こころの空洞

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)

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 このことは、だれひとり例外がないことだと思う。
 気付くと気付かないとにかかわらず、どの人の「こころ」の中にも「暗黒の空洞」があいている、ということが。

 「心の貧しい者は幸いです。」とは、この「こころの空洞」に気付いた人、自分のこころが貧しいと心底気付いた人、この人が幸いなのだと言っているのだと思う。

 そしてイエスは、彼に言う。
 「天の御国はその人のものだからです。」

 これは私の解釈にすぎないのだが、「『こころの空洞』に気付いてよかったね、それこそがスタート地点なんだよ」ということだと思っている。

 イエスは山上の説教を、まずはこのメッセージから始められた。
 それほどまでに大切なメッセージなのだろう。
 心の貧しさに気付くか気付かないか。
 そしてそれがスタート地点だ。
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生かされている

 「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(1コリント15:20-22)

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 生かされている、キリストによって。
 気付くと、歩んできた足跡が残っている(いつだかも記した)。
 まいにちなんだかんだと続き、やはり、ある時点でふと後ろを振り返ると、やはりきちんとその足跡が延びていることと思う。

 「生きている」と捉えると、これはしんどい。
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新生

 「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:7)

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 このようなことは実にひさしぶりだ、体が鉛のようにだるくて重いというのは。

 ところで私の20代、乏しい金銭は多数の週刊誌とマンガの購入に消えていった。
 スキャンダラスで実証性に乏しいその内容を、真顔になって真剣に読んでいたものだ。
 パソコンゲームだのなんだの、その類の遊興にも身をやつした。

 今の私は、そういったものからは完全に無縁だ。
(新聞広告で見出しを見る程度。)
 歳がそうさせるのかとも思ったが、かつて読んでいた週刊誌、月刊誌の多くは、「今の私」の世代をターゲットにしている。
 そういえば、テレビというものも、ほぼ、見ない。
 結婚2年目にテレビが壊れたとき、慌てふためいて替えのテレビを買いに行ったのは一体何故だろう。

 ごく自然と変わってしまった。
 もっぱら、聖書によって。
 タイトルを「新生」としたが、こういうのを「新生」と呼んでいいのかどうかは分からない。
 ただ、確かに私は全く変わった。
 その変わりぶりは、「生まれ変わった」と言っていいほどだとは思う。

 体がだるかろうが何だろうが、私は変わったのだろう。
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仕事

 「たえずなにか有益な仕事をし、あせったり、心配しないこと。また、われわれが出会う事柄やわれわれの気分を、つねにみずから支配し、決してそれらに支配されないこと。」
(「眠れない夜のために・1」、ヒルティ、草間・大和訳、岩波文庫の1月3日)

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 このごろは小川洋子の著作にのめり込んでばかりで、すっかりとおのいていた(学生時代に太宰を読みふけったとき以来ののめりこみようだ)。
 だから、(昼休み以外では)随分とひさしぶりに聖書やその周辺を読みふけっていたことになる。

 上の短文は、2つの文章から成り立っている。
 後半は、平たく言えば、「気分に振り回されるな」ということだと思う。
 しばらくの間この2つの文を眺めていて、両者が一体不可分であることに気がついた。
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