こころの中のイエス

 「ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。」(ルカ19:2-7)

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 ザアカイ。取税人のかしら。
 みなからは「罪人」と呼ばれ陰口叩かれ、嫌われている。
 おそらくそれは、ザアカイ自身も自覚(自責)していたことと思う。

 イエスは、このザアカイのもとに来られた。
 「みな」の誰かではなく。
 イエスは、このザアカイのようなやつをこそ、救いに来られた。
 「「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶや」く連中なんかはどうでもいいかのように。

 イエスはザアカイのもとを去る。
 けれどもザアカイのこころの中には、イエスは居続ける。
 いつまでも、居続ける。
 みなは相も変わらず、ザアカイを「罪人!」と言い続けることだろう。
 けれども、イエスを内に迎えたザアカイは、意に介さない。
 「こころの中のイエス」、その素晴らしさに比べれば、 なんともちっぽけなもんだ。
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