渇き

 「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30)

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 人間の肉は、いったいどれだけの渇きを覚えるのだろうか。
 喉の渇き、飢え、心の飢え乾き。
 金銭欲、名誉心、見栄。
 挙げていったらきりがない。

 罪のない肉を持つイエスは、極刑の十字架上で、この肉の処分を行っている。
 そのイエスが、「わたしは渇く」という。

 渇きを知ることなく、かえってサマリアの女を潤わせたイエスが、十字架上で人間と同じ渇きを体験する。
 そしてぶどう酒を受け取ると、おそらくその渇きは癒えたのだと思う。
 罪のない神の子が人間と同じ苦しみを実体験して、十字架のわざを完了する。

 今もキリストは、私たちのこの渇きをご存じだ。

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