悲しみと喜び

 「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(1ペテロ1:6-9)

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 生きていると、喜怒哀楽いろいろなことがある。そのこと自体は、誰であれそうだろう。
 信仰というのはあるかないかのどちらかしかないが、恵みにより信仰している人にとってもまた、喜怒哀楽いろいろある。
 信じたら悲しみがなくなるとか、そんなことは全くない。
 むしろ逆かもしれない。それが、信仰のゆえの悲しみであり、あるいは迫害という形で顕れるかも知れない。

 そうした悲しみに覆われている時でも、根底には喜びが潜んでいる。
 ただ、その潜んでいる喜びに気付きにくいだけで、悲しみの中にあっても、根底にあるものは救われた喜びである。
 ここで救いとは、十字架と復活を信じることができたという神の御恵みに他ならない。
 私たちには、このたましいの救いに基づく喜びが根底にあって、その上で生きてゆく上での喜怒哀楽を日々味わっている。

 そういうわけで、悲しみに覆われているときには聖書をひもとく。
 聖書に書かれていることについてあれこれ思いを巡らせているうちに、根底に隠されている喜びが顔をのぞかせてくるからだ。
 私たちは世俗の手垢にまみれた者であるが、聖書のことばがその手垢を拭い去って、地の喜びを思い起こさせてくれるかのようである。

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[付記]
 本日と同じ聖書箇所について、以前に同じタイトルで書きましたが、本日の記事はそのときとは全く異なるものです。

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