『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

カツ丼と魂理学

2023-04-03 09:31:05 | 魂理学

 

 

来週の月曜まで
私的「春休み」である。

きのうも、
まずは、お昼に
「何処で、何を喰うべぇか・・・」
を決めてから、
その後の行動を決めた。

街中にある
老婆店主のやってる昭和食堂で
かつ丼を食し、次なる目的地の
『もみじ山公園』に向かった。

ここにある
板倉神社には、
6年間続けた
『復興支援リサイタル』の
成功祈願をしたこともあり、
屋外の練習場にもなっていた。

境内の古木の桜が満開から
散り際になる時に
必ずや訪れては、
『さくら変奏曲』の「第一変奏」の
花びらがチラホラ散り落ちる様子を
よくと観察し、それを音に模写した。

そこにおいて、
自然の散り具合は
「1/f」の「ゆらぎ」がある事を
発見した。

「ゆらぎ」とは、
規則性と突発性、
予測性と逸脱性が
適度に組み合わさったもので、
居心地のよい空間と情報を与え、
人の心を落ち着かせる効果がある。

近代の演奏法は、
「粒を揃える」均等な演奏が主流だが、
ルネッサンス期からバロック期の
リュート音楽では、
「イネガル/inégales」という
「不均等な」弾き方がなされていた。

それは単純な装飾法でもあるが、
簡素で角ばったリズム形に、
優雅さや趣、ときには
力強さを与える効果があった。

三枝さんが、
モーツァルト財団から依頼され、
未完品の補作を行った際も、
あえてモーツァルト風を避けて、
『オマージュ』の形をとり、
東洋風のモチーフを用いて、
その演奏には「均等」を排するように
奏者に指示をしたという。

川内村に在住していた
「琵琶仙人」と呼ばれた
錦心流薩摩琵琶の樋口主水も、
桜の花びらを散る様を
琵琶で表現する際に、
「自然は、決して均等ではない」
と語っていた。

*

こたびも
神様に拝礼し
5月のコンサートの成功を
祈願させて頂いた。

*

阿武隈川のほとりを
「隈畔(わいはん)」と
ジモティは呼ぶが、
ここから数キロばかり上流沿いの
柳町生まれの自分は、
かつて、幼少期をずいぶんと
ここを遊び場としていた。

この『もみじ山』も
そのテリトリーの一部であった。

なので、
幼い頃の自分と
老いた今の自分とが、
量子の「重ね合わせ」のように
あたかもパラレルワールドに
存在しているような
錯覚を覚えないでもなかった。

*

小一時間ほど、
ギターの練習をして、
『魂理学』系の論文も読み、
その場から次なる
野外練習場でもあり
花の名所でもある
小倉字観音に向かった。

*

カタクリの群生は
みごとに開花しており、
満開の桜と椿とあいまって、
春爛漫ここにあり・・・
といった風情だった。

*

帰宅後、
YouTubeで、
『岡崎将棋まつり』での
ソーちゃんのトークショーを見た。

明後日から、
いよいよ「七冠」達成を目指した
『名人戦』が始まる。

ついこないだ
「棋王」奪取を為したばかりの
渡辺名人が相手である。

目下、14勝3敗という
対戦成績なので、
(1-3÷14)×100≒79%
というザル確率計算での
「名人」奪取の可能性濃厚である。

残るは、
永瀬ッチ「王座」のタイトルのみで、
これを奪取すれば、
史上初の「八冠」制覇の
偉業を達成する。

まさに、
『藤井神話』の誕生である。

*

NHKはじめ民放各局も、
欧米のDSサイドの
「身びいきのお手盛り報道」の
受け売りなので、
いまだに「ウクライナ善戦」なぞと
“大本営発表”を垂れ流して
辟易する。

元ウクライナ大統領府の
報道官が、苦戦を報じてクビになり、
自由な立場になって
ゼレンスキーの人となりを暴露したり、
彼の末路を予言していた。

米国内の
退役軍人のアナリストたちも
口をそろえて、
「バフムート陥落=敗戦」
と現況を語っており、
元ウクライナ報道官と同様の
ゼレンスキーの末路を予想していた。

*

4月は
統一地方選挙が行われるが、
果たして、統一教会問題を抱えた
自民党が、どこまで支持されるのか、
国民はきちんと審判するのか・・・
注目される処である。

 


*******『魂理学』試論ノート 2 *********

ロンバケ中の今、

毎日、考えている事を
ノート、メモ代わりに、
ちょっとずつ、記しておこうと思う。

なので、シッチャカメッチャカで、
所々で論理が破綻してたり、
矛盾してたり、
混乱しているかもしれない(笑)。

いずれ、これらを整理、編集して
一冊の本にまとめたい、
と思っている。

***


エネルギーというのは、
そのものは不可視だが、
「電気エネルギー」のように
その存在により
電荷的現象が証明されたり、
なにより電化製品を稼働させて
日常生活を成り立たせている。

アインシュタインの公式
「E=mc²」は、
エネルギーと物質は
相互に変換しうるもの
ということを示している。

量子真空という
不可視な「場」は、
「純粋エネルギー」を
蓄える場でもあり、
そこから物質と反物質が
ワンセットで「対生成」されて、
観察可能な現象界に創生される。

