非理性的で不合理的

 「そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」(ヨハネ19:13-16)

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 先週水曜以来毎日この聖書箇所に接していたが、どうもうまくまとまらなかった。

 ここはイエスの反逆罪について裁く法廷である。
 「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」は、ウソ、というか、狂騒状態の中で飛び出た出まかせ。
 あまりの狂騒状態にピラトは審理を放棄してしまい、反逆罪かどうかを問うことなくイエスを極刑にしてしまう。
 イエスはローマ法によってではなく、律法によってでもなく、人間達のその場の感情だけで極刑となってしまった。

 私たちは、イエスが十字架につけられたというので、ピラトを責め、狂騒した人々を責める。なぜ理性的なきちんとした裁判が行われなかったのかと。
 もし、人間の理性が肉に引きずられない完全なものだったら、確かにそうだろう。
 だが、実際に人間はそんなにきちんとした生き物などではなく、しばしば感情に、肉に引きづられる。

 ところで個人的な話になるが、仕事でかなり大きな失敗をしてしまった。
 それは「いろは」の「い」のようなもので、しかも取り返しが付かなかった。
 別件の仕事での電話対応で相手がいきなり怒鳴りだしてしまい、動揺して、その日の仕事全体がどうしようもなく非理性的でなげやりだったために発生したミスのようだ。昨年12月のことである。
 「十字架につけろ」とあまりにも騒々しいと、合理的に事を進めることが難しくなり(というより投げ出してしまい)、あっさりとイエスを十字架につけてしまう。これは人間の肉の性質なのだろう。
 イエスを取り除こうとする勢力の狂騒も、同様に肉の性質だ。
 ところが当のイエスは、そのような人間の肉に赦しを与えるために(罰ではない!)、自ら十字架に架かりに行っている。

 理性的、合理的なところとは掛け離れた行動を、人間はしばしば行う。
 私は仕事上の失敗について(それはおととい発覚した)、その不合理さに自分を責めるしかなかったが、そのような非理性的な仕事を行ってしまう私を十字架のイエスは赦して下さっている、と、この聖書箇所を読むとそう思える。
 イエスを信じるとは、神の御目に見た肉のだめさが十字架と復活ゆえに解放されたということの確信であり、私たちの、このどうしようもない肉は、信仰ゆえに赦されているのである。

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[付記]
 やはり大きなミスをすべきでないことは、いうまでもありません。
 ただ、肉はそういう状態にたやすく陥ってしまうのでは、と思います。
 つまり、ポンテオ・ピラトを毎週責めてもしょうがない、それはむしろ私たち自身の問題だろう、いう感が強いです。

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