに、
かねてより警告されている
首都直下地震や東南海地震が
「起こらない」と
誰が断言できるだろうか。

「災害は忘れた頃にやってくる」

宇宙律の
【作用反作用の法則】に従えば、
「自然を破壊したものは、
自然によって破壊される」
ものであり、
「生物を絶滅させてきたものは、
生物によって絶滅させられる」
のである。

***

ユングが提唱した
シンクロニシティ(共時性)は
「意味のある偶然の一致」
という意味である。

別の訳語としては、
「同時性」とか、
山中 康裕先生の造語で、
「因果律」に対して
「縁起律」なぞとも言われる。

古来、「虫の知らせ」というような
因果関係がない2つの事象が、
近似性と近接性を持つことは
経験則的に在るらしいと
巷間言われてきた。

ユングはこれを
「非因果的連関の原理」
とも呼んだ。

ユングも
自らの『自伝』で記しているが、
ケースを深層心理的に
分析してゆく過程で、
治療が奏功し、ケースが改善に
転ずる過程で、よく
共時的現象が起こる。

それは、
クライエント/セラピスト共に
体験されることが
しばしばある。

ユングは、この生起が、
人類の歴史的、社会的、生物的な
部分で集合的(普遍的)に
共有されてきた無意識の部分、
通底するコアの部分に拠るものと
考えていた。

そして、それらのクラスターを
元型(archetype)と呼んだ。



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やるべきこと

2020-12-27 07:23:00 | 音楽

コロナ禍の第三波が
依然として
ビッグ・ウェーヴとして
波打ち際まで
迫ってきている危機感がある。

世界では
感染者数が8000万人を超し、
死者数は180万人弱である。

致死率は
依然として2%弱なのは
どこか救われる気もするが、
自分は高齢・持病持ちの
ハイ・リスクなので、
罹れば「死」を覚悟せねばならない。

もっとも、
3.11の原発爆発体験で
一度、死を覚悟して
腹を括った体験があるので、
「なるようにしかならない」
という自然(じねん)
「自ずから然る」という諦念と
"運ばれてるような命"でもある
「命運」「運命」と
ご神慮にお任せしている。

それと、
重症の小児喘息児であったので、
幼少期に肺炎もたびたび併発して、
呼吸困難の苦しさは
自分にとっては
馴染みの症状でもある。

なので、
未知で未体験の症状で苦しむより
馴染みの症状で苦しんで死ぬのも
わるくないのかも…
と死に様を考えたこともある。

少なくも、
オシリ痛で悶絶死するのだけは、
御免蒙りたい(笑)。




今朝の朝刊で、
福大生が
また馬鹿の上塗りをしたようだ。

前日に、
世間に陳謝した学長が、
また、学内ガバナンスの
非徹底を言揚げされ
非難の的になりそうだ。

大学の学内閉鎖は
まだよしとしても、
深刻なのは、
西部、日赤、済生会と
市内の大きな総合病院が
いずれも外来診療を
停止したことである。

もし、この勢いで
街中の大原や
学生のクラスターが出た
医大まで診療停止になったら、
急性虫垂炎(盲腸)なぞの
緊急手術もできなくなり、
それで命を落とすという
馬鹿げた医療クライシスが生じてしまう。

加速度的に増加している
ウィルス禍の今現在、
「個人の予防意識」の有無は
そのような、
社会的危機を招来するのである。

国内は、
すでに「レベル2」の段階でなく
「レベル4」の
爆発的感染の状況に達している。

そこに、
イギリス由来の
「変異型」も侵入した。

来年6月頃の
ワクチンの実施まで、
どれほどの犠牲者が出て、
我が身も感染するのか…
予測不能のパンデミック社会の
今を生きている。

あらためて、
褌の紐を引き締めねばである。

「非常事態宣言」や
「ロックダウン(都市封鎖」」
という非常時戦略も
躊躇すべきではないが、
お上に我が身を委ねるのでなく、
「独立個人」として
自己防衛に心掛けねばならない、
というのは、
3.11の放射能災害で得た
貴重な教訓でもある。

【学習しない者 これを馬鹿という】





コロナ猛威に
数日後に迫る
数年に一度の「大寒波」。

嫌でも
「巣篭り」しろと
言わんばかりである。

我が家族を含め、
周囲でも、
帰省を断念という声を
其処此処で耳にする。

生来、
"ゼンソクだるま"と
仇名されてた、
"おうち大好き少年"
でもあったので、
お籠もりの方策は
いくらも身についている。

幼少期は、
本・お絵描き・ブロック・
プラモ作り・ギター・・・
だった。

さすがに
長じては、
ブロック・プラモもなくなったが、
代わりに、
お茶・書・ピアノ・料理が
ロンバケ中の気慰みになっている。

お弟子さん方の
国試対策への助力も
自己研鑽も兼ねて
楽しんでやっている。

荻生 徠徠は
町屋の旦那衆を集めては、
飲み食いしながら
学問談義をしていた・・・と、
小林秀雄の講演テープで
聞いたことがある。

未知なることを探求し、
自分とは、世界とは、
ということに啓蒙されるのを
旦那方は"女遊び"の比じゃないと
学問の面白さに興じ合ったという。



ベートーヴェン生誕250年の
メモリアル・イヤーも
そろそろ終焉が近い。

この一年、
『テンペスト』と『悲愴』の
三楽章のアナリーゼ(分析)と
習得すべく稽古に取り組んできた。

まだ、
全編暗譜にまでは
至ってはいないが、
読譜と音出しは終了した。

それにしても、
感心するのは、
どれだけやっても
飽きがこないのだ。

ほとほと、
楽聖の作品は
(大したものだなぁ・・・)
と、楽譜とピアノに向かうたびに
感じ入っている。

そして、
プロや上級ピアニストのように
華麗に流麗に激烈に
超スピードで演奏できなくも、
その作品が弾けるということが、
なんとも幸福感を感じるのである。

これが、
完全暗譜の暁に、
Y中の体育館グランドや
音楽堂のスタインウェイで
弾き鳴らされたら、
どれほど感動的だろう・・・と、
想像しながら練習するのも楽しい。

かつて、
私淑していた
皆川 達夫先生の御本には、
「下手でもいいから、
自ら、歌でも楽器でも
やってみることです。
さすれば、音楽する喜びは
この上ないものであることを
知ることでしょう」
とあった。

まさしく、
その通りである。

この歳になって、
老いて、ますます、
楽譜を読めること、
楽器が演奏できることの
幸せを味わっている毎日である。




毎日、
形ばかりの
"ぼっちランチ"をしている。

糖質制限食餌療法を
やってるからとて、
さすがに、まったく食べない
というわけにもいかず、
お肉一切れを
フレンチ仕立てにして
アート作品を創作するつもりで
"遊び心"を満喫させながら
あれこれ腐心している。





朝方、
ワインラックに
一本分の隙間が出来たので、
廉価のボルドー・ルージュでも
買って来ようと思っていた。

そしたら、
午前中に分析予約の入っていた
R先生が、今年最後だったので、
『お歳暮』として
1本携えてこられた。

【弟子の心構えが出来ると
 師匠が顕われる】
という
中国の故事格言を
ユンギャン(ユング心理学者)は
よく「共時性(synchronicity)」の
説明に援用する。

この世界、我々の事象界には、
「因果的関係」以外に、もひとつ
「共時的関係」というものがある、
ということを見出したのは
スイスの深層心理学者の
カール・グスターフ・ユングである。



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