そこからは、
ビッグバン理論により
今現在までの宇宙・生命の
誕生のプロセスが
すでに定式化されている。

*

唯脳論的な考えでは、
「自意識」は
脳内の電気的現象であるとし、
生態活動の停止後、
すなわち死後は、
それは消失するもの、
と考えられている。

無神論者や
信仰を持たない科学者は、
ほとんどがこの考えを
指示している・・・
というか、信じている。

なので、
「自意識≠魂」
であり、
そもそも「魂」なぞという
不可視なものは
不可知論的に認められない。

それは、それで一理あるので
よいとは思う。

しかし、
自分的には、
なんだか単純すぎて、
簡単に切り捨てすぎて、
形而上学的な思考を巡らすのを
忌避した、それもまた、
信念や信仰の類に
思われないこともない。

*

【何も始まらない
 何も終わらない】
という、
「無変化的な定常」状態が
無限に続くとしたら、
世界・宇宙・現象を認識する
「自意識」というのは
なかったはずである。

脳波が停止した「脳死」状態や
ノンレム睡眠期のように
意識活動が停止している状態は、
ある意味「無」の状態に近い。

脳を持つ生命体・意識体が
死して後、自意識が消滅して、
そのような「無」のみになるなら、
なにゆえに、一過性的に
「わたし」という意識が
創生されたのか・・・という、
疑問が起こる。

人智で知り得ない事は
詮索しても詮無い事・・・
という
不可知論的な思考停止もあるが、
自分が求めているのは、
納得できる仮説であり、
『物語』であり、
『自分の神話』である。

屁理屈を先に言うと、
今現在の最先端科学力とは
宇宙の「たった4%」しか解明できず、
数多の難病を克服できず、
生命体の創生もきない。

なので、
そんな微力な科学でもって、
「死=無」
と、決めつけられても、
不可知論の思考停止じゃないの・・・と、
揶揄したくもなる。

*

なかには
AI関連の工学博士号と
哲学博士号の両方を持つ、
カストラップのような人物もいて、
「自意識」の問題について
真っ向から論じている。

彼の名言に、無神論者が
怒髪天になりそうなのがあり(笑)、
「我々の存在は、
神が自分自身に気付くためにある」
と宣っている。

これは、
全米でベストセラーにもなった
『神との対話』にも出てくる
今日的には
「定説的」な仮説である。

「神が自分自身に気付く」
というのは、
無論、レトリックであるが、
『魂理学』的に述べれば
「原存在」(有意識の量子真空)は
恒久無変化の定常状態にある限り、
たとえ、それが「完全無欠性」・・・
すなわち「神性=神的性質」としても、
自身を認識することは出来ない、
という論理なのである。

例えて言えば、
光だけの場では
何物も認識し得ず、
対極の性質である「影」が生じて
はじめて認識が可能になるのである。

「恒久無変化の定常状態」の対極が、
「有限性・変化」であり、
物質・宇宙・人間の存在は
それにピタリと当てはまる。

殊に、ヒトの日常である
「年老いて死ぬ」ことの必然性が
よくよく理解できる。

*

この世を観察しうる
「自意識」がなければ、
宇宙も現象も「無」に等しい。

【我思う 故に 我在り】
という
デカルトの箴言を
ひっくり返すと、
【我在り 故に 我思う】
と出来る。

「A=B」ならば「B=A」
という数学的整合性である。

「物質と反物質」は、
元をただせば、
同一の真空エネルギーから
「対生成」によって創生された。

「有意識状態」と「無意識状態」の
二極性も、元をただせば、
それらを共に包含する
「意識状態」から創生されたとは
言えまいか。

そして、その「場(フィールド)」は、
「恒久無変化の定常状態」にある
「原存在」(=有意識の量子真空)が
想定されるのではなかろうか。

いずれも、推論の域ではあるが、
思考停止の先を考察すれば、
そのような論理展開が可能であろう。

*

宇宙や現象の
「有限性・変化性」と
「無限性・不変性」の二極性は、
量子的に「重ね合わせ」の状態に在る
と考えれば、
「自意識」は
「過去にも、現在にも、未来にも」在る、
とは言えまいか。

いささか、論理の飛躍、
論理の破綻がましいが・・・(笑)。

そもそも、
相対性理論では、
時間は絶対的なものではないという。

さらには、
「時間」というものは、
場の変化を「別の切り口」で
現したメジャーであるともいう。

音楽をやっていて、
いろんな場面で感ずることがある。

例えば、モーツァルトは、
長大な一曲を瞬時に脳内に浮かべた、
という逸話がある。

それを楽譜に書き起こして
演奏すると30分もかかる。

これは、CDやDVDには、
すでにすべての情報が
書き込まれていて、
それらを理解するには、
30分の時間を要する・・・
という現象と一緒である。

また、譜面上に書かれた
すべての音を一瞬に鳴らすとすると、
それは、もはや有意味な
「音楽」ではなく
無意味な「音」になるだろう。

「自意識」が感覚し、
感情が沸き起こるには、
時系列的な音程や長さの変化が
要るのである。

ここにおいて、
「自意識」が
「有意味」性を得るには
「時空」を要することが解かる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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