『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

46年かけて、解ったこと・・・(笑)。

2023-04-02 10:30:50 | 魂理学

 

幼稚園から一度たりとも
学校社会を離れていない、
という特異な生涯なので、
今の「春休み」も数えて
65-6=59回目である。

ならば、
ロンバケの達人であって
よい筈だ(笑)。

【何をしてもいいが
 何をしなくてもいい】
というのが
ロンバケだが、
「being」と「doing」の
相克する感情で
しばしば煩悶もさせられる(笑)。

顎関節症になるほど、
口が卑しいもんで、
ついつい、お昼は何食べようかな・・・
と、暇ロージンは
そっから一日を組み立てようとする(笑)。

*

きのうも
「ラーメン・花見・図書館」
という、この時節ならではの
チープなコンセプトで
己れを外出に向かわせた。

なんせ、
元祖“おうち大好き少年”の
オタク(お宅)なので、
出不精が祟って
デブになっちまった(笑)。

【桃李もの言わざれども
 下自ずから蹊を成す】
の箴言どおり、
「花」の持つ力は
こんなタレカ(横着者)でも
その重い腰を上げさせるので
大したものである。

「ラーメン・花見・図書館」は
「食べ物・生き物・読み物」と
巧い具合に「物」づくしである。

そっか・・・。
俺なんて、そんなもんで、
行動を促される
軽挙妄動の輩(やから)なんだぁ・・・
と、自己憐憫に陥らないでもない(笑)。

*

数日前に行ったばかりの
花桃の林に出向き、
より開花した花々に
酔い痴れた。

その近所のラーメン屋で
お昼とした。

二度目の訪問だが、
ワンタンメンは初めて。

麺とワンタンは
まずまずだったが、
スープに旨味がなかった。

半チャーハンは、
家庭では出せない
独特の店の味がして
これは佳かった。

*

花見がてら散歩もし、
久方ぶりに、
図書館のある学習センターに
入館した。

3.11の折は、
この集会室に
原発事故の避難者家族が
何世帯か滞在し、
MHFA(メンタル・ヘルス・
ファースト・エイド)で訪問し、
心理的ケアのヴォランティアを行った。

自宅も震度6で
部屋中が滅茶苦茶だったが、
そんなのを前に悲嘆にくれて
鬱々しているよりも、
ひと様の役に立つことを
“させて頂く”方が、
よほど自身の精神衛生にも
よかった。

原発爆発後、
上空には頻々とヘリが飛び交い、
亀裂の入る道路には
国防色の自衛隊車両が
始終往来していた。

それは恰も
経験したことはない
戒厳令下の非常時のようにさえ
感じられたような
非日常的な光景だった。

館内に入るや、
あの時の不安や
自信を伴わない使命感のようなものも
わずかながら彷彿させられた。

*

これまでなかったのか、
気付かなかったのか、
発掘物の展示コーナーを見つけ、
「縄文期」の小壺は
「詫び寂び」を通り越して
「時間の重み」を感じさせた。

これに似た形や大きさの
『信楽』や『素焼』の
濃茶入れや
書道で用いる水盥(すいう)は
もっているが、
片や、3~4000年前の物である(笑)。

京都の東寺の弘法市で、
古物商のオジサンに聞いた話だが、
贋作を捏造するのに、
土ん中に埋めたり、
番茶で炊いたり、
煤と汚泥を塗りつけたり・・・と、
様々な手口があるらしい(笑)。

*

出先から帰宅すると、
Amazonから狐狸庵センセイの
新刊が届いていた。

新刊と言っても、
これまで未公刊の原稿を
拾い集めて一冊に編んだもので、
全著作を蒐集しているような
コアなファンでなければ、
つまらないような
些末な小文の集大成でもある。

それでも、一か所だけ
腹を抱えて笑えた処があり、
それだけでも
草葉の陰の狐狸庵センセイの
面目躍如であった。

*

今朝の「朝刊ネタ」からは・・・

大学教授が
五年間で78人も
セクハラをしでかしたという。

その中には、
SC職を兼務しながら、
JKにやらかして懲戒免職になった
高大と同窓のWも入っているから、
嘆かわしい。

15~64歳の
「ヒッキー」が
いつの間にやら、
コロナのせいもあり、
146万人にもなったという。

今は、スマホやら
ゲームもあるから、
おこもり生活でも
独り慰みのツールには
事欠かないのだろうが・・・。

それにしても、
「80/50」問題も
ますます
深刻になってきそうである。

ニュースでもあったが、
オープンAIが公開されてから、
その利用者が世界で
爆発的に増えて、
すでに、あらたな問題が
生じ始めているという。

イタリアは個人情報の
漏洩を危惧し、
国内での使用を禁じ、
米国内でも
これ以上の開発を中止すべし、
と関わったイーロン・マスクらも
署名に加わったという。

国会でも取り沙汰され、
少子化対策などでは
首相答弁(官僚作文)を
上回るAIの解答が
議場を沸かせた。

オープンAIの登場は、
ひとつのシンギュラリティ
(特異点)なのかもしれず、
これもまた
ハンマーやナイフと同じく、
使い方で道具にも武器にもなり得る。

それ故に、
愚かな人間も少なくない人類に
無条件で預けてしまって
大丈夫なのか・・・
という危惧感が早くも
高まってきた。

 

***********『魂理学』試論 ***********

 

