間抜けな猿ゲーム

 「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」(ローマ12:16)

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 「自分こそ知者だ」、まったくもって間抜けな猿ゲームをし続けていたものだ。
 「いい学校」に入って自分はできると思っていた頃があった。
 学生時代音楽を創り続けていたとき、「俺よりすごいアーティストはいない」と思っていた。
 誰よりも仕事ができる、そう思っていた時期がある。
 俺に聖書を解釈させれば一流だろ? とか。

 実に、まったくもって間抜けな猿ゲームだった。あーやれやれ。

 自己顕示欲というのが誰にでも多かれ少なかれあるのだろうが、私はそれが強すぎたようだ。
 「自分こそ知者だ」、自分はできる、俺すげーだろ。
 これらを翻訳すると「私を見て」なのだろう。
 「私がここにいるから、この私を見て。私、こんなにすごいんだよ。だから、見て。見捨てないで」。

 「『ここ』にいていい」。
 ある瞬間、心底、そう感じた。
 そしてそれ以来、「心底感じ続けて」いる。
 「『ここ』にいていい」。
 日常は何一つ変わっていない。
 ただ、肩の力がすっかり抜け、いい調子だ。
 なんであんなに力が入っていたのか今となっては不思議なほどだが、実は不思議ではなく「見捨てられ不安」が大きかったからだと思っている。
 けれど、「『ここ』にいていい」から、そう不安がることもなくなった。
 「見捨てられる」ことは、なさそうだ。

 「間抜けな猿ゲーム」という言葉は、今日の帰りの電車の中、本を読んでいてふと思いついた。
 もう自分はこのゲームからおりていい、「俺すげーんだぞ」をやらなくても大丈夫なんだ、そう気付いたときには心底ほっとした。
 誰とも張り合う必要はなく、肩肘張らずに済みそうだ。
 そして、「俺すげーんだぞ」をやらなくなると、きっと「あいつは馬鹿だ」もなくなってくれるだろう。
(両者ともゼロになるとも思っていない、つまり「相対的にずっと」ということ。)
 「高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に」、自分が偉ぶるでもなく、(下かも知れない)人も卑下せず。
 たんに課せられたことをなし、しかし、なしたからといって「偉い」わけでも何でもない。
(あたりまえだが。)

 「『ここ』にいていい」。
 「ここ」とはどこか。
 この家でもオフィスでもない。そういう「特定の場所」ではない。
 「世界」?
 今の私には、よくわからない。
 こたえなんか、なくていい。
 でも、確信でも得るためにでも、聖書をぱらぱらめくってみようか。

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 すると、ブログだのホームページだのを書く「動機」もなくなってくる。
 まあ、こっちの「聖書」の方はライフワークと思って、思いついたときの備忘録くらいの位置付けで、暇なときにでも書き込むことでしょう。ネタ自体は結構ありますし。
 今日は川柳を2つ作ったけど、ま、「川柳」は人様のを日々楽しむくらいでいいかな?
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