ロンバケ中の
『魂理学』研究も
遅々としてではあるが、
進んではいる。

真偽のほどは別として、
学際的なアプローチにより、
おおよそながら
自分が納得して
信頼に値する
「存在」の意味やら、
「自意識」の問題が
解かってきた。

カワイアン(河合派)流に言えば、
「自分の神話」が漸くにして
確立しつつある。

それには、
特定の「神」というものは
必要としない。

そして、
それは人間が付与する
「価値感」から
脱価値したものである。

その真理を単純化すると、
「自意識は永久不変」
となる。

諸宗教やスピリチュアリズムの
「霊魂不滅」
「魂は生き通し」
と言うのと同義である。

大元(おおもと)には
物質的ではない
「対生成」の場となる
量子真空的な
「大いなる一つのもの」が在る。

それを「神」や「原宇宙」
と文学的・修辞的に
置き換えると、
いささか人間的「価値観」に
還元されてしまう。

そこで、ハイデガーの
「現存在(人間)」と
語呂はおなじだが、
これを「原存在」と
魂理学では命名することにした。

それは、
時空や物質を創生する、
いわば、卵子を創り出す
「卵原細胞」のようなものである。

「原存在=量子真空」
としていいのか、
あるいは、
「≒」(ニアリー・イコール)なのか、
「≠」(ノット・イコール)なのか・・・
考察してみると、
「対生成」を生じせしめる
「場」そのものであれば、
それに続いて、時空も生じ、
生命体も生じるので、
やはり「イコール」と考えるのが
妥当と思われる。

この「自意識」は、
「大いなる一つのもの」
「量子真空」
「原存在」
のコピーであるので、
その意味で、「神の分身」という
諸宗派で語られる
教義と同じではある。

*

1ケの受精卵は
約60兆ケまで細胞分裂し、
その発生過程で、
「目・耳・鼻」では
「光・音・化学物質」を
感ずるように特異的に分化した。

【ヒトは小宇宙】
という喩えは
意に適っている。

五臓六腑ほか
諸々の諸器官・組織は
それぞれ形質(見た目と働き)が
違っている。

しかし、大元は
一ケの受精卵(単細胞)が
分かれて増えたものである。

いわば、一枚のセンベイを
60兆等分したもの(笑)。

ただ、センベイであれば、
2等分しようが、
60兆等分しようが、
味は同じはずである(笑)。

この謎の鍵が「遺伝子」で、
どの細胞もコピーながら、
例えて言えば、
数多ある遺伝子の信号が
何色に光るかで、
「目」になったり
「耳」になったりする。

そして、細胞どうしは
姿・性質を変えながらも、
互いに「絆」を保ち、
相互連絡を取り合って、
タンパク質の合成・
組織化・器官化を行い、
ひとつの「個体」を形成する。

フラクタル的な考え方をすれば、
この一つの個体を
「大いなる一つのもの」(原存在)と
見做してみるとおもしろい。

眼の視細胞や
鼻の臭細胞は、
「見た目」も「働き」も
まったく別物である。

この二つを
A人格・B人格と例えると、
やはり、別個の存在だが、
大元は同じものであり、
互い関連性を持っている。

*

哲学者の
ベルナルド・カストラップに拠れば、
我われの「個的」な「自意識」は、
多重人格における
「交代人格(alter)」に
相当するのでは、と説いている。

DID(多重人格障害)の患者に、
fMRIを実施してみると、
それぞれの人格が発現している時に、
脳の血流部位が異なっていた、
という結果が得られた。

この観察事実は、
患者の人格は、
第一人格が恣意的に(詐病的に)
表しているものではない、
という事を意味している。

仮に、ABCの三つの人格がある場合、
あたかも芥川の『藪の中』のように、
一つの現象を三人の人格が
三様に観察し、評価するのである。

しかし、これらの三人格は
一人の個体の脳内に収まっている。

心理臨床的には、
「治療」と称する過程で、
これらの三人格を
「統合」する事も可能なのである。

「一つにして三つ」という
ややこしい、問題がここに生じるが、
量子論的な「重ね合わせ」や
無数のパラレルワールドの存在、
多次元が折り重なっている、
という物理現象を考えるならば、
このパラドキシカルな命題も
直感的には理解できないこともない。

カストラップは、
この「自意識」を
「pure ipseity」(純粋な自意識)
「I-ness」(自己性)
「pure subjectivity」(純粋な主観性)
と呼ぶ。

彼の考えを敷衍すれば、
この個的な「意識」は
大元の「意識」のコピーとなる。

となれば、
やはり、宇宙以前の
「原存在」においては、
「ピュア・イプセィーティ」が在る、
と見做すのが至当ではあるまいか。

これを文学的、修辞的、
人間的、浪漫的に表現すれば、
「我々は神の分身」
となり、
「我々は宇宙そのもの」
ということになるのである。

ちなみに、神道系では、
我われ個的な霊魂を
大御神(おおみかみ)からの
「分け御霊(みたま)」
というが、
これも的を得ていよう。

***

ここまで解かるのに、
大学1年から始めたので
65-19=46年も
かかっちまった・・・。

自分や宇宙・神・存在の
納得のゆく答えを得るのに、
膨大な時間と
膨大な書物と
膨大な金銭を
浪費してしまった
ワタシの人生って、何・・・!?(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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